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【最終章突入】職業「勇者」って言われたのですが、一緒に転移した同級生いわく違うらしい ~正しい職業を知りたい今日この頃~  作者: 有馬 茶
第2部 ~巡礼~

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第26話「旅立ちの朝」

第2部「巡礼」スタートです!

夜明け前の訓練場は、 青い沈黙の底に沈んでいた。


石畳に降りた霜が、 まだ溶けきらずに、 薄い硝子のように光っている。

吐く息は白く、 吸う息は、 肺の奥まで刺すように冷たかった。

東の城壁の向こうで、 空の縁だけが、 わずかに、 灰と紫のあわいに染まり始めている。


その訓練場の中央に、 二つの影が、 向かい合って立っていた。


一つは、 岩を削り出したような巨躯。

顔の左半分を斜めに裂く古傷が、 薄明の中で、 黒い川のように見えた。

肩に担いだ木剣は、 ただの訓練用の木の棒であるはずなのに、 その男の手にあるだけで、 鍛えられた鋼のような重さを帯びていた。


騎士団長、 ガルド。


もう一つの影は、 僕だった。


左腕の添え木が外れたのは、 三日前のことだ。

澪さんは、 何度も、 何度も、 骨の具合を指で確かめてから、 ようやく、 小さくうなずいてくれた。

「……もう、 大丈夫。 でも、 最初の一週間は、 無理はしないで」

その「無理はしないで」の、 舌の根も乾かないうちに、 僕はこうして、 騎士団長と向かい合っている。

澪さんには、 たぶん、 後で叱られる。


「……一本だけだ」

ガルドさんが、 低く言った。

「旅に出る前に、 お前の剣を、 もう一度だけ見ておきたい。 灯は使うな。 誰の声も、 ここにはない。 お前の、 お前だけの剣を、 見せてみろ」

「はい」


木剣を、 構える。


親指は、 ここ。

小指で、 締める。

四か月前、 初めて木剣を握らされた日に、 ガルドさんの大きな手が、 僕の手を包むようにして教えてくれた握り。

今では、 意識するまでもなく、 指が、 そこに収まる。


息を、 吐いた。


白い吐息が、 二人の間の空気に、 ほどけて、 消えた。


――その、 消える瞬間に、 ガルドさんが動いた。


いや。

動いた、 と認識したときには、 もう、 木剣が目の前にあった。


岩が、 落ちてくるようだった。

空気が、 その一撃の前で、 押し潰されて、 鳴った。

四十年、 守るためだけに振るわれ続けてきた剣。

その重さが、 木剣の一振りに、 余すところなく、 込められていた。


受けるな、 と体が叫んだ。


受ければ、 腕ごと持っていかれる。

灰色峡谷で、 グラズの棍棒を受けたときの、 骨の奥に残る記憶が、 そう叫んでいた。


だから、 僕は、 受けなかった。


木剣の切っ先を、 ほんのわずかに、 傾けた。

落ちてくる岩の、 その側面に、 刃を添わせる。

力で止めるのではなく、 流れの向きを、 指一本分だけ、 変える。


エレオノーラさんの剣だった。

四か月、 毎朝、 夜明けとともに打ち合い続けた、 あの、 速く、 正確で、 無駄のない剣。

その理が、 いつの間にか、 僕の手首の中に、 静かに棲みついていた。


ガルドさんの木剣が、 僕の剣の上を、 滑った。

乾いた摩擦の音が、 霜の降りた訓練場に、 長く、 長く、 尾を引いた。

岩の落下が、 わずかに、 逸れる。

僕の左肩の、 外側の、 空気だけを裂いて、 石畳へと叩きつけられる。


霜が、 砕けて、 舞った。


その、 白い粉塵の中へ。

僕は、 踏み込んだ。


息を、 吐く。

肩の力を、 抜く。

力を入れるのは、 振り下ろす最後の、 一瞬だけ。


ミルスの森で、 トマスくんの前に飛び込んだ、 あの一振り。

決闘で、 志賀の頬に一筋の線を刻んだ、 あの一振り。

灯の力を借りずに。

誰の声にも、 背を押されずに。

ただ、 四か月分の夜明けと、 四か月分の素振りと、 四か月分の、 まめが潰れては固まった手のひらだけを頼りに。


木剣が、 弧を描いた。


――こん、 と。


驚くほど、 小さな音だった。


僕の木剣の切っ先が、 ガルドさんの、 鎧の胸当ての、 ちょうど心臓の上を、 軽く、 叩いていた。


訓練場が、 静まり返った。


霜の粉塵が、 ゆっくりと、 夜明けの光の中に、 降りていく。


ガルドさんは、 動かなかった。

石畳に叩きつけた木剣を、 握ったまま。

自分の胸に当てられた、 僕の木剣の先を、 じっと、 見下ろしていた。


やがて。

傷だらけの顔が、 くしゃりと、 歪んだ。


「……一本、 だな」


その声は、 かすれていた。


「はい」

僕も、 かすれた声で、 答えた。

腕が、 震えていた。

今になって、 心臓が、 早鐘のように打ち始めていた。


ガルドさんは、 木剣を、 ゆっくりと、 肩に担ぎ直した。

それから、 空を見上げた。

東の城壁の向こうで、 空が、 紫から、 淡い金色へと、 変わり始めていた。


「……四十年だ」

ガルドさんが、 ぽつりと言った。

「四十年、 騎士をやってきて。 見習いに、 一本を取られたのは、 これで二度目だ」

「二度目、 ですか」

「一度目は、 アルベルト殿下だった。 殿下が、 ちょうど、 今のお前と同じ年の頃だ」

ガルドさんの目が、 遠くを見ていた。

「殿下の剣は、 眩しかった。 太陽のような剣だった。

 誰もが見惚れて、 誰もが、 ついていきたくなる剣だった。

 ……だが、 あの剣は、 誰にも、 隣に立つことを許さなかった」


ガルドさんは、 僕を見た。


「お前の剣は、 違う」

「……」

「お前の剣は、 眩しくない。 派手でもない。 見惚れるような剣じゃない。 だが」


大きな手が、 僕の頭を、 乱暴に、 かき回した。

四か月前と、 同じように。

「お前の剣の隣には、 立ちたくなる」


胸の奥が、 熱くなった。

灯ではなかった。

職業札は、 静かなままだった。

それなのに、 胸の奥が、 どうしようもなく、 熱かった。


「行ってこい、 坊主」

ガルドさんは、 背を向けた。

「四神殿の先で、 お前の正しい職業とやらを、 見つけてこい。

 ……そして、 帰ってこい。 それが、 騎士団長からの、 最後の命令だ」

「……はい!」


僕は、 その大きな背中に向かって、 深く、 深く、 頭を下げた。


東の城壁の上に、 太陽が、 顔を出した。

訓練場の霜が、 一斉に、 金色に輝いた。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




王城の正門の前に、 一台の幌馬車と、 三頭の馬が並んでいた。


幌馬車の御者台には、 剛が座っていた。

王国騎士の、 真新しい銀の鎧。

その胸に、 城壁を象った紋章が、 誇らしげに刻まれていた。

「難しいことは分からんが、 騎士の鎧ってのは、 重いな」

「剛は、 それくらいが、 ちょうどいいよ」

「おう。 そう思う」


幌の中では、 澪さんが、 薬草の詰まった木箱を、 一つひとつ、 確かめていた。

傷薬。

解毒薬。

熱冷まし。

骨を繋ぐ薬。

王都の治療院から、 マルタさんが、 持てるだけ持たせてくれたものだった。

「……足りるかな」

「足りなくなったら、 道中で、 薬草を摘みながら行こう」

「……うん」

澪さんは、 木箱の蓋を閉めた。

それから、 僕の左腕を、 ちらりと見た。

「……今朝。 訓練場で、 何してたの」

「え」

「……リゼさんが、 教えてくれた。 騎士団長と、 打ち合ってたって」

「……一本だけ、 だよ」

「……」

澪さんは、 無言で、 僕の左腕の肘を、 指先で、 ぎゅっと押した。

「――っ、 痛っ」

「……痛いなら、 まだ、 無理しちゃ駄目ってこと」

澪さんは、 ぷいと顔を背けた。

その耳が、 少しだけ、 赤かった。


古賀は、 自分の馬の鞍に、 羊皮紙の束を、 ぎっしりと詰め込んでいた。

四神殿にまつわる古い伝承。

魔物の記録。

大陸の地図。

ヴェルダさんの研究室から、 書き写させてもらったものだという。

「旅の途中で、 全部読むつもり。 鑑定士は、 読んでなんぼだからね」

「古賀、 馬、 乗れるようになったの?」

「……この一か月で、 死ぬ気で練習した。 尻の皮、 三回剥けた」

古賀は、 遠い目をした。


そして、 エレオノーラさん。

濃紺の騎士服に、 旅装の外套を羽織り、 栗毛の馬の手綱を握っていた。

腰には、 細身の剣。

その横顔は、 凛として、 けれど、 どこか、 晴れやかだった。

三年間、 城の中で、 兄の帰りを待ち続けた王女が、 初めて、 自分の足で、 城の外の世界へ踏み出していく。

そんな顔だった。


シロガネが、 僕の足元で、 尾を振っていた。

銀色の毛並みは、 この一か月で、 すっかり、 冬の月の輝きを取り戻していた。

脇腹の傷は、 澪さんの薬で、 跡形もなく塞がっていた。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




見送りの人々が、 正門の前を、 埋め尽くしていた。


「ハルト様……!」

リゼさんが、 白い布の包みを、 両手で差し出した。

「旅の間の、 お守りです。 わたし、 刺繍をしました。 下手ですけれど……」

包みを開けると、 一枚のハンカチが入っていた。

真っ白な布の隅に、 小さな灯草の花が、 一針一針、 丁寧に、 縫い取られていた。

「あの日、 ハルト様にいただいたハンカチは、 わたしのお守りなので、 お返しできません。 ですから、 その代わりに」

リゼさんは、 頬を赤くして、 うつむいた。

「……必ず、 お帰りくださいね」

「うん。 ありがとう、 リゼさん。 大切にする」


「勇者様!」

トマスくんが、 見習い騎士の仲間たちと一緒に、 駆け寄ってきた。

「ぼく、 この一か月で、 剣、 上手くなりました!

  勇者様が帰ってくるまでに、 もっと、 もっと、 上手くなります!」

「うん。 楽しみにしてる」

「それで、 いつか、 勇者様の隣に立てる騎士になります!」

トマスくんは、 胸を張った。

そばかすの顔が、 朝日を受けて、 輝いていた。


「――白峰様」

宰相のバルトロさんが、 革の帳面を、 一冊、 差し出した。

使い込まれた表紙。

召喚の日から、 ずっと、 何かを書き留め続けていた、 あの帳面だった。

「これは……」

「私が、 この四か月、 白峰様について書き留めてきたものです。

  ……いえ、 白峰様のことだけではございません。

   白峰様が、 この国で、 何をご覧になり、 誰と会い、 誰を助けたか。

    その記録でございます」


バルトロさんは、 わずかに、 口元を緩めた。

「旅の途中で、 ご自分が何者なのか、 分からなくなったときに。

  お読みください。 私は、 見るべきものを、 見ておりましたので」


僕は、 帳面を、 両手で受け取った。

ずしりと、 重かった。


「――ほれ、 坊や。 これを持っておいき」

ヴェルダさんが、 杖をつきながら、 小さな水晶の欠片を、 僕の手に握らせた。

「あたしの研究室の、 水晶玉の欠片さ。 遠くにいても、 これに話しかければ、 あたしに声が届く。

 一日に一度、 ほんの少しの間だけだけどね」

「ヴェルダさん……」


「三百年前のことが分かったら、 真っ先に、 あたしに教えるんだよ。

 年寄りに、 冥土の土産を持たせるのは、 若者の務めだからね」

ヴェルダさんは、 ふぇっふぇっと、 喉の奥で笑った。


美咲さんは、 大きな風呂敷包みを、 剛の御者台に押しつけていた。

「保存のきく干し肉と、 乾パンと、 あと、 王都のお米で作った、 おせんべい。

 ちゃんと、 毎日、 三食食べるのよ。

  澪ちゃん、 白峰くんが食べなかったら、 口に詰め込んでいいからね」

「……はい、 そうします」

澪さんが、 真顔でうなずいた。


奏さんは、 竪琴を抱えて、 正門の脇の石段に、 腰かけていた。

「わたしは、 歌わないよ、 今日は」

「え?」

「旅立ちの歌は、 帰ってきたときに、 一緒に歌うの。 ……だから、 ちゃんと、 帰ってきてね」

奏さんは、 ふわりと笑った。

「いいね、 それ」


三枝さんは、 結界師団の、 淡い青色のローブを纏っていた。

宮廷結界師団への、 正式な任官の証だった。

「し、 白峰くん……。 わ、 私、 王都を守ります。 み、 みんなが帰ってくる場所を」

「うん。 三枝さんがいてくれたら、 安心だ」

三枝さんは、 真っ赤な顔で、 それでも、 まっすぐに、 僕を見て、 うなずいた。

四か月前の、 背中を丸めていた三枝さんは、 もう、 どこにもいなかった。


人垣の、 一番後ろ。

王城の厩舎の方角から、 一人の若者が、 こちらを見ていた。

小田切だった。

厩番の作業着を着て、 藁くずを髪に付けたまま。

目が合うと、 小田切は、 気まずそうに、 視線を逸らした。

それから、 小さく、 片手を上げた。

シロガネが、 その姿を、 金色の瞳で、 じっと見つめていた。

そして、 一度だけ、 尾を、 ゆっくりと振った。


最後に、 国王レオンハルトが、 正門の前に進み出た。

エレオノーラさんが、 馬から降りて、 父王の前に、 膝をついた。


「……エレオノーラ」

「はい、 父上」

「余は、 三年前、 そなたの兄を、 送り出した。 そして、 帰ってきたのは、 折れた剣だけだった」

王の声が、 わずかに、 揺れた。

「今日、 余は、 そなたを送り出す。 ……余は、 恐ろしい」

「存じております、 父上」

エレオノーラさんは、 顔を上げた。

その青い瞳は、 少しも、 揺らいでいなかった。

「ですが、 わたくしは、 兄とは違います。 わたくしの隣には、 隣に立つことを許してくださる方が、 おりますので」


王は、 しばらく、 娘の顔を見つめていた。

それから、 僕を見た。

僕は、 黙って、 深く、 頭を下げた。


王は、 小さく、 けれど、 確かに、 うなずいた。

「……行け。 そして、 必ず、 帰ってこい。 皆で」




◆◆◆◆◆◆◆◆◆








王都の東門をくぐると、 街道は、 なだらかな丘陵の間を、 東へ、 東へと、 どこまでも伸びていた。


修復を終えたばかりの東門の、 真新しい樫の扉。

その扉が、 背後で、 少しずつ、 小さくなっていく。


一度だけ、 振り返った。


城壁の上に、 人影が並んでいた。

手を振る人。

旗を振る人。

その中に、 金の冠の人影が、 微動だにせず、 立ち続けているのが見えた。


「……振り返るのは、 一度だけにしましょう」

隣で、 栗毛の馬に揺られながら、 エレオノーラさんが言った。

その目も、 城壁の上の、 金の冠を、 見つめていた。

「二度振り返ると、 足が、 止まってしまいますから」

「……はい」


僕たちは、 前を向いた。


街道の先に、 最初の目的地があった。

東の交易都市、 リンドール。

そして、 その東の山中に眠る、 四神殿の一つ目。


――暁の神殿。


「三百年前の勇者は、 最初に、 暁の神殿を訪れたと言われてる」

馬上で、 古賀が、 羊皮紙の束をめくりながら言った。

尻の皮が三回剥けたという割には、 古賀の馬の扱いは、 なかなか、 様になっていた。

「神殿には、 『守護者』と呼ばれる何かがいて、 訪れた勇者の資格を、 試すらしい。

 試しに合格すれば、 神殿に残された伝承を、 見ることができる」

「守護者……」

「それ以上のことは、 どの記録にも、 書いてない。

  ……つまりね。 試しを受けた者は、 誰も、 その中身を、 書き残さなかったってこと」

古賀は、 眼鏡を押し上げた。

「お約束だと、 そういうのは、 大体、 書き残せないような、 何かがあるんだよね」


「それと、 リンドールには」

エレオノーラさんが、 静かに、 付け加えた。

「姫野殿が、 店を開いていると聞いています。 そして、 その近くのオルド村では、 宇佐美殿が、 代官を務めておられる」


僕は、 黙って、 うなずいた。


王都を発つ前に、 澪さんが、 マルタさんと一緒に、 薬師ギルドに提出した報告書のことを、 思い出していた。

浄化の工程を省いた、 依存性のあるポーション。

その報告書は、 王都の薬師ギルドから、 東のリンドールの薬師ギルドへと、 回されているはずだった。


そして、 オルド村。

旅立つ前の夜に、 バルトロさんが、 低い声で教えてくれた。

『オルド村の代官は、 着任して二か月で、 税を、 三割、 引き上げたそうでございます。 新しい農法を、 村じゅうの畑に、 強いているとも』


「……会えたら、 話をしたいね。 宇佐美とも、 姫野さんとも」

僕が言うと、 古賀が、 苦笑した。

「白峰氏は、 ほんと、 そういうとこだよね」

「そういうとこ?」

「なんでもない。 ……お約束、 でしょ」




◆◆◆◆◆◆◆◆◆








旅立ちから、 二日目の夕暮れ。


街道は、 深い森の中へと、 入っていた。

両脇から、 黒々とした針葉樹の枝が、 覆いかぶさるように、 迫ってくる。

夕日の光は、 もう、 梢の上にしか、 届いていなかった。

森の底は、 すでに、 夜の色をしていた。


先頭を歩いていたシロガネが、 不意に、 足を止めた。


耳が、 ぴんと立った。

鼻を、 低く、 地面に近づける。

銀色の毛並みが、 首筋から背中にかけて、 ざわりと、 逆立った。


「……シロガネ?」


シロガネは、 答えなかった。

ただ、 喉の奥で、 低く、 長く、 唸った。

それは、 これまでに聞いたことのない唸り声だった。

怒りでも、 警戒でもない。

もっと、 冷たい。

もっと、 深い。


――怯え、 に近い何か。


「……白峰くん」

幌の中から、 澪さんが、 顔を出した。

その顔が、 青ざめていた。

「……この匂い」


風が、 森の奥から、 吹いてきた。


焦げた、 匂いがした。

木の焦げる匂い。

布の焦げる匂い。

そして、 その奥に、 甘ったるく、 鼻の奥にまとわりつくような、 別の匂い。


「……血、 だ」

剛が、 御者台の上で、 盾を、 手に取った。


僕たちは、 馬を降りた。

剣を抜いた。

シロガネの後について、 街道の曲がり角の向こうを、 覗き込んだ。


そこに、 馬車が、 あった。


いや。

馬車だったもの、 が。


三台の荷馬車が、 街道の真ん中で、 横倒しになっていた。

幌は、 焼け焦げて、 黒い骨組みだけが、 肋骨のように、 夕闇の中に突き出していた。

積み荷の木箱が、 あたりに散乱していた。

割れた壺。

裂けた麻袋。

こぼれ落ちた麦の粒が、 黒い地面の上に、 星屑のように散らばっていた。


人の姿は、 なかった。

馬の姿も、 なかった。


ただ。


横倒しになった荷馬車の、 その車輪に。

焼け焦げた幌の、 その骨組みに。

街道の両脇の、 針葉樹の幹に。


白い糸が、 絡みついていた。


絹のように細く。

けれど、 夕闇の中で、 鈍く、 ぬらりと光る、 太い糸。

それが、 森の奥へと、 何本も、 何本も、 伸びていた。

まるで、 何かを、 引きずっていったかのように。


「……鑑定」

古賀が、 震える声で、 つぶやいた。

眼鏡の奥の目が、 淡い光を帯びた。

その光が、 白い糸の一本に、 触れた瞬間。


古賀の顔から、 血の気が、 引いた。


「……黒霧の大蜘蛛」

古賀の唇が、 かすかに、 震えていた。

「ヴェルダ様の記録に、 あった……。 霧を吐いて、 獲物の目を奪って、 糸で絡め取って、 巣に引きずり込む。 獲物を、 すぐには殺さない。 巣の中で、 生かしたまま――」


古賀は、 最後まで、 言わなかった。


森の奥から、 声が、 聞こえた。


か細い、 声だった。

子どもの、 声だった。


「……たすけて……」


風に乗って。

糸の伸びる、 森の奥の、 さらに奥から。


「……だれか……たすけて……」


僕は、 剣を、 握りしめた。


胸のポケットの職業札が、 ほんのりと、 温かくなった。


隣で、 エレオノーラさんが、 剣を構えた。

剛が、 盾を掲げた。

澪さんが、 薬草の木箱を、 肩にかけた。

古賀が、 震える手で、 羊皮紙を、 鞍に押し込んだ。

シロガネが、 唸り声を、 怯えから、 怒りへと、 変えた。


誰も、 何も、 言わなかった。

言う必要は、 なかった。


夕闇が、 森の底を、 完全に、 呑み込もうとしていた。

その闇の奥へと伸びる、 白い糸の道を。

僕たちは、 踏み込んでいった。

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