第25話「職業『勇者』(候補)」
目を覚ますと、 見慣れた治療院の天井があった。
高い天井。
古い修道院の、 石のアーチ。
窓から差し込む、 柔らかな午後の光。
薬草の匂い。
「……おう。 起きたか、 陽翔」
隣の寝台から、 聞き慣れた声がした。
首だけを動かして、 そちらを見る。
全身を包帯でぐるぐる巻きにされた大きな体が、 寝台からはみ出しそうになって、 横たわっていた。
その顔だけが、 包帯の隙間から、 にっと笑っていた。
「……剛」
「三日、 寝てたぞ、 お前。 俺は、 二日で起きた。 俺の勝ちだな」
「……何の勝負なの、 それ」
思わず、 笑った。
笑ったら、 左腕に響いた。
左腕は、 肩から指先まで、 添え木と包帯で、 がちがちに固められていた。
「聞いたぞ。 グラズの角を、 斬り落としたんだってな」
「……みんなで、 だよ。 剛が東門を守ってくれたから、 間に合ったんだ」
「そっか」
剛は、 天井を見上げた。
「……陽翔」
「うん」
「東門、 ちゃんと、 守ったぞ」
「うん。 聞いた。 ローデリヒさんから」
僕は、 隣の寝台に、 右手を伸ばした。
剛が、 包帯だらけの手を、 伸ばしてきた。
二人の手が、 寝台と寝台の間で、 ぶつかるように、 握り合った。
「ありがとう、 剛。 剛は、 最高の壁だよ」
「……難しいことは分からんが」
剛の声が、 少しだけ、 震えた。
「お前にそう言われるのが、 一番、 嬉しい」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
王都大侵攻から、 七日が過ぎた。
魔王軍は、 北の砦の向こうまで、 退いていった。
北の砦は、 まだ、 魔王軍の手の中にあった。
戦が、 終わったわけではなかった。
けれど、 王都は、 守られた。
そして、 守られなかったものも、 あった。
王城の裏手の、 灯草の丘。
王家の霊廟の、 その少し下の斜面に、 新しい墓標が、 いくつも、 並んでいた。
百三十七。
王都大侵攻で、 命を落とした兵の数だった。
僕は、 左腕を吊ったまま、 その墓標の前に立っていた。
隣に、 エレオノーラさんがいた。
シロガネが、 僕の足元に、 静かに伏せていた。
王が、 一人ひとりの名前を、 読み上げていた。
騎士。
守備隊の兵。
志願した民兵。
その中には、 東門で、 剛と一緒に門を押さえた兵の名前もあった。
北の城壁で、 僕の隣で、 オーガと戦っていた兵の名前もあった。
名前が一つ読み上げられるたびに、 墓標の前に集まった家族の中から、 嗚咽が漏れた。
僕は、 その一つひとつの名前を、 胸に刻んだ。
守れなかった人たち。
十万の人を守った戦の、 その陰で、 失われた、 百三十七の灯。
「……全員を、 守ることは、 できませんでした」
最後の名前が読み上げられた後で、 僕は、 小さく言った。
エレオノーラさんは、 しばらく、 黙っていた。
それから、 静かに、 答えた。
「ええ。 誰にも、 できません。 兄にも、 父にも、 あなたにも」
エレオノーラさんは、 墓標の列を、 見つめていた。
「だからこそ、 覚えていなければならないのです。
守れなかった人の名前を。 そして、 その人たちが守ったものを」
風が、 灯草の丘を、 吹き抜けた。
白い小さな花々が、 一斉に、 揺れた。
まるで、 百三十七の灯が、 揺らめいているように見えた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その日の午後。
王城の大広間で、 戦勝の式典が開かれた。
と言っても、 華やかなものではなかった。
王の意向で、 宴は、 開かれなかった。
戦で命を落とした者たちへの、 喪が明けるまでは、 と。
ただ、 戦で功を立てた者たちを、 王が、 一人ひとり、 労うだけの、 簡素な式だった。
「――重騎士、 大河内剛」
王の声に、 剛が、 松葉杖をついて、 前に進み出た。
「東門にて、 盾を捨て、 その身を以て門となり、 内なる門を閉ざす時を稼いだ。
その功により、 王国騎士の位と、 『城壁の騎士』の名を、 授ける」
「……っ、 あ、 ありがとう、 ございます」
剛が、 深々と頭を下げた。
大広間の騎士たちから、 剣の柄で盾を打ち鳴らす、 盛大な音が上がった。
「壁だ!」
「城壁の騎士!」
ローデリヒさんが、 片腕を振り上げて、 誰よりも大きな声で、 叫んでいた。
「――結界師、 三枝陽菜」
三枝さんが、 真っ赤な顔で、 震えながら、 前に進み出た。
「北の城壁にて、 火の雨を防ぎ続け、
さらに、 西区の水門にて、 ただ一人、 光の壁を張り、 避難民の子らを守り抜いた。
その功により、 宮廷結界師団への、 正式な任官を許す」
「わ、 わ、 私が……! は、 はい……! あ、 ありがとう、 ございます……!」
三枝さんは、 何度も、 何度も、 頭を下げた。
ヴェルダさんが、 その背中を、 杖の先で、 こつんと叩いた。
「ほら、 胸を張りな、 嬢ちゃん。 あんたは、 もう、 立派な結界師だよ」
薬師、 柚木澪。
料理人、 芹沢美咲。
吟遊詩人、 新井奏。
鑑定士、 古賀悠。
一人ずつ、 名前が呼ばれた。
一人ずつ、 王が、 その功を、 讃えた。
澪さんは、 小さく頭を下げただけで、 すぐに、 列の後ろに戻っていった。
美咲さんは、 「ちゃんと、 みんながご飯を食べてくれたから」と、 照れくさそうに笑った。
奏さんは、 「いいね、 それ。 歌になる」といつもの調子で発言して、 王を、 少しだけ困らせた。
古賀は、 「俺は、 見てただけなんで」と、 眼鏡を押し上げた。
その頬が、 少しだけ、 赤かった。
そして、 最後に。
「――白峰陽翔」
僕は、 シロガネと一緒に、 前に進み出た。
王は、 しばらく、 僕を見つめていた。
それから、 静かに、 言った。
「そなたには、 称号を授けぬ。 そなた自身が、 それを望まなかったゆえ」
大広間が、 ざわめいた。
「その代わりに、 一つだけ、 告げる」
王は、 玉座から立ち上がった。
そして、 僕の前まで、 歩いてきた。
「白峰陽翔。 そなたは、 アルセリアの友だ。 この国の、 すべての民の、 友だ」
王は、 僕に向かって、 深く、 頭を下げた。
召喚の日と、 同じように。
大広間が、 静まり返った。
「……陛下」
僕は、 慌てて、 頭を下げ返した。
「僕のほうこそ。 この国の皆さんに、 たくさん、 灯を分けてもらいました。 ありがとうございました」
胸のポケットが、 ふわりと、 温かくなった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
式典の後。
西の塔の、 丸い研究室。
ヴェルダさんと、 古賀と、 エレオノーラさんと、 僕。
四人で、 机を囲んでいた。
机の上には、 三百年前の従者の手記が、 開かれていた。
「グラズの、 最後の言葉だけどね」
ヴェルダさんが、 低い声で言った。
「『灯を持つ者。 三百年ぶりだ』。
『あの方が言っていたとおりだ。 いつか、 また、 灯を持つ者が来る』。
そして、 『魔王様』」
「……三百年前にも、 誓約の灯を持った勇者がいた、 ということでしょうか」
エレオノーラさんが、 眉をひそめた。
「でも、 三百年前の勇者のスキルは、 【聖剣術】と【勇者の加護】だったと、 ヴェルダ様は」
「ああ。 公式の記録では、 そうさ」
ヴェルダさんは、 手記の、 最後のページを、 開いた。
そこは、 破り取られていた。
鋭い刃物で切り取ったような、 まっすぐな切り口だった。
「でも、 この手記には、 最後の数ページがない。 誰かが、 切り取ったんだよ。 三百年前のどこかで」
古賀が、 眼鏡を押し上げた。
「……つまりね。 三百年前に、 何かがあった。
公式の記録には残せない、 何かが。 それと、 魔王が、 どこかで、 繋がってる」
古賀は、 一度、 言葉を切った。
「で、 そういうのを確かめるなら、 お約束としては……」
「四神殿、 さ」
ヴェルダさんが、 古賀の言葉を、 引き取った。
「この大陸の、 東西南北に、 古い神殿が、 四つある。
三百年前の勇者は、 その四つの神殿を巡って、 最後に、 聖剣を手に入れたと言われてる。
神殿には、 それぞれ、 勇者にまつわる古い伝承が、 残されているはずさ」
ヴェルダさんは、 僕を見た。
「勇者とは何なのか。
候補とは何なのか。
誓約の灯とは、 何なのか。
三百年前に、 何があったのか。 そして」
皺だらけの指が、 机の上の地図の、 北の果てを、 叩いた。
魔王城。
元の世界へ帰るための、 古代の門が眠る場所。
「あんたたちが、 元の世界へ帰る道も。 全部、 その先にある」
僕は、 胸のポケットから、 職業札を取り出した。
【職業:勇者(候補)】
薄く、 透き通るような、 「候補」の二文字。
――僕の、 正しい職業を、 知りたい。
召喚されてから、 ずっと、 そう思ってきた。
その答えが、 四つの神殿の先に、 あるのかもしれない。
「……行きます」
僕は、 顔を上げた。
「腕が治ったら。 四神殿を、 巡りに」
「わたくしも、 参ります」
間髪入れずに、 エレオノーラさんが言った。
「監視役ですので」
それから、 少しだけ、 頬を赤くして、 付け足した。
「……それと、 隣に立つと、 約束しましたので」
「……俺も、 行っていいかな」
古賀が、 小さく手を挙げた。
「解説役、 クビになったばっかりだけど。
鑑定士なら、 旅の役に、 少しは立てると思うし。 それに」
古賀は、 眼鏡を押し上げた。
「三百年前に何があったのか、 正直、 めちゃくちゃ、 気になる」
ヴェルダさんが、 ふぇっふぇっと、 喉の奥で笑った。
「決まりだね。
……まあ、 あの薬師の嬢ちゃんと、 城壁の騎士の坊やも、 黙っちゃいないだろうけどね」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
それから、 さらに五日後。
王都の東門の前に、 二台の馬車が並んでいた。
志賀派が、 王都を発つ日だった。
東門は、 まだ、 修復の最中だった。
破られた二枚の門の代わりに、 仮の木の柵が、 立てられていた。
その柵の脇を、 馬車が、 ゆっくりと、 通り抜けようとしていた。
一台目の馬車の御者台に、 吉岡が座っていた。
荷台には、 片脚に添え木を当てた志賀が、 腕を組んで、 座っていた。
その隣で、 堂島が、 黙って、 志賀の荷物を抱えていた。
二台目の馬車には、 宇佐美と、 姫野さんが、 乗っていた。
花菱さんは、 来ていなかった。
ドルマン侯爵家の屋敷に、 そのまま、 留まることになったらしい。
「ルーカス様のお父様が、 莉愛のこと、 すっごく気に入ってくれたかなー?」
そう言って、 侯爵家の紋章の入った馬車で、 迎えられていったと、 古賀が教えてくれた。
宇佐美は、 東の交易都市で、 ある貴族の領地の、 代官の職を得たのだという。
「論理的に言って、 知識は、 使う立場に立たなければ意味がない」
宿を出る前に、 宇佐美は、 そう言っていたらしい。
その貴族を紹介したのは、 ドルマン侯爵だった。
姫野さんは、 薬師ギルドの調査が始まる前に、 王都を出ることにしたのだと、 澪さんが、 静かに教えてくれた。
「……東の交易都市で、 お店を開くって。 ポーションの、 カフェ」
澪さんの声は、 ひどく、 硬かった。
そして、 桐生は。
あの日以来、 誰も、 姿を見ていなかった。
僕は、 左腕を吊ったまま、 東門の柵の前に立っていた。
シロガネが、 足元にいた。
馬車が、 僕の前で、 止まった。
志賀が、 荷台の上から、 僕を見下ろした。
長い、 沈黙が落ちた。
「……何しに来た」
「見送りに」
「頼んでねえよ」
「うん。 知ってる」
志賀は、 舌打ちをした。
それから、 東門の、 破られた門の跡を、 ちらりと見た。
その目が、 一瞬だけ、 何かを、 思い出すように、 揺れた。
「……一つだけ、 言っとく」
志賀は、 僕のほうを見ずに、 言った。
「俺は、 お前に助けられたなんて、 一生、 認めねえ」
「……うん」
「本陣でも、 この東門でも。
お前がいなくても、 俺は、 一人で、 何とかしてた。 そういうことだ」
「うん」
「……次は」
志賀が、 ようやく、 僕を見た。
その目は、 赤く、 充血していた。
「次は、 絶対に、 負けねえ。
お前より先に、 魔王の首を取って、 俺が、 本物だって、 証明してやる」
僕は、 志賀を、 まっすぐに見返した。
それから、 うなずいた。
「うん。 ……また会おう、 志賀」
志賀は、 何かを言いかけて、 やめた。
そして、 ぷいと顔を背けた。
「……出せ、 吉岡」
「ま、 まあまあ。 了解」
馬車が、 動き出した。
東門の柵を抜けて、 東の街道へと、 遠ざかっていく。
志賀の腰の職業札が、 陽の光を受けて、 一瞬だけ、 鈍く光った。
その文字は、 もう、 半分以上が、 黒く、 霞んでいた。
僕は、 馬車が見えなくなるまで、 そこに立っていた。
「……行っちゃったね」
いつの間にか、 隣に、 古賀が立っていた。
「志賀の札、 見えた?」
「……うん」
「このままだと、 志賀は、 いつか」
古賀は、 言葉を、 最後まで言わなかった。
「……止められるかな、 白峰氏」
「分からない」
僕は、 東の街道の先を、 見つめた。
「でも、 止めたいと思ってる。 小田切のときは、 間に合わなかったから」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
王城の厩舎で、 小田切が、 馬の蹄を削っていた。
ぎこちない手つきだった。
十三歳の厩番の少年――ピートくんが、
その隣で、 ときおり、 「もう少し、 浅く」と、 小さな声で教えていた。
厩舎の入り口に、 僕と、 シロガネが立った。
小田切が、 顔を上げた。
シロガネを見て、 その肩が、 びくりと、 強張った。
シロガネは、 唸らなかった。
ただ、 金色の瞳で、 じっと、 小田切を見つめていた。
小田切は、 削りかけの蹄から、 手を離した。
立ち上がった。
そして、 シロガネに向かって、 深く、 深く、 頭を下げた。
「……ごめん」
かすれた声だった。
「ごめん、 シロガネ。 ……二か月、 ずっと、 痛かったよな。 怖かったよな。 ……ごめん」
厩舎の中が、 静まり返った。
馬たちが、 静かに、 鼻を鳴らした。
シロガネは、 長い間、 頭を下げ続ける小田切を、 見つめていた。
それから、 ゆっくりと、 小田切に、 背を向けた。
厩舎の入り口へと、 歩いていく。
一度だけ、 立ち止まって、 振り返った。
金色の瞳が、 小田切を見た。
そして、 小さく、 一度だけ、 鼻を鳴らした。
それが、 何を意味するのか。
僕にも、 小田切にも、 分からなかった。
許したのか。
許さないのか。
それとも、 ただ、 聞いた、 というだけなのか。
けれど、 小田切は、 頭を上げたとき、 少しだけ、 泣きそうな顔で、 笑っていた。
「……聞いてくれた、 だけで、 十分だわ」
小田切は、 また、 しゃがみ込んで、 削りかけの蹄に、 手を伸ばした。
「ピート。 続き、 教えてくれ」
「はい、 健吾さん」
職業、 なし。
けれど、 その手つきは、 さっきよりも、 少しだけ、 丁寧になっていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その夜。
王城の、 あのバルコニーで。
召喚の三日目の夜に、 エレオノーラさんと初めて言葉を交わした場所。
僕は、 一人、 夜空を見上げていた。
見知らぬ星座。
三か月半が過ぎても、 まだ、 その名前を、 全部は覚えられていなかった。
左腕は、 澪さんの見立てでは、 あと一か月で、 治るのだという。
「……今度こそ、 一か月。 絶対に、 安静」
澪さんは、 そう言って、 僕の額を、 指で、 ぴんと弾いた。
初めてだった。
澪さんが、 あんなふうに、 笑いながら、 僕に触れたのは。
一か月後。
腕が治ったら、 四神殿の巡礼に出る。
エレオノーラさんと、 古賀と、 シロガネと。
剛は、 「城壁の騎士が、 城壁を離れていいのかは知らんが、 俺も行く」と言った。
澪さんは、 「……白峰くんが怪我したとき、 誰が治すの」と言った。
美咲さんと、 奏さんは、 王都に残る。
「誰かが、 ちゃんと、 帰ってくる場所を守ってないとね」
美咲さんは、 そう言って、 笑った。
「帰ってきたら、 冒険の話を、 全部聞かせて。 それを、 歌にするから」
奏さんは、 そう言って、 竪琴の弦を、 一つ、 弾いた。
胸のポケットから、 職業札を取り出す。
【職業:勇者(候補)】
【スキル:誓約の灯】
【誓約:銀牙狼シロガネ】
炎の紋様は、 札の表面いっぱいに、 静かに、 金色に、 揺らめいていた。
そして、 「候補」の二文字は。
月明かりの下で、 今にも消えてしまいそうなほど、 淡く、 透き通っていた。
けれど、 消えてはいなかった。
あの一瞬。
グラズの角を斬った、 あの瞬間だけ。
この札の上には、 【職業:勇者】の文字だけが、 輝いていた。
けれど、 それは、 すぐに、 元に戻った。
ヴェルダさんは、 言った。
「一瞬だけ、 選ばれたのさ。
十万の灯を分けてもらった、 あの一瞬だけね。
でも、 本当に選ばれるには、 まだ、 足りないものがある。
それが何なのかは、 あたしにも分からない。
……たぶん、 四神殿の先に、 答えがあるんだろうね」
足りないもの。
それが、 何なのか。
僕にも、 まだ、 分からない。
「……眠れないのですか」
背後から、 静かな声がした。
振り返ると、 エレオノーラさんが立っていた。
三か月半前と、 同じように。
柔らかな色の部屋着の上に、 薄い外套を羽織って。
「少しだけ。 考えごとをしていました」
「職業のことですか」
「……はい」
エレオノーラさんは、 僕の隣に並んで、 夜空を見上げた。
しばらく、 二人とも、 何も言わなかった。
「……最初にお会いした日」
やがて、 エレオノーラさんが、 小さく言った。
「わたくしは、 あなたに、 勇者の称号がそれほど欲しいのかと、 尋ねました」
「はい。 神殿の、 石段の上で」
「あなたは、 肩書きで何かが決まるとは思っていない、 と答えた。
ただ、 自分にできることを、 間違えたくない、 と」
エレオノーラさんは、 僕のほうを向いた。
月明かりの中で、 その青い瞳が、 穏やかに、 光っていた。
「今も、 同じですか」
僕は、 少しだけ考えた。
それから、 首を、 横に振った。
「少しだけ、 違います」
「……どう、 違うのですか」
「最初は、 一人で、 正しい職業を知りたいと思っていました。
自分が何者なのか、 自分にできることは何なのか。
一人で、 答えを見つけなきゃいけないと思っていた」
僕は、 職業札を、 そっと握りしめた。
「でも、 今は、 違います。 この札の火は、 みんなが分けてくれたものです。
だから、 答えも、 きっと、 みんなと一緒に見つけるものなんだと思います」
エレオノーラさんを、 まっすぐに見た。
「だから、 正しい職業を、自分を知りたい。 みんなと一緒に、 確かめに行きたいんです」
エレオノーラさんは、 長い間、 僕を見つめていた。
それから。
初めて見たときよりも、 ずっと柔らかく。
ずっと、 自然に。
微笑んだ。
「……では、 確かめに参りましょう。 一緒に」
夜風が、 バルコニーを吹き抜けた。
王城の裏手の丘の、 灯草の花々が、 月明かりの下で、 一斉に、 揺れていた。
職業、 勇者。
ただし、 候補。
同級生いわく、 違うらしい。
本当のところは、 まだ、 誰にも分からない。
僕自身にも。
――だから、 確かめに行こう。
今度は、 一人じゃなく。
みんなと、 一緒に。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
王都から、 東へ、 馬で一日。
街道沿いの、 小さな宿場町の、 外れの丘の上。
月明かりの下に、 志賀が、 一人で、 座り込んでいた。
添え木を当てた左脚を、 投げ出して。
腰から外した職業札を、 両手で、 握りしめて。
【職業:魔剣士】
その文字は、 半分以上が、 黒く、 霞んでいた。
月の光の下で、 何度見直しても、 それは、 変わらなかった。
「……くそ……」
声が、 震えていた。
「くそ……くそ……くそ……っ」
小田切と、 同じになる。
古賀の言葉が、 頭から、 離れなかった。
職業を、 失う。
何者でもない奴に、 戻る。
高校までの、 誰もが名前を知っていた自分から。
大学で、 誰にも見向きもされなくなった、 あの自分に。
いや。
それよりも、 もっと、 下に。
「……嫌だ」
志賀は、 札を、 額に押しつけた。
「……嫌だ……俺は……俺は、 主人公なんだ……。 本物は、 俺なんだ……」
そのとき。
「――ええ。 その通りよ」
背後から、 声がした。
甘く、 艶やかで、 夜の闇そのものが囁いているかのような、 声だった。
志賀は、 弾かれたように、 振り返った。
誰も、 いなかった。
丘の上には、 月明かりと、 風に揺れる草だけがあった。
「……誰だ」
返事は、 なかった。
ただ、 風に乗って、 もう一度だけ、 囁くような声が、 志賀の耳元を、 撫でていった。
「――あなたこそが、 本物の勇者だわ。 わたくしには、 分かるの」
くすくすと、 喉の奥で笑う声。
「でも、 まだ、 少しだけ、 早いわね。
もう少し……もう少しだけ、 熟れたら。 迎えに来てあげる」
声は、 それきり、 聞こえなくなった。
志賀は、 長い間、 誰もいない夜の闇を、 見つめていた。
手の中の職業札が、 月明かりの下で、 ほんのわずかに、 さらに、 黒く、 霞んだ。
けれど、 志賀は、 それに、 気づかなかった。
その口元に、 薄い、 薄い笑みが、 浮かんでいたから。
〈第1部 ~新たな出会いと別れ~ 完〉
第1部 最後までお読みいただき、 本当に、 本当にありがとうございました。
陽翔たちが異世界に召喚されてから、 怒涛の三か月半ぐらいの時間軸での物語想定です。
そして、誓約の灯の力について。
「人々から灯を分けてもらい、 それを、 隣に立つ人たちに分かち合う」。
第24話で、 エレオノーラやガルド、 シロガネの武器までが金色に輝いたのは、 そのためです。
一人で全部を背負った王太子アルベルトとは正反対の力。
この物語の「勇者」の在り方を、 一番よく表しているスキルだと思っています。
皆さまに読んでいただき、そのことに感動しております。
もとは一度筆をおいたシナリオを再度熱高まった瞬間に書き上げてしまいました。
ゆえに、稚拙な箇所もあったかと存じますので申し訳ございません。
引き続き、 陽翔たちの旅に、 お付き合いいただけたら幸いです。
時計は進む。
第2部「巡礼」
動き出した時間。人の流れはやがて……




