第24話「灯を分かつ者たち」
東門の内側の広場に、 僕が駆け下りたとき。
担架に乗せられた剛が、 ちょうど、 運び出されていくところだった。
「――剛!」
担架に、 駆け寄る。
剛の顔は、 血と、 煤と、 汗にまみれていた。
目は、 閉じられていた。
けれど、 その分厚い胸は、 ゆっくりと、 確かに、 上下していた。
「生きてる。 気を失っているだけだ」
担架の脇を歩いていたローデリヒさんが、 言った。
その声は、 かすれていた。
「外の門が破られたとき、 こいつは、 盾を捨てて、 自分の体で、 門を押さえた。
内側の門を閉じる時間を、 その体一つで、 稼いだんだ。
……俺は、 四十年騎士をやってきたが、 あれ以上の防壁は、 見たことがない」
僕は、 剛の、 大きな手を握った。
傷だらけの、 分厚い手。
初めて城の厩舎で、 異世界のパンを抱えてきた、 あの手。
「……剛。 ありがとう」
返事は、 なかった。
けれど、 その指が、 ほんのわずかに、 僕の手を、 握り返した気がした。
「後は、 任せて。 剛が守った東門は、 僕たちが、 守るから」
担架が、 治療院のほうへ、 運ばれていく。
その背中を見送った、 その瞬間。
背後で、 轟音が響いた。
振り返る。
東門の内側の門。
二重の門の、 最後の一枚。
その分厚い樫の扉の真ん中に、 巨大な、 黒い鉄の塊が、 突き刺さっていた。
鉄の棍棒だった。
扉が、 内側に、 ゆっくりと、 弾けた。
樫の板が、 木っ端となって、 広場に降り注いだ。
そして、 その向こうから。
人の背丈の、 三倍はある、 赤銅色の巨体が。
黒い鉄の角を、 朝の光にきらめかせながら。
ゆっくりと、 東門の広場に、 足を踏み入れた。
鉄角のグラズ。
その赤い目が、 広場を見回した。
逃げ惑う兵たち。
槍を構える、 守備隊の生き残り。
そして、 その真ん中に立つ、 僕を。
グラズの口元が、 ゆっくりと、 歪んだ。
――見つけた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――グラズの首は、 俺のだあああッ!」
広場の脇の路地から、 一人の男が、 飛び出してきた。
黒い革の鎧。
手には、 柄の飾りもない、 ありふれた長剣。
本陣で折られた剣の代わりに、 城下の武器屋で、 急いで買い求めたものなのだろう。
その刃に、 青と黒の光が、 纏わりついていた。
「志賀ッ!」
志賀は、 僕の声を聞かなかった。
いや、 聞こえていて、 無視したのだろう。
まっすぐに、 グラズの足元へと、 突っ込んでいく。
「――今度こそ、 俺が、 本物だッ!」
青と黒の剣が、 グラズの脛に、 叩き込まれた。
グラズは、 見下ろしもしなかった。
鉄の棍棒が、 横に、 薙がれた。
ただ、 足元の羽虫を払うように。
志賀の剣が、 根元から、 砕け散った。
志賀の体が、 宙を舞った。
広場の端の石壁へと、 一直線に、 吹き飛ばされていく。
「――シロガネ!」
僕の叫びよりも早く、 銀色の影が、 跳んでいた。
シロガネが、 志賀の体と、 石壁の間に、 滑り込んだ。
自分の体を、 クッションにして。
志賀の体ごと、 石壁に叩きつけられる。
鈍い音。
シロガネが、 苦しげに、 呻いた。
「シロガネ! 志賀!」
駆け寄る。
シロガネが、 よろよろと、 立ち上がった。
大丈夫だ、 と言うように、 僕を見て、 鼻を鳴らした。
その下で、 志賀が、 石畳の上に、 仰向けに倒れていた。
意識は、 あった。
けれど、 立ち上がれないようだった。
左脚が、 不自然な方向に、 曲がっていた。
「……なんで……」
志賀が、 かすれた声で、 つぶやいた。
「なんで……その犬が……俺を……」
「シロガネは、 犬じゃない。 銀牙狼だよ」
僕は、 志賀の隣に、 膝をついた。
「それに、 シロガネは、 誰かを守るのが、 好きなんだ。 ……たぶん、 志賀のことも」
志賀の顔が、 くしゃりと、 歪んだ。
怒りなのか。
屈辱なのか。
それとも、 別の何かなのか。
「……また……お前に……」
志賀は、 腕で、 顔を覆った。
「また……助けられた……のかよ……」
僕は、 立ち上がった。
アルベルトさんの鋼の剣を、 握り直す。
「志賀。 ここで、 待ってて」
「……」
「終わったら、 治療院に、 連れていくから」
志賀は、 何も答えなかった。
ただ、 腕で顔を覆ったまま、 その肩を、 震わせていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
グラズと、 向かい合った。
近くで見ると、 その巨体は、 灰色峡谷で見たときよりも、 本陣で見たときよりも、 さらに、 大きく見えた。
赤銅色の肌から、 湯気のように、 魔力が立ち上っていた。
頭の両脇の、 黒い鉄の角が、 脈打つように、 鈍く光っていた。
「――白峰殿!」
右隣に、 エレオノーラさんが、 並んだ。
北の城壁から、 僕を追って、 駆けつけてくれたのだ。
「――坊主ッ!」
背後から、 ガルドさんの声。
大剣を担いで、 東の城壁の石段を、 駆け下りてくる。
「ローデリヒ! 守備隊を、 下がらせろ! こいつの相手は、 数で押しても、 無駄だ!」
「分かってる!」
ローデリヒさんが、 片腕で、 剣を抜いた。
シロガネが、 僕の左隣に、 並んだ。
傷だらけの体で。
それでも、 金色の瞳は、 まっすぐに、 グラズを見据えていた。
五人。
一万の魔王軍の、 魔将に対して。
たった、 五人。
グラズが、 吠えた。
――オオオオオオオオオッ!
広場の石畳が、 震えた。
窓という窓の硝子が、 ひび割れた。
そして、 鉄の棍棒が、 振り下ろされた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
戦いは、 一方的だった。
鉄の棍棒が振るわれるたびに、 広場の石畳が、 砕け散った。
ガルドさんの大剣が、 グラズの脛を斬りつけた。
赤銅色の肌に、 浅い傷が、 走った。
それだけだった。
次の瞬間、 ガルドさんは、 棍棒の柄で薙ぎ払われ、 広場の端まで、 吹き飛ばされていた。
エレオノーラさんの剣が、 グラズの手首を狙った。
速く、 正確で、 無駄のない、 王女の剣。
けれど、 その剣も、 グラズの肌の上で、 甲高い音を立てて、 弾かれた。
角から流れ込む魔力が、 鎧のように、 その全身を覆っていた。
古賀の言ったとおりだった。
シロガネの牙が、 グラズの足首に食らいついた。
グラズは、 足を一振りしただけで、 シロガネを、 振り払った。
そして、 僕は。
「――っ、 ああっ!」
棍棒を、 剣で受け止めた。
受け止めた、 その瞬間。
左腕の奥で、 何かが、 ぶつりと、 切れる音がした。
一日だけの骨。
澪さんの薬と、 ヴェルダさんの魔法で、 無理やり繋ぎ止めていた骨。
その繋ぎ目が、 グラズの棍棒の衝撃に、 耐えきれなかった。
熱い、 という言葉では、 足りなかった。
左腕の中で、 炎が、 燃え上がったかのようだった。
視界が、 白く、 弾けた。
剣を握る手から、 力が、 抜けていく。
膝が、 石畳に、 叩きつけられた。
グラズが、 僕を見下ろしていた。
赤い目に、 わずかな、 失望の色が浮かんでいた。
――これで、 終わりか。
鉄の棍棒が、 ゆっくりと、 振り上げられた。
「白峰殿ッ!」
エレオノーラさんの悲鳴が、 遠くに聞こえた。
立たなきゃ。
立たなきゃ。
左腕が、 動かない。
右腕も、 痺れている。
脚に、 力が、 入らない。
胸のポケットの職業札が、 熱を、 失いかけていた。
炎が、 しぼんでいく。
――ここまで、 か。
そう思った、 そのときだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
王城の鐘楼のてっぺんから。
竪琴の音が、 響いた。
ぽろん、 と。
たった一音。
けれど、 その一音は、 ヴェルダさんの拡声の魔法に乗って、 王都の隅々にまで、 届いた。
城壁の上の兵たちの耳に。
治療院の負傷兵たちの耳に。
厨房の料理人たちの耳に。
南の大門に並んだ、 避難民たちの耳に。
そして、 東門の広場の、 僕の耳に。
不思議なことに、 その一音で、 王都じゅうが、 すっと、 静かになった。
「――今から、 歌います」
奏さんの声だった。
いつもの、 ふわふわした声ではなかった。
澄んでいて、 よく通って、 王都の空いっぱいに、 静かに、 染み渡っていく。
「勇者の歌です。 でも、 一人の勇者の歌じゃありません。 この国の、 みんなの歌です」
そして、 歌が、 始まった。
割れたカップを、 メイドの少女と一緒に拾った勇者がいた。
その少女は、 毎朝、 温かい布を持って、 訓練場で、 勇者を待っていた。
見習いの少年の前に、 震える手で立った勇者がいた。
その少年は、 勇者のために、 王都じゅうの家を回って、 名簿を作った。
ハルン村の教会の前で、 退かなかった勇者がいた。
その村の子どもは、 勇者を信じて、 手紙を書いた。
灰色峡谷で、 殿の隣に立った勇者がいた。
その殿の隊長は、 今、 片腕で、 東門の広場に立っている。
東門で、 自分の体を門にした、 重騎士がいた。
西区で、 子どもたちの前に、 光の壁を張った、 結界師がいた。
治療院で、 一晩じゅう、 薬草をすり潰し続けた、 薬師がいた。
一万人分の握り飯を、 夜通し握り続けた、 料理人がいた。
鐘楼の上で、 魔物の弱点を探し続けた、 鑑定士がいた。
勇者は、 一人じゃない。
灯は、 一つじゃない。
カップを拾った手も。
名簿を作った手も。
包帯を巻いた手も。
握り飯を握った手も。
子どもの手を引いて、 南の大門へ歩いた手も。
みんなの手に、 灯がある。
――勇者を選ぶは、 天にあらず。
――灯を分かつ者たちの、 その手にあり。
奏さんの歌声に、 誰かの声が、 重なった。
最初は、 一つだった。
北の城壁の上の、 一人の兵の声。
それが、 二つになった。
三つになった。
十になった。
城壁の上の兵たちが、 歌っていた。
治療院の負傷兵たちが、 寝台の上で、 歌っていた。
厨房の料理人たちが、 鍋をかき回しながら、 歌っていた。
南の大門に並んだ避難民たちが、 子どもの手を握りながら、 歌っていた。
東区の家々の窓から、 人々が、 顔を出して、 歌っていた。
王都じゅうが、 歌っていた。
十万の声が、 一つの歌になって。
王都の空に、 響き渡っていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
胸のポケットが、 爆ぜた。
ハルン村の比ではなかった。
灰色峡谷の比でもなかった。
胸の奥で、 太陽が、 いくつも、 いくつも、 生まれていくような。
そんな熱が、 一瞬で、 全身を、 駆け巡った。
左腕の痛みが、 消えたわけではなかった。
けれど、 その痛みの上から、 温かいものが、 包み込むように、 流れ込んできた。
十万の声が。
十万の手が。
僕の腕を、 支えてくれていた。
立ち上がった。
剣が、 金色に、 輝いていた。
アルベルトさんの鋼の剣。
刃の根元の、 灯草の花の紋様が、 夜明けの太陽のように、 燃えていた。
そして。
その金色の光は、 僕の剣だけに、 とどまらなかった。
右隣の、 エレオノーラさんの剣が。
金色に、 輝き始めた。
広場の端で、 大剣を杖にして立ち上がろうとしていた、 ガルドさんの大剣が。
片腕で剣を構える、 ローデリヒさんの剣が。
そして、 僕の左隣の、 シロガネの、 銀色の毛並みが。
金色の光に、 包まれていった。
「……これ、 は……」
エレオノーラさんが、 自分の剣を見つめて、 息を呑んだ。
「体が……軽い……。 力が、 流れ込んでくる……」
「坊主……! お前の火か……!」
ガルドさんが、 目を見開いていた。
灯を、 分かつ。
ずっと、 意味の分からなかった、 その言葉。
人々が、 僕に、 灯を分けてくれる。
そして、 その灯は、 僕の中で燃えて。
今度は、 僕の隣に立つ人たちに、 分かたれていく。
一人で背負うための力じゃない。
みんなで、 分かち合うための力。
それが、 誓約の灯だった。
胸のポケットから、 職業札を取り出した。
【職業:勇者(候補)】
その「候補」の二文字が。
金色の光の中で。
すうっと、 透き通るように、 消えていった。
【職業:勇者】
ほんの、 一瞬だけ。
札の上には、 その文字だけが、 輝いていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
グラズが、 一歩、 後ずさった。
鉄角の魔将の赤い目に、 初めて、 見たことのない色が浮かんでいた。
驚愕。
そして、 その奥に、 かすかな、 畏れ。
「――角の付け根だよ、 白峰氏!」
鐘楼の上から、 古賀の声が、 拡声の魔法に乗って、 降ってきた。
「魔力の流れの出口だ! そこだけは、 鎧が薄い!」
「――ガルド、 ローデリヒ! 右脚を!」
エレオノーラさんが、 叫んだ。
「わたくしは、 左脚を!」
「おうッ!」
「任せろッ!」
三つの金色の剣が、 同時に、 閃いた。
ガルドさんとローデリヒさんの剣が、 グラズの右膝の裏を、 深々と、 斬り裂いた。
さっきまで、 傷一つつけられなかった赤銅色の肌が、 金色の刃の前に、 紙のように、 裂けていった。
エレオノーラさんの剣が、 左膝の裏を、 斬り裂いた。
王女の剣は、 速く、 正確で、 一切の無駄がなかった。
そして、 今は、 金色に、 輝いていた。
グラズの巨体が、 大きく、 傾いた。
両膝が、 地響きを立てて、 石畳を、 砕いた。
膝をついても、 まだ、 その頭は、 僕の背丈の、 倍の高さにあった。
「――シロガネ!」
叫んだ瞬間、 銀色の影が、 僕の足元に、 滑り込んできた。
金色の光に包まれた、 銀牙狼。
その背に、 飛び乗る。
右手に、 金色の剣。
左腕は、 動かない。
それでも、 シロガネの首に、 左腕を、 必死に、 絡めた。
シロガネが、 跳んだ。
グラズの膝を、 蹴った。
太腿を、 蹴った。
腰を、 蹴った。
鉄の棍棒を握る、 その腕を、 駆け上がっていく。
金色の光の尾を、 引きながら。
グラズが、 吠えた。
左腕を振り上げて、 僕たちを、 払い落とそうとした。
その左腕に、 青い光が、 絡みついた。
「け、 【結界】……ッ!」
広場の端に、 三枝さんが、 立っていた。
西区から、 走ってきたのだ。
擦りむいた膝から、 血を流しながら。
両手を、 グラズの左腕に向けて、 突き出していた。
青い光の膜が、 鎖のように、 グラズの腕に、 巻きついていた。
ほんの、 一瞬だけ。
グラズの腕が、 止まった。
その一瞬で、 十分だった。
シロガネが、 グラズの肩を、 蹴った。
宙に、 舞う。
眼下に、 鉄の角が見えた。
黒く、 鈍く、 脈打つように光る、 二本の角。
その付け根。
赤銅色の肌と、 黒い鉄が、 交わる場所。
そこだけ、 魔力の鎧が、 薄く、 揺らいでいた。
息を、 吐く。
肩の力を、 抜く。
親指は、 ここ。
小指で、 締める。
力を入れるのは、 振り下ろす最後の、 一瞬だけ。
――剣は、 守るために振れ。
金色の剣が、 弧を描いた。
剛が守った、 東門のために。
三枝さんが守った、 西区の子どもたちのために。
澪さんの、 美咲さんの、 奏さんの、 古賀の、 トマスくんの、 リゼさんの。
ガルドさんの、 ローデリヒさんの、 エレオノーラさんの。
そして、 十万の、 灯を分けてくれた人たちのために。
剣が、 角の付け根に、 吸い込まれていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
音は、 しなかった。
ただ、 金色の光が、 弾けた。
鉄の角が、 その付け根から、 ゆっくりと、 傾いた。
角に集まっていた魔力が、 行き場を失って、 赤黒い霧となって、 噴き出した。
グラズの全身を覆っていた魔力の鎧が、 剥がれ落ちていく。
赤銅色の肌から、 湯気のように立ち上っていた魔力が、 消えていく。
グラズの巨体が、 ゆっくりと、 前のめりに、 倒れ始めた。
シロガネが、 僕を背に乗せたまま、 グラズの肩から、 跳び下りた。
石畳に、 着地する。
その背後で、 地響きを立てて、 鉄角の魔将が、 倒れ伏した。
広場が、 静まり返った。
グラズの赤い目が、 まだ、 開いていた。
その目が、 ゆっくりと、 僕を、 捉えた。
そして。
その口が、 動いた。
「……灯を……持つ……者……」
低く、 かすれた、 けれど、 確かに、 人の言葉だった。
「……三百年……ぶりだ……」
赤い目が、 かすかに、 細められた。
笑ったのだと、 分かった。
「……あの方が……言っていた……とおりだ……。 いつか……また……灯を持つ者が……来る……と……」
「……あの方?」
僕は、 思わず、 問い返していた。
「あの方って、 誰のことだ」
グラズは、 答えなかった。
赤い目から、 ゆっくりと、 光が、 消えていった。
最後に、 その唇が、 かすかに、 動いた。
「……魔王……様……」
鉄角のグラズは、 それきり、 動かなくなった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
魔王軍の陣から、 角笛が、 鳴り響いた。
夜明けに聞いた、 あの低く重い音ではなかった。
甲高く、 途切れ途切れの、 悲鳴のような音だった。
城壁の上から、 見張りの兵が、 叫んだ。
「――魔王軍が……! 魔王軍が、 退いていく……!」
黒い波が、 引いていく。
地平線を埋め尽くしていた魔物の群れが、 北へ、 北へと、 潮が引くように、 遠ざかっていく。
一瞬の、 静寂。
それから。
王都じゅうから、 歓声が、 湧き上がった。
城壁の上で。
治療院で。
厨房で。
南の大門で。
東区の家々の窓から。
十万の声が、 今度は、 歌ではなく、 歓喜の叫びとなって、 王都の空に、 響き渡った。
僕は、 シロガネの背から、 ずり落ちるようにして、 石畳の上に、 座り込んだ。
左腕が、 燃えるように、 痛かった。
体じゅうの力が、 抜けていた。
胸のポケットの職業札を、 震える右手で、 取り出す。
【職業:勇者(候補)】
「候補」の二文字が、 また、 そこにあった。
けれど、 その文字は、 戦の前よりも、 ずっと、 ずっと、 薄くなっていた。
今にも、 消えてしまいそうなほどに。
「……戻っちゃった」
思わず、 笑った。
笑ったら、 左腕に響いて、 また、 呻いた。
「……一瞬だけ、 選ばれたのですね」
エレオノーラさんが、 僕の隣に、 膝をついた。
金色の光は、 もう、 その剣から、 消えていた。
けれど、 その青い瞳は、 涙に濡れて、 きらきらと、 光っていた。
「わたくしは、 見ました。 あなたの札から、 その二文字が消えるのを」
「……でも、 また、 戻りました」
「ええ」
エレオノーラさんは、 微笑んだ。
「それで、 いいのだと思います。 あなたは、 候補のままでいたいと、 父上に、 そう言ったのでしょう」
広場の端で、 ガルドさんと、 ローデリヒさんが、 互いの肩を支え合いながら、 笑っていた。
三枝さんが、 石畳の上にへたり込んで、 泣きながら、 笑っていた。
シロガネが、 僕の頬を、 ざらざらとした舌で、 何度も、 何度も、 舐めていた。
そして、 広場の石壁の前で。
志賀が、 仰向けに倒れたまま、 空を見上げていた。
王都じゅうに響き渡る、 歓声。
その中で、 繰り返し、 繰り返し、 叫ばれる名前。
「勇者様!」
「候補の勇者様!」
「白峰様!」
その中に、 志賀の名前は、 一度も、 なかった。
志賀の腰の職業札が、 鈍く、 曇っていた。
【職業:魔剣士】
その文字は、 もう、 半分ほどが、 墨を流したように、 黒く、 霞んでいた。
志賀は、 腕で、 顔を覆った。
その肩が、 小刻みに、 震えていた。
声は、 歓声に、 かき消されて、 誰の耳にも、 届かなかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
治療院の扉の前に、 澪さんが立っていた。
白い前掛けは、 負傷兵の血で、 赤く染まっていた。
両手は、 薬草の汁で、 緑色に染まっていた。
目の下に、 濃い隈ができていた。
一晩じゅう、 そして、 一日じゅう、 休まずに、 働き続けていたのだろう。
僕は、 シロガネの背に、 もたれかかるようにして、 治療院の前の通りを、 歩いてきた。
エレオノーラさんが、 反対側から、 僕の右腕を、 肩に担いでくれていた。
左腕は、 もう、 指一本、 動かなかった。
澪さんが、 僕に気づいた。
その目が、 大きく、 見開かれた。
澪さんは、 何も言わずに、 駆け寄ってきた。
僕の前で、 立ち止まる。
動かない左腕を見る。
血と、 泥と、 煤にまみれた、 僕の顔を見る。
「……ただいま、 柚木さん」
僕は、 笑った。
「約束どおり、 帰ってきたよ。 這ってじゃなくて、 シロガネに乗せてもらったけど」
澪さんの唇が、 震えた。
それから、 澪さんは、 何も言わずに、 僕の胸に、 額を押しつけた。
両手で、 僕のシャツを、 ぎゅっと、 握りしめた。
その肩が、 小刻みに、 震えていた。
「……おかえり」
くぐもった、 小さな声だった。
「……おかえり、 白峰くん」
エレオノーラさんが、 そっと、 僕の右腕を離した。
一歩、 下がる。
その横顔は、 少しだけ、 寂しそうで。
けれど、 それ以上に、 優しかった。
シロガネが、 小さく、 鼻を鳴らした。
王都の空には、 まだ、 歓声が、 響き続けていた。




