↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【最終章突入】職業「勇者」って言われたのですが、一緒に転移した同級生いわく違うらしい ~正しい職業を知りたい今日この頃~  作者: 有馬 茶
第1部 ~新たな出会いと別れ~

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

24/87

第24話「灯を分かつ者たち」

東門の内側の広場に、 僕が駆け下りたとき。

担架に乗せられた剛が、 ちょうど、 運び出されていくところだった。


「――剛!」

担架に、 駆け寄る。

剛の顔は、 血と、 煤と、 汗にまみれていた。

目は、 閉じられていた。

けれど、 その分厚い胸は、 ゆっくりと、 確かに、 上下していた。


「生きてる。 気を失っているだけだ」

担架の脇を歩いていたローデリヒさんが、 言った。

その声は、 かすれていた。

「外の門が破られたとき、 こいつは、 盾を捨てて、 自分の体で、 門を押さえた。

 内側の門を閉じる時間を、 その体一つで、 稼いだんだ。

 ……俺は、 四十年騎士をやってきたが、 あれ以上の防壁は、 見たことがない」


僕は、 剛の、 大きな手を握った。

傷だらけの、 分厚い手。

初めて城の厩舎で、 異世界のパンを抱えてきた、 あの手。


「……剛。 ありがとう」

返事は、 なかった。

けれど、 その指が、 ほんのわずかに、 僕の手を、 握り返した気がした。

「後は、 任せて。 剛が守った東門は、 僕たちが、 守るから」


担架が、 治療院のほうへ、 運ばれていく。

その背中を見送った、 その瞬間。


背後で、 轟音が響いた。


振り返る。


東門の内側の門。

二重の門の、 最後の一枚。

その分厚い樫の扉の真ん中に、 巨大な、 黒い鉄の塊が、 突き刺さっていた。


鉄の棍棒だった。


扉が、 内側に、 ゆっくりと、 弾けた。

樫の板が、 木っ端となって、 広場に降り注いだ。


そして、 その向こうから。

人の背丈の、 三倍はある、 赤銅色の巨体が。

黒い鉄の角を、 朝の光にきらめかせながら。

ゆっくりと、 東門の広場に、 足を踏み入れた。


鉄角のグラズ。


その赤い目が、 広場を見回した。

逃げ惑う兵たち。

槍を構える、 守備隊の生き残り。

そして、 その真ん中に立つ、 僕を。


グラズの口元が、 ゆっくりと、 歪んだ。


――見つけた。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




「――グラズの首は、 俺のだあああッ!」


広場の脇の路地から、 一人の男が、 飛び出してきた。


黒い革の鎧。

手には、 柄の飾りもない、 ありふれた長剣。

本陣で折られた剣の代わりに、 城下の武器屋で、 急いで買い求めたものなのだろう。

その刃に、 青と黒の光が、 纏わりついていた。


「志賀ッ!」


志賀は、 僕の声を聞かなかった。

いや、 聞こえていて、 無視したのだろう。

まっすぐに、 グラズの足元へと、 突っ込んでいく。


「――今度こそ、 俺が、 本物だッ!」


青と黒の剣が、 グラズの脛に、 叩き込まれた。


グラズは、 見下ろしもしなかった。


鉄の棍棒が、 横に、 薙がれた。

ただ、 足元の羽虫を払うように。


志賀の剣が、 根元から、 砕け散った。

志賀の体が、 宙を舞った。

広場の端の石壁へと、 一直線に、 吹き飛ばされていく。


「――シロガネ!」


僕の叫びよりも早く、 銀色の影が、 跳んでいた。


シロガネが、 志賀の体と、 石壁の間に、 滑り込んだ。

自分の体を、 クッションにして。

志賀の体ごと、 石壁に叩きつけられる。

鈍い音。

シロガネが、 苦しげに、 呻いた。


「シロガネ! 志賀!」

駆け寄る。

シロガネが、 よろよろと、 立ち上がった。

大丈夫だ、 と言うように、 僕を見て、 鼻を鳴らした。

その下で、 志賀が、 石畳の上に、 仰向けに倒れていた。

意識は、 あった。

けれど、 立ち上がれないようだった。

左脚が、 不自然な方向に、 曲がっていた。


「……なんで……」

志賀が、 かすれた声で、 つぶやいた。

「なんで……その犬が……俺を……」

「シロガネは、 犬じゃない。 銀牙狼だよ」

僕は、 志賀の隣に、 膝をついた。

「それに、 シロガネは、 誰かを守るのが、 好きなんだ。 ……たぶん、 志賀のことも」


志賀の顔が、 くしゃりと、 歪んだ。

怒りなのか。

屈辱なのか。

それとも、 別の何かなのか。


「……また……お前に……」

志賀は、 腕で、 顔を覆った。

「また……助けられた……のかよ……」


僕は、 立ち上がった。

アルベルトさんの鋼の剣を、 握り直す。


「志賀。 ここで、 待ってて」

「……」

「終わったら、 治療院に、 連れていくから」


志賀は、 何も答えなかった。

ただ、 腕で顔を覆ったまま、 その肩を、 震わせていた。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




グラズと、 向かい合った。


近くで見ると、 その巨体は、 灰色峡谷で見たときよりも、 本陣で見たときよりも、 さらに、 大きく見えた。

赤銅色の肌から、 湯気のように、 魔力が立ち上っていた。

頭の両脇の、 黒い鉄の角が、 脈打つように、 鈍く光っていた。


「――白峰殿!」

右隣に、 エレオノーラさんが、 並んだ。

北の城壁から、 僕を追って、 駆けつけてくれたのだ。

「――坊主ッ!」

背後から、 ガルドさんの声。

大剣を担いで、 東の城壁の石段を、 駆け下りてくる。

「ローデリヒ! 守備隊を、 下がらせろ! こいつの相手は、 数で押しても、 無駄だ!」

「分かってる!」

ローデリヒさんが、 片腕で、 剣を抜いた。


シロガネが、 僕の左隣に、 並んだ。

傷だらけの体で。

それでも、 金色の瞳は、 まっすぐに、 グラズを見据えていた。


五人。


一万の魔王軍の、 魔将に対して。

たった、 五人。


グラズが、 吠えた。


――オオオオオオオオオッ!


広場の石畳が、 震えた。

窓という窓の硝子が、 ひび割れた。


そして、 鉄の棍棒が、 振り下ろされた。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




戦いは、 一方的だった。


鉄の棍棒が振るわれるたびに、 広場の石畳が、 砕け散った。

ガルドさんの大剣が、 グラズの脛を斬りつけた。

赤銅色の肌に、 浅い傷が、 走った。

それだけだった。

次の瞬間、 ガルドさんは、 棍棒の柄で薙ぎ払われ、 広場の端まで、 吹き飛ばされていた。


エレオノーラさんの剣が、 グラズの手首を狙った。

速く、 正確で、 無駄のない、 王女の剣。

けれど、 その剣も、 グラズの肌の上で、 甲高い音を立てて、 弾かれた。

角から流れ込む魔力が、 鎧のように、 その全身を覆っていた。

古賀の言ったとおりだった。


シロガネの牙が、 グラズの足首に食らいついた。

グラズは、 足を一振りしただけで、 シロガネを、 振り払った。


そして、 僕は。


「――っ、 ああっ!」


棍棒を、 剣で受け止めた。

受け止めた、 その瞬間。


左腕の奥で、 何かが、 ぶつりと、 切れる音がした。


一日だけの骨。

澪さんの薬と、 ヴェルダさんの魔法で、 無理やり繋ぎ止めていた骨。

その繋ぎ目が、 グラズの棍棒の衝撃に、 耐えきれなかった。


熱い、 という言葉では、 足りなかった。

左腕の中で、 炎が、 燃え上がったかのようだった。

視界が、 白く、 弾けた。

剣を握る手から、 力が、 抜けていく。


膝が、 石畳に、 叩きつけられた。


グラズが、 僕を見下ろしていた。

赤い目に、 わずかな、 失望の色が浮かんでいた。


――これで、 終わりか。


鉄の棍棒が、 ゆっくりと、 振り上げられた。


「白峰殿ッ!」

エレオノーラさんの悲鳴が、 遠くに聞こえた。


立たなきゃ。

立たなきゃ。


左腕が、 動かない。

右腕も、 痺れている。

脚に、 力が、 入らない。


胸のポケットの職業札が、 熱を、 失いかけていた。

炎が、 しぼんでいく。


――ここまで、 か。


そう思った、 そのときだった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




王城の鐘楼のてっぺんから。

竪琴の音が、 響いた。


ぽろん、 と。

たった一音。


けれど、 その一音は、 ヴェルダさんの拡声の魔法に乗って、 王都の隅々にまで、 届いた。

城壁の上の兵たちの耳に。

治療院の負傷兵たちの耳に。

厨房の料理人たちの耳に。

南の大門に並んだ、 避難民たちの耳に。

そして、 東門の広場の、 僕の耳に。


不思議なことに、 その一音で、 王都じゅうが、 すっと、 静かになった。


「――今から、 歌います」


奏さんの声だった。

いつもの、 ふわふわした声ではなかった。

澄んでいて、 よく通って、 王都の空いっぱいに、 静かに、 染み渡っていく。


「勇者の歌です。 でも、 一人の勇者の歌じゃありません。 この国の、 みんなの歌です」


そして、 歌が、 始まった。


割れたカップを、 メイドの少女と一緒に拾った勇者がいた。

その少女は、 毎朝、 温かい布を持って、 訓練場で、 勇者を待っていた。


見習いの少年の前に、 震える手で立った勇者がいた。

その少年は、 勇者のために、 王都じゅうの家を回って、 名簿を作った。


ハルン村の教会の前で、 退かなかった勇者がいた。

その村の子どもは、 勇者を信じて、 手紙を書いた。


灰色峡谷で、 殿の隣に立った勇者がいた。

その殿の隊長は、 今、 片腕で、 東門の広場に立っている。


東門で、 自分の体を門にした、 重騎士がいた。

西区で、 子どもたちの前に、 光の壁を張った、 結界師がいた。

治療院で、 一晩じゅう、 薬草をすり潰し続けた、 薬師がいた。

一万人分の握り飯を、 夜通し握り続けた、 料理人がいた。

鐘楼の上で、 魔物の弱点を探し続けた、 鑑定士がいた。


勇者は、 一人じゃない。

灯は、 一つじゃない。

カップを拾った手も。

名簿を作った手も。

包帯を巻いた手も。

握り飯を握った手も。

子どもの手を引いて、 南の大門へ歩いた手も。


みんなの手に、 灯がある。


――勇者を選ぶは、 天にあらず。

――灯を分かつ者たちの、 その手にあり。


奏さんの歌声に、 誰かの声が、 重なった。


最初は、 一つだった。

北の城壁の上の、 一人の兵の声。

それが、 二つになった。

三つになった。

十になった。


城壁の上の兵たちが、 歌っていた。

治療院の負傷兵たちが、 寝台の上で、 歌っていた。

厨房の料理人たちが、 鍋をかき回しながら、 歌っていた。

南の大門に並んだ避難民たちが、 子どもの手を握りながら、 歌っていた。

東区の家々の窓から、 人々が、 顔を出して、 歌っていた。


王都じゅうが、 歌っていた。


十万の声が、 一つの歌になって。

王都の空に、 響き渡っていた。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




胸のポケットが、 爆ぜた。


ハルン村の比ではなかった。

灰色峡谷の比でもなかった。

胸の奥で、 太陽が、 いくつも、 いくつも、 生まれていくような。

そんな熱が、 一瞬で、 全身を、 駆け巡った。


左腕の痛みが、 消えたわけではなかった。

けれど、 その痛みの上から、 温かいものが、 包み込むように、 流れ込んできた。

十万の声が。

十万の手が。

僕の腕を、 支えてくれていた。


立ち上がった。


剣が、 金色に、 輝いていた。

アルベルトさんの鋼の剣。

刃の根元の、 灯草の花の紋様が、 夜明けの太陽のように、 燃えていた。


そして。


その金色の光は、 僕の剣だけに、 とどまらなかった。


右隣の、 エレオノーラさんの剣が。

金色に、 輝き始めた。


広場の端で、 大剣を杖にして立ち上がろうとしていた、 ガルドさんの大剣が。

片腕で剣を構える、 ローデリヒさんの剣が。

そして、 僕の左隣の、 シロガネの、 銀色の毛並みが。


金色の光に、 包まれていった。


「……これ、 は……」

エレオノーラさんが、 自分の剣を見つめて、 息を呑んだ。

「体が……軽い……。 力が、 流れ込んでくる……」

「坊主……! お前の火か……!」

ガルドさんが、 目を見開いていた。


灯を、 分かつ。


ずっと、 意味の分からなかった、 その言葉。

人々が、 僕に、 灯を分けてくれる。

そして、 その灯は、 僕の中で燃えて。

今度は、 僕の隣に立つ人たちに、 分かたれていく。


一人で背負うための力じゃない。

みんなで、 分かち合うための力。


それが、 誓約の灯だった。


胸のポケットから、 職業札を取り出した。


【職業:勇者(候補)】


その「候補」の二文字が。

金色の光の中で。

すうっと、 透き通るように、 消えていった。


【職業:勇者】


ほんの、 一瞬だけ。

札の上には、 その文字だけが、 輝いていた。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




グラズが、 一歩、 後ずさった。


鉄角の魔将の赤い目に、 初めて、 見たことのない色が浮かんでいた。

驚愕。

そして、 その奥に、 かすかな、 畏れ。


「――角の付け根だよ、 白峰氏!」


鐘楼の上から、 古賀の声が、 拡声の魔法に乗って、 降ってきた。

「魔力の流れの出口だ! そこだけは、 鎧が薄い!」


「――ガルド、 ローデリヒ! 右脚を!」

エレオノーラさんが、 叫んだ。

「わたくしは、 左脚を!」

「おうッ!」

「任せろッ!」


三つの金色の剣が、 同時に、 閃いた。


ガルドさんとローデリヒさんの剣が、 グラズの右膝の裏を、 深々と、 斬り裂いた。

さっきまで、 傷一つつけられなかった赤銅色の肌が、 金色の刃の前に、 紙のように、 裂けていった。


エレオノーラさんの剣が、 左膝の裏を、 斬り裂いた。

王女の剣は、 速く、 正確で、 一切の無駄がなかった。

そして、 今は、 金色に、 輝いていた。


グラズの巨体が、 大きく、 傾いた。

両膝が、 地響きを立てて、 石畳を、 砕いた。


膝をついても、 まだ、 その頭は、 僕の背丈の、 倍の高さにあった。


「――シロガネ!」


叫んだ瞬間、 銀色の影が、 僕の足元に、 滑り込んできた。

金色の光に包まれた、 銀牙狼。

その背に、 飛び乗る。

右手に、 金色の剣。

左腕は、 動かない。

それでも、 シロガネの首に、 左腕を、 必死に、 絡めた。


シロガネが、 跳んだ。


グラズの膝を、 蹴った。

太腿を、 蹴った。

腰を、 蹴った。

鉄の棍棒を握る、 その腕を、 駆け上がっていく。

金色の光の尾を、 引きながら。


グラズが、 吠えた。

左腕を振り上げて、 僕たちを、 払い落とそうとした。


その左腕に、 青い光が、 絡みついた。


「け、 【結界】……ッ!」


広場の端に、 三枝さんが、 立っていた。

西区から、 走ってきたのだ。

擦りむいた膝から、 血を流しながら。

両手を、 グラズの左腕に向けて、 突き出していた。

青い光の膜が、 鎖のように、 グラズの腕に、 巻きついていた。


ほんの、 一瞬だけ。

グラズの腕が、 止まった。


その一瞬で、 十分だった。


シロガネが、 グラズの肩を、 蹴った。


宙に、 舞う。


眼下に、 鉄の角が見えた。

黒く、 鈍く、 脈打つように光る、 二本の角。

その付け根。

赤銅色の肌と、 黒い鉄が、 交わる場所。

そこだけ、 魔力の鎧が、 薄く、 揺らいでいた。


息を、 吐く。

肩の力を、 抜く。

親指は、 ここ。

小指で、 締める。

力を入れるのは、 振り下ろす最後の、 一瞬だけ。


――剣は、 守るために振れ。


金色の剣が、 弧を描いた。


剛が守った、 東門のために。

三枝さんが守った、 西区の子どもたちのために。

澪さんの、 美咲さんの、 奏さんの、 古賀の、 トマスくんの、 リゼさんの。

ガルドさんの、 ローデリヒさんの、 エレオノーラさんの。

そして、 十万の、 灯を分けてくれた人たちのために。


剣が、 角の付け根に、 吸い込まれていった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




音は、 しなかった。


ただ、 金色の光が、 弾けた。


鉄の角が、 その付け根から、 ゆっくりと、 傾いた。

角に集まっていた魔力が、 行き場を失って、 赤黒い霧となって、 噴き出した。

グラズの全身を覆っていた魔力の鎧が、 剥がれ落ちていく。

赤銅色の肌から、 湯気のように立ち上っていた魔力が、 消えていく。


グラズの巨体が、 ゆっくりと、 前のめりに、 倒れ始めた。


シロガネが、 僕を背に乗せたまま、 グラズの肩から、 跳び下りた。

石畳に、 着地する。

その背後で、 地響きを立てて、 鉄角の魔将が、 倒れ伏した。


広場が、 静まり返った。


グラズの赤い目が、 まだ、 開いていた。

その目が、 ゆっくりと、 僕を、 捉えた。


そして。

その口が、 動いた。


「……灯を……持つ……者……」


低く、 かすれた、 けれど、 確かに、 人の言葉だった。


「……三百年……ぶりだ……」

赤い目が、 かすかに、 細められた。

笑ったのだと、 分かった。

「……あの方が……言っていた……とおりだ……。 いつか……また……灯を持つ者が……来る……と……」


「……あの方?」

僕は、 思わず、 問い返していた。

「あの方って、 誰のことだ」


グラズは、 答えなかった。

赤い目から、 ゆっくりと、 光が、 消えていった。

最後に、 その唇が、 かすかに、 動いた。


「……魔王……様……」


鉄角のグラズは、 それきり、 動かなくなった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




魔王軍の陣から、 角笛が、 鳴り響いた。


夜明けに聞いた、 あの低く重い音ではなかった。

甲高く、 途切れ途切れの、 悲鳴のような音だった。


城壁の上から、 見張りの兵が、 叫んだ。

「――魔王軍が……! 魔王軍が、 退いていく……!」


黒い波が、 引いていく。

地平線を埋め尽くしていた魔物の群れが、 北へ、 北へと、 潮が引くように、 遠ざかっていく。


一瞬の、 静寂。


それから。


王都じゅうから、 歓声が、 湧き上がった。


城壁の上で。

治療院で。

厨房で。

南の大門で。

東区の家々の窓から。


十万の声が、 今度は、 歌ではなく、 歓喜の叫びとなって、 王都の空に、 響き渡った。


僕は、 シロガネの背から、 ずり落ちるようにして、 石畳の上に、 座り込んだ。

左腕が、 燃えるように、 痛かった。

体じゅうの力が、 抜けていた。

胸のポケットの職業札を、 震える右手で、 取り出す。


【職業:勇者(候補)】


「候補」の二文字が、 また、 そこにあった。

けれど、 その文字は、 戦の前よりも、 ずっと、 ずっと、 薄くなっていた。

今にも、 消えてしまいそうなほどに。


「……戻っちゃった」

思わず、 笑った。

笑ったら、 左腕に響いて、 また、 呻いた。


「……一瞬だけ、 選ばれたのですね」

エレオノーラさんが、 僕の隣に、 膝をついた。

金色の光は、 もう、 その剣から、 消えていた。

けれど、 その青い瞳は、 涙に濡れて、 きらきらと、 光っていた。

「わたくしは、 見ました。 あなたの札から、 その二文字が消えるのを」

「……でも、 また、 戻りました」

「ええ」

エレオノーラさんは、 微笑んだ。

「それで、 いいのだと思います。 あなたは、 候補のままでいたいと、 父上に、 そう言ったのでしょう」


広場の端で、 ガルドさんと、 ローデリヒさんが、 互いの肩を支え合いながら、 笑っていた。

三枝さんが、 石畳の上にへたり込んで、 泣きながら、 笑っていた。

シロガネが、 僕の頬を、 ざらざらとした舌で、 何度も、 何度も、 舐めていた。


そして、 広場の石壁の前で。

志賀が、 仰向けに倒れたまま、 空を見上げていた。


王都じゅうに響き渡る、 歓声。

その中で、 繰り返し、 繰り返し、 叫ばれる名前。

「勇者様!」

「候補の勇者様!」

「白峰様!」


その中に、 志賀の名前は、 一度も、 なかった。


志賀の腰の職業札が、 鈍く、 曇っていた。


【職業:魔剣士】


その文字は、 もう、 半分ほどが、 墨を流したように、 黒く、 霞んでいた。


志賀は、 腕で、 顔を覆った。

その肩が、 小刻みに、 震えていた。


声は、 歓声に、 かき消されて、 誰の耳にも、 届かなかった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆








治療院の扉の前に、 澪さんが立っていた。


白い前掛けは、 負傷兵の血で、 赤く染まっていた。

両手は、 薬草の汁で、 緑色に染まっていた。

目の下に、 濃い隈ができていた。

一晩じゅう、 そして、 一日じゅう、 休まずに、 働き続けていたのだろう。


僕は、 シロガネの背に、 もたれかかるようにして、 治療院の前の通りを、 歩いてきた。

エレオノーラさんが、 反対側から、 僕の右腕を、 肩に担いでくれていた。

左腕は、 もう、 指一本、 動かなかった。


澪さんが、 僕に気づいた。


その目が、 大きく、 見開かれた。


澪さんは、 何も言わずに、 駆け寄ってきた。

僕の前で、 立ち止まる。

動かない左腕を見る。

血と、 泥と、 煤にまみれた、 僕の顔を見る。


「……ただいま、 柚木さん」

僕は、 笑った。

「約束どおり、 帰ってきたよ。 這ってじゃなくて、 シロガネに乗せてもらったけど」


澪さんの唇が、 震えた。


それから、 澪さんは、 何も言わずに、 僕の胸に、 額を押しつけた。

両手で、 僕のシャツを、 ぎゅっと、 握りしめた。

その肩が、 小刻みに、 震えていた。


「……おかえり」


くぐもった、 小さな声だった。


「……おかえり、 白峰くん」


エレオノーラさんが、 そっと、 僕の右腕を離した。

一歩、 下がる。

その横顔は、 少しだけ、 寂しそうで。

けれど、 それ以上に、 優しかった。


シロガネが、 小さく、 鼻を鳴らした。


王都の空には、 まだ、 歓声が、 響き続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。