第22話「最後の夜」
西の塔のてっぺんの、 丸い研究室。
机の上に、 一枚の大きな羊皮紙が広げられていた。
そこに描かれていたのは、 鉄の角を持つ、 巨大なオーガの姿だった。
「――角の、 付け根だ」
古賀が、 羊皮紙の上の、 グラズの頭部を、 指でなぞった。
目の下の隈は、 昨日よりも、 さらに濃くなっていた。
けれど、 その目は、 宿にいた頃よりも、 ずっと、 生き生きとしていた。
「本陣で、 グラズを鑑定したんだ。
逃げる直前に、 一瞬だけ。
そのときは、 何が書いてあるのか、 ちゃんと読めなかった。
でも、 ヴェルダ様に、 魔物の古い記録を見せてもらって、 やっと分かった」
古賀は、 眼鏡を押し上げた。
「グラズの体の魔力は、 全部、 あの鉄の角に集まってる。
志賀の剣が、 胸で止まったのは、 胸の皮膚に、 角から流れてくる魔力が、 鎧みたいに張り巡らされてたからだ。
でも、 角の付け根だけは、 魔力の流れの、 出口なんだよ。 そこだけは、 鎧が、 一番薄い」
「角の付け根を、 斬れば……」
「角に集まった魔力が、 一気に、 暴走する。
そうなれば、 グラズの体は、 もう、 ただの、 でかいオーガと同じだ」
ヴェルダさんが、 ふぇっふぇっと、 喉の奥で笑った。
「大したもんだよ、 この坊やは。
一晩で、 三百年分の魔物の記録を、 読み通しちまった。
宮廷魔術師団の連中に、 爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいね」
「……昔から、 読むのだけは、 得意なんで」
古賀は、 少しだけ、 照れくさそうに頭をかいた。
「ありがとう、 古賀」
僕が言うと、 古賀は、 首を横に振った。
「お礼は、 グラズを倒してからでいいよ。 ……それに、 問題が一つある」
「問題?」
「角の付け根は、 グラズの頭の上だ。
あいつの背丈は、 人の三倍。
頭の上に剣を届かせるには、 あいつを、 膝まずかせるか、
誰かが、 あいつの体の上まで、 跳び上がるしかない」
古賀は、 僕の吊った左腕を、 ちらりと見た。
「……今の白峰氏には、 どっちも、 無理だよね」
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「――一日だけなら」
治療院の、 薬草の匂いが満ちた小部屋。
澪さんは、 僕の左腕の添え木を、 そっと外しながら、 言った。
「ヴェルダ様と、 相談した。
私の【調合】で作った、 骨を繋ぐ薬と、 ヴェルダ様の治癒の魔法を、 重ねがけする。
そうすれば、 一日だけ、 ひびの入った骨を、 無理やり繋ぎ止めておける」
「一日だけ……」
「……一日が過ぎたら、 魔法が切れる。
無理やり繋いでいた骨が、 元に戻る。
それどころか、 ひびが、 広がるかもしれない。
そうなったら、 今度は、 一か月は、 剣を握れない」
澪さんの手が、 止まった。
「……すごく、 痛いと思う。 魔法が切れるとき」
澪さんは、 うつむいていた。
薬草をすり潰す乳鉢を、 両手で、 包むように持っていた。
「……本当は、 したくない」
小さな声だった。
「白峰くんの体を、 無理やり、 戦える体にするなんて。
薬師の戒律に、 背いてる気がする。
命を扱う者は、 害をなすなかれ。
……一日の後の痛みを分かっていて、 それでも、
この薬を作るのは、 害をなすことじゃないのかなって」
僕は、 何も言えなかった。
澪さんは、 長い間、 黙っていた。
それから、 ゆっくりと、 顔を上げた。
「……でも。 白峰くんは、 行くんでしょう」
「……うん」
「腕が折れてても。 剣が握れなくても。
誰かが、 城壁の上で戦ってたら。 白峰くんは、 絶対に、 行く」
「……うん」
「だったら」
澪さんの目に、 涙が、 にじんでいた。
けれど、 その目は、 まっすぐに、 僕を見ていた。
「折れた腕で行かせるより。 治った腕で、 行かせたい。
それが、 今の私にできる、 精一杯の、 害をなさないこと、 だと思うから」
澪さんは、 乳鉢を、 卓の上に置いた。
それから、 僕の左手を、 両手で、 そっと包んだ。
「その代わり、 約束して」
「なに?」
「一日が終わったら、 必ず、 帰ってきて。
痛くて、 動けなくなっても。 這ってでも、 私のところに、 帰ってきて」
澪さんの手が、 震えていた。
「……私が、 治すから。
何度でも。
一か月かかっても、
一年かかっても。
だから、 必ず、 帰ってきて」
僕は、 澪さんの手を、 右手で、 そっと握り返した。
「……約束する。 必ず、 帰ってくる」
胸のポケットが、 ふわりと、 温かくなった。
澪さんは、 しばらく、 僕の手を握ったまま、 動かなかった。
やがて、 ふっと、 小さく息を吐いて、 手を離した。
「……明日の、 夜明け前に、 薬を作る。 それまで、 腕は、 絶対に使わないで」
「うん」
「……それと」
澪さんは、 背を向けた。
「……さっきの。 誰にも、 言わないで。 恥ずかしいから」
その耳が、 真っ赤だった。
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その日の夕刻。
王城の正面のバルコニーに、 国王レオンハルトが立った。
眼下の大広場には、 王都じゅうの人々が、 集まっていた。
兵士。
民兵。
避難民。
職人。
商人。
母親に抱かれた、 幼い子どもたち。
王は、 しばらく、 黙って、 人々を見下ろしていた。
夕日が、 その白いものの混じった髪を、 茜色に染めていた。
「――アルセリアの民よ」
王の声は、 決して、 大きくはなかった。
けれど、 静まり返った大広場の隅々にまで、 届いた。
「明日の夜明け、 魔王軍は、 総攻撃を仕掛けてくる。
攻城塔が、 四基。 魔物が、 一万。
……正直に言おう。 余は、 恐ろしい」
大広場が、 ざわめいた。
王が、 民の前で、 「恐ろしい」と言ったのだ。
「三年前、 余は、 息子を失った。
アルベルトは、 この国の勇者と呼ばれ、 その名を背負ったまま、
一人で、 北の砦の門の前に立ち、 帰ってこなかった」
王の声が、 わずかに、 揺れた。
「余は、 二度と、 誰か一人に、 この国を背負わせたくはない。
明日の戦は、 誰か一人の戦ではない。 ここにいる、 すべての者の戦だ」
王は、 大広場を、 ゆっくりと見渡した。
「城壁の上で、 剣を取る者。
治療院で、 包帯を巻く者。
厨房で、 鍋をかき回す者。
子どもの手を引いて、 南の大門へ走る者。
祈る者。
歌う者。
――そのすべてが、 この国を守る、 盾であり、 剣である」
王は、 胸に、 拳を当てた。
「明日、 共に戦おう。 そして、 共に、 生き延びよう」
一瞬の、 静寂。
それから、 大広場から、 地鳴りのような声が湧き上がった。
王の名を呼ぶ声。
アルセリアの名を呼ぶ声。
そして、 その中に、 混じって。
「候補の勇者様!」
「カップ拾いの勇者様!」
子どもたちの、 甲高い声。
バルコニーの端で、 その光景を見ていた僕の胸のポケットが、 熱くなった。
王が、 振り返った。
目が、 合った。
王は、 小さく、 手招きをした。
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王の私室は、 驚くほど、 質素だった。
簡素な寝台と、 古い木の机。
壁には、 一枚の肖像画が掛けられていた。
金の髪の、 明るい笑顔の青年。
その瞳の色が、 エレオノーラさんと、 よく似ていた。
「アルベルトだ」
王は、 肖像画を見上げて、 静かに言った。
「余に似ず、 よく笑う子だった」
それから、 王は、 僕に向き直った。
「白峰殿。 一つ、 尋ねたい」
「はい」
「この戦が終わったら、 余は、 そなたに、 この国の勇者の称号を、 正式に授けたいと思っている。
……受けてくれるか」
僕は、 少しだけ、 考えた。
それから、 首を、 横に振った。
「……ありがたいお話ですが。 お受けできません」
王の眉が、 わずかに動いた。
「なぜだ」
「僕は、 まだ、 候補なので」
僕は、 胸のポケットから、 職業札を取り出した。
「神様に、 候補と書かれた以上、 僕は、 候補なんだと思います。 それに……」
肖像画を、 見上げた。
「称号は、 人を縛ると、 エレオノーラさんに教わりました。
僕は、 称号に縛られて、 一人で門の前に立つ勇者には、 なりたくないんです。
みんなに隣に立ってもらって、 みんなで、 生きて帰ってくる。
そういう、 候補のままでいたいんです」
王は、 長い間、 僕を見つめていた。
それから、 ふっと、 その目元を、 緩めた。
「……娘が、 そなたを信じる理由が、 少し、 分かった気がする」
王は、 僕の肩に、 そっと手を置いた。
「ならば、 称号は授けぬ。 その代わり、 一人の民として、 余も、 そなたを信じよう。
王としてではなく、 息子を失った、 一人の父親として」
胸のポケットが、 静かに、 熱くなった。
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夜。
王城の鍛冶場に、 槌の音が、 響いていた。
炉の火が、 赤々と燃えていた。
その前で、 王城の鍛冶長が、 汗だくになって、 一振りの剣を、 打ち上げたところだった。
「――仕上がりましたぞ、 殿下」
鍛冶長が、 剣を、 エレオノーラさんに、 両手で差し出した。
エレオノーラさんは、 その剣を、 静かに受け取った。
それから、 僕のほうを向いた。
「……白峰殿。 これを」
差し出された剣は、 銀色に輝いていた。
細身で、 けれど、 しっかりとした重みがあった。
刃の根元に、 小さな、 灯草の花の紋様が、 刻まれていた。
「兄の剣の鋼です」
息が、 止まった。
「霊廟の前に突き立てられていた、 あの折れた剣。
その鋼を溶かして、 打ち直させました。 父上の、 お許しもいただいています」
エレオノーラさんの声は、 静かだった。
「騎士団から借りた剣は、 灰色峡谷で、 ひびが入ってしまったと聞きました。
明日、 あなたが振るう剣は、 それでは、 心もとない」
「でも、 これは、 アルベルトさんの……」
「だからです」
エレオノーラさんは、 剣を、 僕の右手に、 そっと握らせた。
その上から、 自分の両手を、 重ねた。
剣だこのある、 温かい手だった。
「兄は、 一人で、 すべてを背負いました。 この剣は、 兄が一人で背負ったものの、 重さです」
青い瞳が、 まっすぐに、 僕を見つめていた。
「その重さを、 今度は、 あなたに、 預けます。
あなたなら、 一人で背負わずに、 みんなと、 分かち合ってくれるから。
……兄が、 できなかったことを、 あなたなら、 してくれるから」
僕は、 剣を、 見つめた。
刃の根元の、 灯草の花の紋様。
冬の雪の中でも、 小さな灯りのように咲き続ける、 白い花。
「……お預かりします」
声が、 少しだけ、 かすれた。
「アルベルトさんの重さも。 エレオノーラさんの想いも。 一人じゃなく、 みんなで、 背負います」
エレオノーラさんの手が、 僕の手の上で、 小さく、 震えた。
それから、 そっと、 離れた。
「……明日は、 わたくしが、 あなたの右隣に立ちます」
エレオノーラさんは、 そう言って、 少しだけ、 微笑んだ。
「左隣は、 あの銀色の狼に、 譲って差し上げます」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
最後の夜は、 静かに、 更けていった。
東門では、 剛とローデリヒさんが、 門扉の前に、 並んで座っていた。
「おい、 大河内。 明日、 門が破られたら、 どうする」
「難しいことは分からんですが。 門が破られたら、 俺が、 門になります」
「はっはっは! いい答えだ!」
厨房では、 美咲さんとボルグさんが、 夜通し、 握り飯を握り続けていた。
「明日の朝ご飯、 一万人分よ。 ちゃんと、 みんなに、 温かいものを食べさせてあげなきゃ」
「……副料理長の言うことは、 だいたい正しい」
北の城壁の上では、 三枝さんが、 結界師団の魔術師たちと一緒に、 星空を見上げていた。
「わ、 私……明日、 ちゃんと、 結界、 張れるかな……」
「張れるさ。 あんたは、 もう、 立派な結界師だよ」
ヴェルダさんが、 三枝さんの肩を、 杖の先で、 こつんと叩いた。
王城の鐘楼のてっぺんでは、 奏さんが、 竪琴を抱えて、 王都の夜景を見下ろしていた。
その隣に、 古賀が、 羊皮紙の束を抱えて、 座っていた。
「ヴェルダ様の拡声の魔法を、 この鐘楼に仕掛けたって。
明日、 ここで歌えば、 王都じゅうに、 声が届くらしいよ」
「いいね、 それ。 歌になる」
奏さんは、 竪琴の弦に、 そっと指を置いた。
「明日の歌は、 もう、 決めてあるの。
ハルトくんの歌。 でも、 ハルトくん一人の歌じゃない。 この国の、 みんなの歌」
王城の厩舎では、 一人の若者が、 藁の上に座り込んでいた。
十三歳の厩番の少年が、 その隣で、 馬の蹄の手入れの仕方を、 教えていた。
「――で、 ここを、 こう、 削るんです。
馬が嫌がったら、 すぐにやめて、 首を撫でてあげてください」
「……こう、 か」
「そうです。 上手ですね、 健吾さん」
「……上手じゃねえよ。 ……でも、 ありがとな、 ピート」
小田切は、 馬の首を、 ぎこちない手つきで、 そっと撫でた。
馬は、 嫌がらずに、 鼻を鳴らした。
そして、 治療院の小部屋では。
澪さんが、 一晩じゅう、 乳鉢で、 薬草をすり潰し続けていた。
ごり、 ごり、 と、 規則正しい音が、 夜明けまで、 途切れることなく、 響いていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
夜明け前。
北の城壁の上に、 僕は立っていた。
左腕は、 澪さんの薬と、 ヴェルダさんの魔法で、 一日だけ、 繋がっていた。
右手には、 アルベルトさんの鋼で打たれた剣。
右隣に、 エレオノーラさん。
左隣に、 シロガネ。
胸のポケットから、 職業札を取り出した。
【職業:勇者(候補)】
【スキル:誓約の灯】
【誓約:銀牙狼シロガネ】
炎の紋様は、 もう、 札の表面の半分以上を、 覆い尽くしていた。
その芯は、 はっきりと、 金色に輝いていた。
そして。
「候補」の二文字が。
夜明け前の薄明かりの中で、 確かに、 薄くなっていた。
焚き火のせいでも、 月のせいでもなかった。
透き通るように、 淡く、 消えかけていた。
「……勇者様」
エレオノーラさんが、 小さく言った。
その目も、 札の上の、 薄れかけた二文字を、 見つめていた。
「その文字が、 消えたら……」
「……分かりません」
僕は、 札を、 胸のポケットに戻した。
「でも、 消えても、 消えなくても。 やることは、 同じです」
北の地平線が、 白み始めた。
魔王軍の陣の中で、 四基の巨大な影が、 ゆっくりと、 動き出した。
木の骨組みに、 獣の皮を張った、 攻城塔。
その一基一基を、 何十体ものオーガが、 押していた。
地響きが、 城壁の上にまで、 伝わってきた。
そして、 その攻城塔の後ろに。
鉄角のグラズが、 立っていた。
三日前と同じように。
赤い目で、 じっと、 僕を見ていた。
――今度こそ、 だ。
その目が、 そう言っていた。
僕は、 剣を、 握りしめた。
「……うん。 今度こそ、 だね」
第22話をお読みいただき、 ありがとうございます。
決戦前夜のお話でした。
まもなく一部もフィナーレ。次回、 第23話。
いよいよ、 王都大侵攻、 本番です。




