第21話「古賀悠の一言」
左腕を吊ったまま、 僕は、 城壁の上を歩いていた。
剣は、 握れない。
盾も、 持てない。
澪さんには、 治療院から一歩も出るなと言われた。
けれど、 じっとしていることは、 どうしても、 できなかった。
「……せめて、 歩くだけ。 走ったら、 連れ戻すから」
澪さんは、 最後には、 そう言って、 ため息をついた。
その代わりに、 シロガネが、 僕の隣にぴったりと寄り添って、 片時も離れなかった。
まるで、 澪さんから、 見張りを頼まれたかのように。
北の城壁。
東の城壁。
西の城壁。
南の城壁。
一つひとつの持ち場を、 歩いて回った。
疲れ切った兵たちに、 声をかけた。
美咲さんから預かった握り飯を、 配って回った。
怪我をした兵には、 治療院へ行くように頼んだ。
眠れない兵の話を、 ただ、 黙って聞いた。
「勇者様、 腕は大丈夫なんですか」
「うん。 ひびが入っただけだから」
「ひびが入っただけって……。 勇者様、 それ、 普通は、 寝てるもんですよ」
兵たちが、 笑った。
疲れた顔に、 ほんの少しだけ、 笑みが戻った。
「その狼が、 噂の、 シロガネですか」
「うん。 遊撃隊の、 小田切の……ううん。 今は、 僕の、 相棒なんだ」
「すげえ……。 本物の銀牙狼だ……」
シロガネは、 兵たちに囲まれて、 少しだけ居心地が悪そうに、 尾を揺らしていた。
それでも、 唸りはしなかった。
ときおり、 子どもの兵に頭を撫でられると、 目を細めた。
西の城壁の、 北寄りの一角。
城壁の下を、 王都の西を流れる川から引き込んだ水路が、 くぐっている場所があった。
石のアーチの下に、 鉄の格子の門が、 水面すれすれまで、 降ろされている。
「西の水門です」
持ち場を守る年配の兵が、 教えてくれた。
「王都の飲み水は、 ここから引き込んでいるんです。
籠城の間は、 格子を下ろして、 魔物が水路から入り込まないようにしてあります。
格子を上げる仕掛けは、 城壁の内側の、 あの小屋の中にありましてね。
鍵は、 宰相府が管理しています」
「ここも、 守らなきゃいけない場所なんですね」
「ええ。 地味な持ち場ですが、 大事な場所です」
兵は、 少しだけ、 誇らしげに笑った。
シロガネが、 ふと、 水門の小屋のほうを向いて、 鼻をひくつかせた。
低く、 小さく、 一度だけ、 唸った。
「……シロガネ?」
シロガネは、 しばらく、 小屋の扉を見つめていた。
それから、 首を振って、 また、 僕の隣に戻ってきた。
何だったのだろう。
そのときは、 気にも留めなかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その日の夕方、 僕は、 宿屋『黒鹿亭』の前に立っていた。
扉を叩く前に、 一度だけ、 深く息を吸った。
「……白峰氏?」
扉を開けたのは、 古賀だった。
目の下に、 濃い隈ができていた。
「どうしたの、 その腕で」
「志賀に、 話があって」
古賀は、 一瞬だけ、 何かを言いかけた。
それから、 黙って、 体を脇に寄せた。
宿の一番大きな部屋に、 志賀派の皆がいた。
寝台の上に、 志賀が、 あぐらをかいて座っていた。
拳に、 布が巻かれていた。
その周りに、 堂島と、 宇佐美と、 吉岡。
姫野さんの姿もあった。
花菱さんは、 侯爵家の屋敷に避難したまま、 戻っていないらしかった。
桐生の姿は、 相変わらず、 どこにもなかった。
そして、 小田切は、 もう、 ここにはいなかった。
僕が部屋に入ると、 空気が、 一瞬で凍りついた。
「……何しに来やがった」
志賀が、 低い声で言った。
「志賀。 三日後、 魔王軍の総攻撃が来る。 攻城塔が、 四基」
僕は、 志賀の前に立った。
「その時に、 力を貸してほしいんだ。 騎士団の指揮の下で、 城壁の守りに、 加わってほしい」
部屋の中が、 静まり返った。
「……は?」
志賀の口元が、 歪んだ。
「俺に、 騎士団の犬になれって?
あのガルドのおっさんの命令を聞いて、 お前の隣で、 城壁の上に並べって?」
「僕の隣じゃなくていい。 志賀が立ちたい場所でいい。
でも、 志賀の剣は、 強い。
遊撃隊で、 魔王軍の横腹を三日間削ったのは、 志賀の剣だ。
その剣があれば、 守れる人が、 たくさんいる」
「――ふざけんなよ」
志賀が、 寝台から、 立ち上がった。
「俺の剣は、 グラズに、 握りつぶされたんだよ。 見てただろ、 お前も」
志賀の声が、 震えていた。
「それで、 お前に、 襟首つかまれて、 引きずられて、 逃げ帰ってきた。
……分かるか? 俺が、 どんな気持ちだったか」
「……」
「お前に助けられたなんて、 俺は、 認めねえ。 絶対に、 認めねえ」
志賀は、 僕の顔の、 すぐ目の前まで、 詰め寄った。
「帰れよ、 エセ勇者。 お前の顔なんか、 二度と見たくねえ」
シロガネが、 僕の隣で、 低く唸った。
志賀が、 一瞬だけ、 びくりと後ずさった。
「……シロガネ。 いいんだ」
僕は、 シロガネの頭に、 そっと手を置いた。
それから、 志賀を、 まっすぐに見た。
「分かった。 今日は、 帰る。 でも、 気が変わったら、 いつでも、 来てほしい。
志賀の場所は、 ちゃんと、 空けておくから」
背を向けようとした、 そのときだった。
「――志賀」
部屋の入り口から、 声がした。
古賀だった。
扉の脇に立ったまま、 拳を、 白くなるほど、 握りしめていた。
その膝が、 小刻みに、 震えていた。
「……なんだよ、 古賀」
「言わなきゃいけないことが、 ある」
古賀は、 一歩、 部屋の中に踏み込んだ。
眼鏡の奥の目が、 まっすぐに、 志賀を見ていた。
「志賀の、 職業札。 曇ってる」
部屋の空気が、 凍りついた。
「……は?」
「決闘の後から、 ずっと、 少しずつ、 曇ってるんだ。
鑑定士のスキルで、 見えてた。
決闘で、 倒れた白峰氏に、 殺すための剣を振り下ろしたとき。
ハルン村の依頼を、 前金だけ受け取って、 放り出したとき。
本陣で、 グラズに挑んだとき。 そのたびに、 曇りが、 濃くなっていった」
古賀の声は、 震えていた。
けれど、 一度も、 途切れなかった。
「魔剣士の戒律は、 『剣は誇りのために振れ』。
志賀は、 その戒律に、 背き続けてる。 このままだと、 小田切と、 同じことになる」
誰も、 何も言わなかった。
志賀の顔から、 血の気が、 引いていった。
その手が、 無意識に、 腰の職業札に伸びた。
札を、 取り出す。
【職業:魔剣士】。
その文字を、 見つめる。
月が霞んでいるのだと、 自分に言い聞かせていた、 あの曇り。
それが、 今は、 宿の灯りの下で、 はっきりと、 見えていた。
「……いつからだ」
志賀の声が、 かすれていた。
「いつから、 知ってた」
「……決闘の、 日から」
「なんで、 言わなかった」
「……言えなかった」
古賀は、 うつむいた。
「俺、 そういう奴なんだよ。 一番大事なことは、 いつも、 言えない。
言ったら、 志賀に嫌われると思った。 パーティーから、 追い出されると思った。
……解説役のくせに、 お約束の外に、 一歩も、 出られなかった」
古賀は、 顔を上げた。
「でも、 三枝さんは、 言えた。 自分は荷物持ちじゃない、 結界師だって。
小田切は、 言えなかった。 だから、 あんなことになった」
その目に、 涙が、 にじんでいた。
「俺は、 志賀に、 小田切みたいになってほしくない。
だから、 言う。 嫌われても、 追い出されても、 言う」
古賀は、 大きく、 息を吸った。
「――志賀。 お前は、 主人公じゃない。
俺も、 主人公じゃない。
ここは、 物語の中じゃないんだ。
テンプレも、 お約束も、 主人公補正も、 ここには、 ないんだよ」
部屋の中が、 しんと静まり返った。
志賀は、 長い間、 職業札を見つめていた。
その手が、 震えていた。
そして。
「……出てけ」
かすれた、 低い声だった。
「出てけよ、 古賀。 お前は、 もう、 俺のパーティーじゃねえ」
古賀の肩が、 小さく、 揺れた。
けれど、 古賀は、 うなずいた。
「……うん。 分かってた」
それから、 眼鏡を外して、 シャツの裾で、 レンズを拭いた。
「今まで、 ありがとう、 志賀。
……ヴェルンのギルドで、 ゴードンを一撃で倒したとき。
正直、 最高に、 かっこよかった。 それは、 本当だよ」
古賀は、 眼鏡をかけ直して、 くるりと背を向けた。
部屋を出ていく。
その背中に、 誰も、 声をかけなかった。
僕は、 志賀を見た。
志賀は、 寝台の端に、 崩れるように腰を下ろしていた。
職業札を、 両手で握りしめたまま。
うつむいたまま。
「……志賀」
「帰れっつってんだろ」
志賀は、 顔を上げなかった。
「……帰れよ」
僕は、 黙って、 部屋を出た。
部屋の扉が閉まる直前。
吉岡が、 窓の外に視線を逸らしているのが見えた。
宇佐美が、 自分の職業札を取り出して、 その表面を、 じっと見つめているのが見えた。
姫野さんが、 硝子の小瓶を、 ポケットの奥に、 そっと押し込むのが見えた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
宿の外の路地で、 古賀が、 壁にもたれて、 夜空を見上げていた。
「……古賀」
「白峰氏」
古賀は、 振り返らずに言った。
「言えたよ、 俺」
「うん。 聞いてた」
「三枝さんの気持ちが、 少しだけ、 分かった。 ……膝、 まだ、 震えてる」
古賀は、 自嘲するように、 小さく笑った。
「追い出されちゃった。 解説役、 クビだってさ。 お約束どおりの展開だよね」
「古賀」
僕は、 古賀の隣に立った。
「行くところ、 ないなら。 王城に、 来ない?」
「……」
「ヴェルダさんが、 鑑定士を、 欲しがってたんだ。
魔王軍の魔物の弱点を、 調べられる人がいたら、 どれだけ助かるかって。 グラズのことも」
古賀は、 ゆっくりと、 僕のほうを向いた。
「……俺で、 いいの? 散々、 志賀の隣で、 白峰氏のこと、 笑ってたのに」
「いいよ。 古賀は、 ずっと、 教えてくれてたから。
志賀の札のことも、 遊撃隊の経路のことも。 シロガネのことも」
僕は、 足元のシロガネを見た。
シロガネが、 古賀の足に、 そっと、 鼻先を押しつけた。
古賀が、 目を丸くした。
「シロガネも、 そう言ってる」
古賀は、 しばらく、 シロガネを見下ろしていた。
それから、 眼鏡を外して、 腕で、 目元を、 ごしごしと擦った。
「……ずるいなあ、 白峰氏は」
「え?」
「なんでもない」
古賀は、 眼鏡をかけ直した。
少しだけ赤い目で、 笑った。
「――お約束、 でしょ」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
翌朝。
治療院で、 澪さんが、 マルタさんと、 声を潜めて話していた。
「……やっぱり。 浄化の工程を、 省いてます」
卓の上に、 硝子の小瓶が、 一つ置かれていた。
淡い薄紅色の液体。
籠城の初日に、 負傷兵が持ち込んだ、 あのポーションだった。
「【薬草知識】で、 調べました。
傷を塞ぐ効果は、 普通のポーションの、 三倍あります。
でも、 魔力の毒が、 抜けていません。
飲み続けると、 魔力中毒になります。
頭がぼんやりして、 もっと飲みたくなって、 やめられなくなる」
マルタさんの顔が、 険しくなった。
「……誰が、 これを」
「城下で、 銀貨三枚で売られてるそうです。 売っているのは……」
澪さんは、 一度、 言葉を切った。
それから、 静かに、 続けた。
「……姫野さん、 です」
マルタさんは、 しばらく、 黙っていた。
やがて、 深く、 息を吐いた。
「今は、 籠城の最中です。
兵たちから、 傷を早く塞ぐ薬を取り上げることは、 できません。 けれど、 戦が終わったら」
「……はい。 薬師ギルドに、 報告します」
澪さんは、 小瓶を、 そっと布に包んだ。
「薬師の戒律は、 『命を扱う者は、 害をなすなかれ』。 錬金術師も、 同じはずです」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その夜。
王都の南の外れの、 打ち捨てられた古い礼拝堂の地下で。
蝋燭の火が、 一つだけ、 揺れていた。
「――三日後の、 夜明けだ」
黒い外套のフードを目深にかぶった男が、 低い声で言った。
その手首に、 黒い蛇の刺青が、 ちらりと覗いた。
男の向かいに、 もう一人、 細身の影が立っていた。
前髪で目元を隠した、 若い男だった。
「魔王軍の総攻撃が始まったら、 西の水門の小屋に忍び込め。 格子を上げる仕掛けの鍵は、 これだ」
男は、 錆びた鉄の鍵を、 卓の上に置いた。
宰相府から盗み出したものだった。
「格子を上げれば、 水路から、 魔物が王都の中に流れ込む。
城壁の上の連中は、 外ばかり見ている。 内側から崩れれば、 王都は、 半日で落ちる」
細身の影は、 鍵を見下ろした。
長い、 長い沈黙が落ちた。
「……王都の中には、 十万人いる」
かすれた声だった。
「それが、 どうした」
フードの男が、 鼻で笑った。
「影で生きる者に、 光の側の人間の数など、 関係ない。
黒蛇は、 金を払う者のために動く。 今回の依頼主は、 魔王軍だ。 それだけのことだ」
男は、 細身の影の肩に、 手を置いた。
「お前は、 暗殺者だろう。
影から、 全部を操るのが、 最強なんだろう?
……証明してみせろよ。 ここで、 お前が、 ただの口先だけの小僧じゃないってことを」
細身の影の手が、 ゆっくりと、 卓の上の鍵に、 伸びた。
指先が、 冷たい鉄に、 触れた。
蝋燭の火が、 大きく、 揺れた。
その光が、 一瞬だけ、 前髪の奥の目を、 照らし出した。
その目は、 ひどく、 迷っていた。




