第20話「シロガネ」
第20話「シロガネ」
「……ひびが入ってる」
治療院の片隅の寝台で、澪さんは、僕の左腕にそっと指を這わせた。
肘から手首までの骨。
その真ん中あたりを押されると、目の奥に火花が散るほどの痛みが走った。
「折れてはいない。
でも、ひびが入ってる。
二週間は、剣も盾も持っちゃ駄目」
「二週間……。でも戦が」
「……駄目」
澪さんは、乳鉢で薬草をすり潰しながら、一度も僕の顔を見なかった。
ごり、ごりと規則正しい音。
いつもより少しだけその音が強かった。
「……柚木さん」
「……」
「心配かけてごめん」
「……謝ってほしいわけじゃないって、何回、言わせるの」
澪さんの手が止まった。
乳鉢の中にぽたりと小さな雫が落ちた。
「……ちゃんと来てくれた」
澪さんは、うつむいたまま、かすれた声で言った。
「……紙に書いたとおり。
怪我したら、私のところに来てって。
ちゃんと来てくれた」
「……うん。約束だから」
「……ばか」
澪さんは、袖で目元を乱暴に拭うと、すり潰した薬草を布に塗り広げた。
それを僕の左腕に丁寧に巻きつけていく。
添え木を当てて、包帯でしっかりと固定する。
その手は、少しだけ震えていた。
けれど、いつもどおり優しかった。
寝台の足元で、銀色の大きな体が丸くなっていた。
シロガネだった。
脇腹と脚と首の周りに白い包帯が、何重にも巻かれていた。
澪さんが僕の腕を診るより先に、手当てをしてくれたのだ。
「……薬草は、獣にも、効くの。量を、体の大きさに合わせれば」
澪さんは、シロガネの頭をそっと撫でた。
シロガネは、片目だけを開けて、澪さんを見上げた。
それから、小さく鼻を鳴らして、また目を閉じた。
「……いい子」
澪さんの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「シロガネ、柚木さんのこと、気に入ったみたいだね」
「……白峰くんの匂いがするからだと思う」
「え?」
「……なんでもない」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その日の午後。
西の塔のヴェルダさんが、わざわざ、治療院まで下りてきた。
「ちょいと札を見せてごらん」
職業札を渡す。
ヴェルダさんは、皺だらけの指で札の表面をなぞった。
それから、低く唸った。
【職業:勇者(候補)】
【スキル:誓約の灯】
【誓約:銀牙狼シロガネ】
「……見たことのない欄だね」
ヴェルダさんの目が細くなった。
「テイマーが魔物を従えると、札には【使役】と刻まれる。
主と従。
上と下だ。
けれど、あんたの札は違う」
ヴェルダさんの指が、「誓約」の二文字をそっと叩いた。
「誓約、さ。
主と従じゃない。
対等な約束だよ。
あんたがあの狼に誓って、あの狼があんたに誓った。
互いに、互いを守ると」
僕は、寝台の足元のシロガネを見た。
シロガネは、いつの間にか、両目を開けて、じっと僕を見ていた。
「……首輪を外すって、約束したんです。厩舎で」
「ああ、聞いたよ」
「でも、実際に首輪を外したのは、僕じゃありません。
小田切の職業が剥奪されたからで」
「首輪が外れた後で、その狼が誰のところに来たかが大事なのさ」
ヴェルダさんは、札を僕の手に戻した。
「あんたは、首輪を外すと約束した。
そして、首輪が外れたその瞬間その狼が、
自分の意思で、あんたの前に頭を垂れた。
それで誓約は結ばれたんだよ」
シロガネが、のそりと立ち上がった。
包帯だらけの体で寝台に前脚をかける。
そして、添え木を当てた僕の左腕に、そっと鼻先を押しつけた。
「……シロガネ」
その頭を右手で撫でる。
銀色の毛並みは、澪さんが丁寧に洗ってくれたおかげで、
冬の月のような輝きを取り戻し始めていた。
「これからもよろしくね」
シロガネの尾が一度、大きく揺れた。
ヴェルダさんが、ふぇっふぇっと喉の奥で笑った。
「シロガネ、ねぇ。いい名前じゃないか。銀牙狼にぴったりだ」
それから、ふと真顔になった。
「……勇者が獣と誓約を結んだって記録は、
三百年前の従者の手記にも、なかった。
坊や、あんたは、本当に前例のないことばかりやるねぇ」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
治療院の一番奥の寝台。
そこに小田切がいた。
怪我はほとんどなかった。
逃げようとして転んだときの膝の擦り傷くらいだった。
けれど、小田切は、寝台の上に膝を抱えて座ったまま、
朝から一歩も動いていなかった。
食事にも、手をつけていなかった。
亀裂の入った職業札を、両手で握りしめていた。
【職業:なし】。
「……小田切」
寝台の脇に立つと、小田切は顔を上げずに言った。
「……笑いに来たのかよ」
「違う」
「嘘つけ。
ざまあみろって思ってんだろ。
テンプレどおりじゃん。
調子乗ってた奴が、最後に全部失うやつ」
小田切の声は、ひどくかすれていた。
「古賀が言ってた。
こういうことする奴は、後でろくな目に遭わないって。
……その通りになったわ。
ウケる」
僕は、寝台の脇の椅子に腰を下ろした。
シロガネが、少し離れた場所で足を止めた。
小田切の姿を見ると、低く一度だけ唸った。
小田切の肩がびくりと跳ねた。
「……シロガネ。大丈夫だから」
シロガネは唸るのをやめた。
けれど、それ以上は近づかなかった。
床に伏せて、金色の瞳でじっと、小田切を見つめていた。
「……ポチ、じゃねえんだ。そいつの名前」
小田切がぽつりと言った。
「シロガネ、か。……オレがつけた名前より、百倍マシだわ」
長い沈黙が落ちた。
「……なあ、委員長」
「うん」
「なんで、止めたんだよ。あのとき」
小田切は、職業札を握る手に力を込めた。
「あいつオレのこと殺そうとしてただろ。
当たり前だよな。
オレ、二か月、あいつのことずっと、痛めつけてたんだから。
殺されたって、文句言えなかった」
「……」
「なのに、なんで、お前がオレを庇うんだよ。
お前のこと散々、馬鹿にしてきたのに。
エセ勇者って、笑ってきたのに。
なんでだよ」
僕は、少しだけ考えた。
それから、正直に答えた。
「小田切は、ゼミの仲間だから。それと」
シロガネのほうをちらりと見た。
「シロガネに、誰かを殺してほしくなかったんだ。
シロガネは痛めつけられた側だ。
その子に最後に、誰かを殺したっていう記憶を、残してほしくなかった」
小田切は何も言わなかった。
ただ、その肩が小刻みに震え始めた。
「……オレさ」
やがて、小田切が膝に顔を埋めたまま、くぐもった声で言った。
「元の世界で、何者でもなかったんだよ。
勉強もできない。
スポーツもできない。
顔も普通。
特技もない。
ゲームのガチャ引いて、神引きしたって喜んでるのが、
一番楽しい時間だった」
声が震えた。
「だから、テイマーって出たとき、マジで嬉しかったんだ。
オレでも、主人公になれるかもって。
追放されて、最強の魔物を手に入れて成り上がって。
そういう物語の主人公に」
小田切は顔を上げた。
その目は、真っ赤に腫れていた。
「でも、あいつ全然懐かなかった。
テンプレ通りなら、すぐ懐くはずなのに。
志賀たちは、どんどん強くなっていくのに、オレだけ何もできなくて。
また何者でもない奴に、戻るのが怖くて」
「……うん」
「首輪に頼った。
……分かってたんだよ。
あれがやっちゃいけないことだって。
でも、止められなかった」
小田切の目から涙が、ぼろぼろとこぼれ落ちた。
「……ごめん」
誰に向けた言葉なのか、分からなかった。
僕に向けたのか。
シロガネに向けたのか。
それとも、自分自身に向けたのか。
「ごめん……ごめん……」
僕は、何も言わずに、小田切の隣に座り続けた。
シロガネは、床に伏せたまま、じっと小田切を見つめていた。
唸りもせず。
近づきもせず。
ただ、静かに。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
日が傾く頃、小田切は、ようやく泣き止んだ。
「……委員長。一つ教えとく」
小田切は、袖で顔を拭いながら言った。
「ザイルの隠れ家。
港の三番倉庫だ。
首輪を買いに行ったとき、そこに連れていかれた。
首輪だけじゃない。
禁制の魔道具が山ほど置いてあった」
「港の三番倉庫……」
どこかで聞いたことのある言葉だった。
「それと……ザイルの奴、手首に黒い蛇の刺青があった」
黒い蛇。
第5話の、古賀の話が、頭をよぎった。
ヴェルンの裏路地で、桐生に銀貨を渡した黒い外套の男。
その手首にも、黒い蛇の刺青があったと。
そして、その男は、「その気になったら、港の三番倉庫に来い」と言ったと。
「……ありがとう、小田切。すぐに宰相さんに伝える」
僕が立ち上がると、小田切は、寝台の上でまた膝を抱えた。
「……オレ、これからどうすりゃいいんだろうな。
職業、なしだってさ。
剣も魔法も使えない。
魔物も懐かない。
本当に何者でもなくなっちまった」
僕は、少しだけ考えた。
それから、言った。
「戦が終わったら、王城の厩舎で働いてみない?」
「……は?」
「厩番のピートくんって子がいるんだ。
十三歳ですごく馬の扱いが上手いんだけど、
一人で手が足りないって、いつも言ってて」
小田切はぽかんと口を開けた。
「……オレが? 厩舎で? 十三歳の下で?」
「うん。
職業がなくても、馬の世話はできるよ。
餌をやって、体を洗って、蹄の手入れをして。
……今度は、首輪も鞭も使わずに」
小田切は長い間黙っていた。
それから、床に伏せたシロガネをちらりと見た。
シロガネは、金色の瞳で小田切を見返した。
「……考えとく」
小田切は、小さくそう言った。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その夜。
宰相府からの命を受けた衛兵の一隊が、港の三番倉庫に踏み込んだ。
倉庫の中はもぬけの殻だった。
ザイルの姿も、禁制の魔道具も、何一つ残っていなかった。
ただ、倉庫の奥の石の壁に。
黒い塗料で、一匹の蛇の絵が大きく描かれていた。
とぐろを巻き、鎌首をもたげ、赤い舌を出した黒い蛇。
その蛇の目は、まるで王都を嘲笑うかのように、赤く塗られていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
同じ夜。
王都の宿屋『黒鹿亭』の一室で、壁を殴る鈍い音が、何度も響いていた。
「――ふざけんな……! ふざけんなよ……!」
志賀の拳から血が滲んでいた。
石の壁に赤い痕がいくつも残っていた。
遊撃隊は解散させられた。
騎士団長ガルドの直々の命令だった。
『騎士団の指揮を受けぬ者の城外への出撃を、籠城の間一切禁ずる』。
グラズの首も。
王から与えられるはずの特別な褒賞も。
すべてが消えた。
そして、何よりも。
「……あのエセ勇者に……助けられた……」
志賀は、壁に額を押しつけたままうめいた。
あの瞬間。
グラズの鉄の棍棒が、頭上に振り下ろされたあの瞬間。
自分と棍棒の間に飛び込んできたあの背中。
砕けた盾。
自分の襟首をつかんで、引きずるようにして走ったあの手。
「生きて帰るんだ」と叫んだあの声。
「……ふざけんなよ……」
部屋の隅で吉岡が、気まずそうに視線をさまよわせていた。
包囲が完成する直前に、誰よりも先に逃げ出したことを、
誰も口にしなかった。
宇佐美は、寝台の上で、自分の手のひらをじっと見つめていた。
グラズの肌の上で、火の粉のように散っていった自分の魔法。
堂島は、狂化の反動で丸一日、目を覚まさなかった。
古賀は、部屋の入り口に立っていた。
鑑定士のスキルで、志賀の腰の職業札を見ていた。
【職業:魔剣士】。
その文字の曇りが、決闘の後よりも、さらに濃くなっていた。
まるで薄い墨を一滴、落としたかのように。
「……志賀」
古賀は、小さく呼びかけた。
「小田切のこと、聞いた? 職業が剥奪されたって」
「知るかよ」
志賀は、振り返りもせずに吐き捨てた。
「使えねえ奴は、いらねえ。あいつは、もう、俺のパーティーじゃねえ」
古賀は何も言わなかった。
ただ、眼鏡の奥で唇を強く噛みしめた。
そして、喉まで出かかった言葉を。
――志賀の札も曇ってるよ。
その一言を、今夜もまた飲み込んだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
北の城壁の上で、見張りの兵が声を上げた。
「――魔王軍の陣に動きあり!」
月明かりの下。
黒い波のその奥で。
巨大な影がいくつも、ゆっくりと組み上がっていた。
木の骨組みに、獣の皮を張った塔。
城壁と同じ高さの。
いや、城壁よりもさらに高い塔だった。
「……攻城塔だ」
ガルドさんが、城壁の上で低くつぶやいた。
「三基……いや、四基。組み上がるまで三日、といったところか」
三日。
その三日後に、王都の命運が決まる。




