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【最終章突入】職業「勇者」って言われたのですが、一緒に転移した同級生いわく違うらしい ~正しい職業を知りたい今日この頃~  作者: 有馬 茶
第1部 ~新たな出会いと別れ~

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第2話 委員長、テンプレを学ぶ

王城の客室は、

僕が住んでいる六畳のアパートが四つは入りそうなほど広かった。


天蓋付きの寝台。

磨き込まれた木の机。

窓の外には、月明かりに照らされた王都の街並みが、

どこまでも広がっている。

石造りの家々の屋根が、波のように連なっていた。

遠くで鐘の音が一つ鳴った。


僕はしばらく窓辺に立って、その景色を眺めていた。

夢ではない。

頬をつねるまでもなく、夜風の冷たさがそれを教えてくれる。


それから、机の上に置いていた合宿用のノートとボールペンを手に取った。

ポケットに入っていたのは、これとスマホと財布だけだ。

スマホの電波は、当然のように圏外だった。


「……よし」


僕は小さく気合を入れて部屋を出た。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




「――でなんで白峰氏が俺の部屋に来てるわけ?」


扉を開けた古賀は、寝間着代わりに渡された麻のシャツ姿で、

心底怪訝そうな顔をしていた。

「夜分にごめん。古賀に、どうしても教えてほしいことがあって」

「教えてほしいこと?」

僕はノートを開き、両手で差し出すようにして頭を下げた。

「テンプレというのを、ちゃんと教えてほしい」


廊下に沈黙が落ちた。


「……は?」

「昼間、志賀や古賀が言っていただろう。

委員長が勇者に選ばれるのはテンプレで、噛ませ枠だって。

僕はそういう作品をほとんど知らないから、

みんなが何を前提に話しているのか、分からないんだ」

「いや、分からないからって、普通わざわざ聞きに来る?」

「分からないままだと、みんなが何を考えてるのか、

ちゃんと理解できないから。

理解できないと、まとめることもできない」


古賀は、眼鏡の奥で何度か瞬きをした。

それから、長いため息をついた。

「……つまりね、白峰氏って、マジで白峰氏だよね」

「褒めてる?」

「半分は呆れてる」


「おうなんだ勉強会か?」

廊下の向こうから、剛がのっそりと現れた。

手には、なぜか大皿に盛られたパンを抱えている。

「剛、それどうしたの」

「腹が減って厨房をうろついてたら、料理長のおっさんがくれた。

異世界のパン、うまいぞ。

難しいことは分からんが、うまいもんはうまい」

剛はそう言って、当然のように古賀の部屋へ入っていった。

「ちょ、大河内氏、なんで入るの」

「勉強会だろ? 俺も聞く」

古賀は額に手を当て、しばらく天井を仰いでいた。

けれど、やがて観念したように、僕たちを部屋に招き入れた。


「……で何から知りたいの」

「全部」

「全部って」

「できれば基礎から順番に」

古賀はまた、長いため息をついた。


それから一時間。

古賀の講義は、思っていたよりもずっと丁寧だった。


異世界転生。

異世界転移。

チート。

ステータス。

追放。

成り上がり。

ハーレム。

古賀は、椅子の上で膝を抱えながら、次々と用語を並べていく。

僕はそれを、一つずつノートに書き留めていった。


「――で最近の流行りがこれ。ざまぁ」

「ざまぁ?」

「『ざまあみろ』のざまぁ。

主人公を見下したり、追放したりした連中が、

後から痛い目を見る展開のこと。

読者はそれを読んでスカッとするわけ」

「なるほど……」

僕はペンを走らせながら首をかしげた。

「それで痛い目を見た人は、その後どうなるの?」


古賀の口がぴたりと止まった。


「……え?」

「ざまぁ、をされた人たち。

その後の人生も、続いていくんだよね。

謝ったりやり直したりする話もあるの?」

「いや、それは……作品によるけど。大体は、そこで出番終わりみたいな」

「そうなんだ」

僕は、少しだけ考えてからノートに書き足した。

――ざまぁ。その後は、描かれないことが多い。

「なんか、少し寂しいね」


古賀は、なんとも言えない顔で僕を見ていた。

剛がパンを頬張りながら笑った。

「陽翔はこういう奴なんだよ、古賀。慣れろ」

「……慣れたくないなあ」


「それで一番大事なことなんだけど」

僕はノートのページをめくり、新しい行に書き込んだ。

『勇者(候補)』。

「候補の勇者というのは、どういう扱いになるのかな」

古賀は、少しだけ真面目な顔になった。

「正直、俺も見たことない。

けど、普通に考えたら、本命は別にいるってことでしょ。

でこの手の話で本命になるのは大体、

最初に見下されてる奴か、一番自信満々な奴」

「志賀?」

「本人はそう思ってるだろうね」

古賀は窓の外に目をやった。

「……まあ、俺としては、どっちに転んでも面白いけど」


廊下から控えめなノックの音がした。

扉を開けると澪さんが立っていた。

両手に、湯気の立つカップを三つ載せた盆を持っている。

「……灯りついてたから。厨房で、お茶をもらってきた」

「柚木さん。わざわざ、ありがとう」

「……白峰くんたちが、何してるのか、気になっただけ」

澪さんは盆を机に置き、僕のノートを覗き込んだ。

びっしりと書き込まれた文字を見て、ほんの少しだけ目を丸くする。

「……本当に勉強してる」

「うん。分からないことは、分からないままにしたくなくて」

「……そう」

澪さんは、それ以上は何も言わなかった。

けれど、部屋を出ていく前に一度だけ振り返った。

「……無理はしないで」

扉が静かに閉まった。


剛が意味ありげにこちらを見ていた。

「なに?」

「いや。

難しいことは分からんが、お前はもう少し難しいことを分かったほうがいい」

「どういう意味?」

剛は答えずに、最後のパンを口に放り込んだ。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆





翌朝。


王城の一室に、僕たち十五人が集められた。

長い卓の向こうに座っていたのは、昨日の黒衣の老紳士だった。

「改めてご挨拶申し上げます。

この国の宰相を務めております、バルトロと申します」

痩せた体に鋭い目。

声は静かだが、一言一言が、よく磨かれた刃物のように正確だった。


「陛下のご意向により皆様には、

当面の生活と身の安全を、王国が保証いたします」

バルトロさんは、卓の上に羊皮紙を広げた。

「一つ。

王城内の客室と、日々の食事をご用意いたします。

二つ。

職業の力を扱えるよう、騎士団と魔術師団による訓練の場を設けます。

三つ。

毎月、生活に十分な額の支度金をお渡しいたします。

そして四つ」

バルトロさんは、そこで一度言葉を切った。

「城の外での自由な行動を望まれる方には、それを妨げません。

皆様は、我らの客人であり、囚人ではございませんので」


「……思ったよりずいぶん好条件だね」

澪さんが小さくつぶやいた。

僕もそう思った。

いきなり戦場へ送り込まれることも、覚悟していたのだ。


けれど。


「足りねえな」

志賀が椅子の背にもたれたまま言った。

「俺たちは勇者パーティーなんだろ?

 だったら、初期装備は国宝級をよこせよ。

宝物庫くらいあんだろ?」

「そうっすよ、志賀さんの言うとおりっす」

堂島がすかさず相槌を打つ。

「論理的に言って、俺たちの価値は、この国の存亡に直結してる。

交渉材料はこっちにあるんだ。

条件を吊り上げるのは当然だろ」

宇佐美が眼鏡を押し上げる。

「あたし、錬金工房、個室でちょうだい。素材も全部そっち持ちで」

「莉愛はー、騎士団の人たちとお茶会したいかなー?」

「オレ、魔物の檻、見せてほしいっしょ。

強そうなやつ、テイムしたいんだけど」


次々と飛び出す要求に、部屋の空気が冷えていくのが分かった。

バルトロさんの表情は、少しも変わらない。

けれど、部屋の隅に控えていた騎士たちが、

わずかに眉をひそめるのが見えた。


僕は立ち上がった。

「みんな少し待ってほしい」

十四人の視線が僕に集まる。

「僕たちは、確かに無理やり連れてこられた。

怒る気持ちも、不安な気持ちも分かる。

でも、この国の人たちは国が滅びかけている中で、

それでも僕たちの安全を最初に約束してくれたんだ。

僕たちは、助けを求められている立場でもある。

まずは、そのことを忘れないようにしたい」


それから、バルトロさんに向き直り深く頭を下げた。

「失礼な物言いをお詫びします。

ご提示いただいた条件、ありがたくお受けしたいと思います」


一瞬の沈黙。


そして、椅子が乱暴に引かれる音がした。

「……は? なに勝手に決めてんだよ」

志賀がゆっくりと立ち上がっていた。

「エセ勇者が仕切んなよ。

お前、自分が本物だとでも思ってんのか?

 候補だぞ、候補。

お前の言うこと聞く理由なんか、もうどこにもねえんだよ」

「志賀、僕は仕切りたいわけじゃない。ただ――」

「うるせえよ、委員長」

志賀は、吐き捨てるように言って、部屋を出ていった。

堂島と小田切が慌ててその後を追う。

宇佐美と姫野さんと花菱さんも、顔を見合わせて席を立った。

桐生は、音もなく、その最後尾についていった。


扉が閉まる。

残された部屋に、気まずい沈黙が満ちた。


「……ご、ごめんなさい……」

なぜか、三枝さんが小さく謝っていた。

「三枝さんが謝ることじゃないよ」

「で、でも……」

三枝さんはうつむいたまま、ちらりと扉のほうを見た。

その視線の意味を、僕はまだ、よく分かっていなかった。


バルトロさんは、何も言わなかった。

ただ、手元の羊皮紙の端に、さらさらと何かを書き留めた。

それから、僕を見て、ほんのわずかに目を細めた。

「承知いたしました、白峰様。他の方々にも、同じ条件をお約束いたします」

「……ありがとうございます」

「礼には及びません。私は、見るべきものを見ているだけでございますので」


その言葉の意味も、僕にはまだ分からなかった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




王城の回廊は、迷路のように入り組んでいた。


会議の後、訓練場の場所を確かめようと歩いていた僕は、

曲がり角の向こうから聞こえてきた怒鳴り声に、足を止めた。


「ふざけんなよ、おい!」

堂島の声だった。

角を曲がると回廊の真ん中に、

割れたティーカップの破片が散らばっていた。

その前で一人のメイドの少女が、床に膝をついて震えている。

まだ十五、六歳くらいだろうか。

栗色の髪をきっちりと結い上げた小柄な子だった。

堂島のシャツの胸元が、紅茶の色に染まっていた。


「も、申し訳ございません……! 申し訳ございません……!」

「謝って済むかよ。これ、王様からもらった服だぞ」

「まあまあ、堂島」

壁にもたれていた志賀が薄く笑った。

「異世界の使用人なんて、こういうもんだろ。

身分制度ってやつ。

俺たちは勇者パーティーで、こいつは使用人。

なあ、お前どう責任取るんだ?」

少女の肩がびくりと跳ねた。

破片を拾おうとした指先から、赤い雫がにじむ。


考えるより先に足が動いていた。


「志賀、堂島、そこまでにしよう」

僕は二人と少女の間に入り、その場に膝をついた。

「……っ、勇者様……!?」

「怪我はない? ……あ、指、切ってるね」

ポケットからハンカチを取り出し、少女の指にそっと巻きつける。

それから、散らばった破片を一つずつ拾い集めた。

「僕の仲間がごめんなさい。大声を出されて、怖かったよね」


少女は、信じられないものを見るような目で、僕を見ていた。

「い、いけません、勇者様……!

 そのようなこと、勇者様がなさることでは……!」

「勇者かどうかは、まだ分からないんだ。候補だから」

僕は笑って、最後の破片を拾い上げた。

「それに誰がやったって、割れたカップは割れたカップだよ。

一緒に片付けたほうが早い」


背後で志賀が舌打ちするのが聞こえた。

「……点数稼ぎかよ。偽善者が」

「志賀。

この子は、わざとこぼしたわけじゃない。

堂島の服は洗えば落ちる。

でも、この子の指の傷と、怖かった気持ちは、簡単には消えないんだ」

「知るかよ」

志賀は背を向けて歩き出した。

堂島が僕を一度睨んでからその後を追う。


二人の足音が遠ざかると、少女は、ぺたりと床に座り込んだ。

張り詰めていた糸が切れたのだろう。

「あ、ありがとうございました……。

わ、わたしリゼと申します。

王城のメイドに上がって、まだひと月で……」

「リゼさん。僕は白峰陽翔。ハルトでいいよ」

「と、とんでもございません、勇者様をお名前でお呼びするなんて……!」

リゼさんは、ハンカチを巻いた指を、大切そうに胸に抱いた。

「このご恩は、決して忘れません」

「大げさだよ。それよりその指、ちゃんと手当てしてもらってね」


リゼさんと別れて、回廊の窓から外を見下ろしたときだった。


中庭の向こう王城の厩舎の脇に、鉄格子の檻が一つ置かれていた。

その前に小田切がしゃがみ込んでいる。

檻の中にいたのは、一頭の狼だった。

普通の狼よりも、ふた回りは大きい。

銀色の毛並みは泥と血に汚れ、片方の後ろ脚に深い傷が見えた。


「なあ、あれ、強そうじゃん」

小田切の声が、風に乗って聞こえてきた。

「魔狼だってさ。

国境で捕まえたらしい。

あれ、オレのにする。

テイマーの最初の相棒は、最強の魔物って決まってんだよ。

マジでテンプレっしょ」

小田切が檻の格子を靴先で蹴った。

魔狼が低く唸った。

その金色の瞳は、怒りよりも、深い怯えの色をしていた。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




「職業ってのは神からの恩恵だ」


午後の訓練場に、騎士団長ガルドさんの声が響いた。

岩をそのまま削り出したような大きな体。

顔の左半分を斜めに走る古い刀傷。

腕を組んで立つだけで、訓練場の空気が引き締まる。

そんな人だった。


石畳の訓練場には、僕たち十五人が並んでいた。

今朝の一件の後でも志賀たちは一応、顔を出していた。

職業の力を使えるようになりたいという気持ちは、同じなのだろう。


「恩恵を受けた者は、鍛えれば鍛えただけ強くなる。

重騎士はより固く。

魔剣士はより鋭く。

薬師は、より多くを癒やせるようになる。

だが」

ガルドさんは、そこで言葉を切り、僕たち一人ひとりを見渡した。

「恩恵には必ず戒律がある」


「戒律?」

剛が首をかしげた。

「職業ごとに定められた、守るべき本分のことだ。

重騎士なら、『守るべきものの前に立て』。

薬師なら、『命を扱う者は、害をなすなかれ』。

そういう具合にな」

ガルドさんは、自分の胸を拳で軽く叩いた。

「俺の職業は聖騎士だ。

戒律は、『剣は守るために振れ』。

この戒律に背けば、職業は劣化する。

背き続ければ最悪の場合、剥奪される」


「剥奪……」

澪さんが小さく繰り返した。

「実際にあった話だ。

先々代の騎士団には、私欲のために剣を振るい続けた男がいた。

そいつはある朝、目を覚ますと、剣の握り方すら思い出せなくなっていた。

職業札にはたった一言、『なし』とだけ刻まれていたそうだ」


訓練場がしんと静まり返った。


その静寂を破ったのは、志賀の笑い声だった。

「ははっ。そういう設定、ありがちだよな」

「……設定?」

「どうせ、主人公補正で無視できんだよ。

選ばれた奴には、そういうルールは適用されねえの。

なあ、古賀」

「まあ……そういう作品も、あるっちゃあるけど」

古賀が曖昧に笑う。


「……暗殺者に戒律とか、意味不明」

列の端で桐生がぼそりとつぶやいた。

「論理的に言って、職業の運用に倫理が介入するのは非効率だね」

宇佐美が肩をすくめる。

「莉愛、難しいこと分かんなーい」

「ウケる。ルール破ったら罰ゲームってこと?」

花菱さんと姫野さんが、くすくすと笑い合った。


ガルドさんは、何も言わなかった。

ただ、その目がほんの少しだけ、

悲しそうに細められたのを、僕は見ていた。


僕は手を挙げた。

「ガルドさん。一つ、質問してもいいですか」

「なんだ坊主」

「僕の戒律は何ですか」


ガルドさんの眉がわずかに動いた。

「……勇者の戒律、か」

「はい。

守るべき本分が分からないまま力を使ったら、知らないうちに、

間違ったことをしてしまうかもしれません。

だから、知っておきたいんです」


ガルドさんは、しばらく黙っていた。

腕を組み、空を見上げ、それから、ゆっくりと首を横に振った。

「……分からん」

「分からない?」

「勇者の戒律は、伝承に残っていない。

三百年前の勇者もその前の勇者も、

誰一人として、それを言い残さなかった。

ヴェルダの婆さんでも知らんだろう」


僕は少しだけ考えて、それから、うなずいた。

「分かりました。じゃあ、自分で探します」

「……探す?」

「はい。

戒律も正しい職業も。

分からないことは、分からないままにしたくないので」


ガルドさんは、僕の顔をじっと見つめた。

それから、傷だらけの顔をくしゃりと歪めた。

笑ったのだと気づくまでに、少し時間がかかった。

「変わった坊主だなお前は」




◆◆◆◆◆◆◆◆◆








その夜、僕は眠れなかった。


天蓋付きの寝台は、柔らかすぎて落ち着かない。

窓の外には、見たことのない星座が瞬いている。

目を閉じると、昼間のあの金色の瞳が浮かんだ。

檻の中の怯えた瞳。


気がつくと、僕は寝台を抜け出していた。


厨房に寄ると、遅くまで仕込みをしていた料理長が、

何も聞かずに干し肉を分けてくれた。

澪さんが治療院で分けてもらっていた包帯と、

傷薬の小瓶も一つ、ポケットに入っていた。

昼間、「何かあったら、使って」と、澪さんが持たせてくれたものだ。


夜の中庭は、しんと冷えていた。

厩舎の脇の檻に近づくと、暗闇の中で、二つの金色の光がこちらを向いた。

低い唸り声。

鉄格子の向こうで、魔狼が牙を剥いていた。


僕は、檻から三歩ほど離れたところで足を止め、

そのまま石畳に腰を下ろした。

「こんばんは」

唸り声が一段と低くなる。

「怖がらせるつもりはないんだ。……って言っても、信じられないよね」


干し肉を、檻の格子の隙間からそっと中へ置く。

それから、包帯と傷薬の小瓶をその隣に並べた。

「その脚の傷、痛むだろう。僕じゃ、手当てはさせてもらえないと思うけど」

魔狼は、干し肉には目もくれなかった。

ただ、じっと僕を睨み続けている。


「僕も、ここに来たばかりなんだ」

夜風が中庭の木々を揺らした。

「知らない場所で、知らない人たちに囲まれて、

これからどうなるのかも分からない。

……怖いよな」


返事はない。

当たり前だ。

それでも、僕は話し続けた。

元の世界のこと。

ゼミのこと。

十五人の仲間のこと。

勇者の候補だと言われたこと。

同級生に違うと言われたこと。

自分の正しい職業を、知りたいと思っていること。


魔狼は、一度も唸るのをやめなかった。

干し肉にも、最後まで口をつけなかった。


それでも、僕は、夜が白み始めるまでそこに座っていた。


東の空が藍色から薄紫に変わる頃、

見回りの衛兵に見つかって、慌てて部屋へ戻った。

数時間だけ眠り朝食の前に、もう一度だけ中庭を覗いた。


檻の中で魔狼は丸くなって眠っていた。

格子の隙間に置いた干し肉は、消えていた。

傷薬の小瓶は、割れずにそこに転がっていた。

空になって。

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