第2話 委員長、テンプレを学ぶ
王城の客室は、
僕が住んでいる六畳のアパートが四つは入りそうなほど広かった。
天蓋付きの寝台。
磨き込まれた木の机。
窓の外には、月明かりに照らされた王都の街並みが、
どこまでも広がっている。
石造りの家々の屋根が、波のように連なっていた。
遠くで鐘の音が一つ鳴った。
僕はしばらく窓辺に立って、その景色を眺めていた。
夢ではない。
頬をつねるまでもなく、夜風の冷たさがそれを教えてくれる。
それから、机の上に置いていた合宿用のノートとボールペンを手に取った。
ポケットに入っていたのは、これとスマホと財布だけだ。
スマホの電波は、当然のように圏外だった。
「……よし」
僕は小さく気合を入れて部屋を出た。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「――でなんで白峰氏が俺の部屋に来てるわけ?」
扉を開けた古賀は、寝間着代わりに渡された麻のシャツ姿で、
心底怪訝そうな顔をしていた。
「夜分にごめん。古賀に、どうしても教えてほしいことがあって」
「教えてほしいこと?」
僕はノートを開き、両手で差し出すようにして頭を下げた。
「テンプレというのを、ちゃんと教えてほしい」
廊下に沈黙が落ちた。
「……は?」
「昼間、志賀や古賀が言っていただろう。
委員長が勇者に選ばれるのはテンプレで、噛ませ枠だって。
僕はそういう作品をほとんど知らないから、
みんなが何を前提に話しているのか、分からないんだ」
「いや、分からないからって、普通わざわざ聞きに来る?」
「分からないままだと、みんなが何を考えてるのか、
ちゃんと理解できないから。
理解できないと、まとめることもできない」
古賀は、眼鏡の奥で何度か瞬きをした。
それから、長いため息をついた。
「……つまりね、白峰氏って、マジで白峰氏だよね」
「褒めてる?」
「半分は呆れてる」
「おうなんだ勉強会か?」
廊下の向こうから、剛がのっそりと現れた。
手には、なぜか大皿に盛られたパンを抱えている。
「剛、それどうしたの」
「腹が減って厨房をうろついてたら、料理長のおっさんがくれた。
異世界のパン、うまいぞ。
難しいことは分からんが、うまいもんはうまい」
剛はそう言って、当然のように古賀の部屋へ入っていった。
「ちょ、大河内氏、なんで入るの」
「勉強会だろ? 俺も聞く」
古賀は額に手を当て、しばらく天井を仰いでいた。
けれど、やがて観念したように、僕たちを部屋に招き入れた。
「……で何から知りたいの」
「全部」
「全部って」
「できれば基礎から順番に」
古賀はまた、長いため息をついた。
それから一時間。
古賀の講義は、思っていたよりもずっと丁寧だった。
異世界転生。
異世界転移。
チート。
ステータス。
追放。
成り上がり。
ハーレム。
古賀は、椅子の上で膝を抱えながら、次々と用語を並べていく。
僕はそれを、一つずつノートに書き留めていった。
「――で最近の流行りがこれ。ざまぁ」
「ざまぁ?」
「『ざまあみろ』のざまぁ。
主人公を見下したり、追放したりした連中が、
後から痛い目を見る展開のこと。
読者はそれを読んでスカッとするわけ」
「なるほど……」
僕はペンを走らせながら首をかしげた。
「それで痛い目を見た人は、その後どうなるの?」
古賀の口がぴたりと止まった。
「……え?」
「ざまぁ、をされた人たち。
その後の人生も、続いていくんだよね。
謝ったりやり直したりする話もあるの?」
「いや、それは……作品によるけど。大体は、そこで出番終わりみたいな」
「そうなんだ」
僕は、少しだけ考えてからノートに書き足した。
――ざまぁ。その後は、描かれないことが多い。
「なんか、少し寂しいね」
古賀は、なんとも言えない顔で僕を見ていた。
剛がパンを頬張りながら笑った。
「陽翔はこういう奴なんだよ、古賀。慣れろ」
「……慣れたくないなあ」
「それで一番大事なことなんだけど」
僕はノートのページをめくり、新しい行に書き込んだ。
『勇者(候補)』。
「候補の勇者というのは、どういう扱いになるのかな」
古賀は、少しだけ真面目な顔になった。
「正直、俺も見たことない。
けど、普通に考えたら、本命は別にいるってことでしょ。
でこの手の話で本命になるのは大体、
最初に見下されてる奴か、一番自信満々な奴」
「志賀?」
「本人はそう思ってるだろうね」
古賀は窓の外に目をやった。
「……まあ、俺としては、どっちに転んでも面白いけど」
廊下から控えめなノックの音がした。
扉を開けると澪さんが立っていた。
両手に、湯気の立つカップを三つ載せた盆を持っている。
「……灯りついてたから。厨房で、お茶をもらってきた」
「柚木さん。わざわざ、ありがとう」
「……白峰くんたちが、何してるのか、気になっただけ」
澪さんは盆を机に置き、僕のノートを覗き込んだ。
びっしりと書き込まれた文字を見て、ほんの少しだけ目を丸くする。
「……本当に勉強してる」
「うん。分からないことは、分からないままにしたくなくて」
「……そう」
澪さんは、それ以上は何も言わなかった。
けれど、部屋を出ていく前に一度だけ振り返った。
「……無理はしないで」
扉が静かに閉まった。
剛が意味ありげにこちらを見ていた。
「なに?」
「いや。
難しいことは分からんが、お前はもう少し難しいことを分かったほうがいい」
「どういう意味?」
剛は答えずに、最後のパンを口に放り込んだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
翌朝。
王城の一室に、僕たち十五人が集められた。
長い卓の向こうに座っていたのは、昨日の黒衣の老紳士だった。
「改めてご挨拶申し上げます。
この国の宰相を務めております、バルトロと申します」
痩せた体に鋭い目。
声は静かだが、一言一言が、よく磨かれた刃物のように正確だった。
「陛下のご意向により皆様には、
当面の生活と身の安全を、王国が保証いたします」
バルトロさんは、卓の上に羊皮紙を広げた。
「一つ。
王城内の客室と、日々の食事をご用意いたします。
二つ。
職業の力を扱えるよう、騎士団と魔術師団による訓練の場を設けます。
三つ。
毎月、生活に十分な額の支度金をお渡しいたします。
そして四つ」
バルトロさんは、そこで一度言葉を切った。
「城の外での自由な行動を望まれる方には、それを妨げません。
皆様は、我らの客人であり、囚人ではございませんので」
「……思ったよりずいぶん好条件だね」
澪さんが小さくつぶやいた。
僕もそう思った。
いきなり戦場へ送り込まれることも、覚悟していたのだ。
けれど。
「足りねえな」
志賀が椅子の背にもたれたまま言った。
「俺たちは勇者パーティーなんだろ?
だったら、初期装備は国宝級をよこせよ。
宝物庫くらいあんだろ?」
「そうっすよ、志賀さんの言うとおりっす」
堂島がすかさず相槌を打つ。
「論理的に言って、俺たちの価値は、この国の存亡に直結してる。
交渉材料はこっちにあるんだ。
条件を吊り上げるのは当然だろ」
宇佐美が眼鏡を押し上げる。
「あたし、錬金工房、個室でちょうだい。素材も全部そっち持ちで」
「莉愛はー、騎士団の人たちとお茶会したいかなー?」
「オレ、魔物の檻、見せてほしいっしょ。
強そうなやつ、テイムしたいんだけど」
次々と飛び出す要求に、部屋の空気が冷えていくのが分かった。
バルトロさんの表情は、少しも変わらない。
けれど、部屋の隅に控えていた騎士たちが、
わずかに眉をひそめるのが見えた。
僕は立ち上がった。
「みんな少し待ってほしい」
十四人の視線が僕に集まる。
「僕たちは、確かに無理やり連れてこられた。
怒る気持ちも、不安な気持ちも分かる。
でも、この国の人たちは国が滅びかけている中で、
それでも僕たちの安全を最初に約束してくれたんだ。
僕たちは、助けを求められている立場でもある。
まずは、そのことを忘れないようにしたい」
それから、バルトロさんに向き直り深く頭を下げた。
「失礼な物言いをお詫びします。
ご提示いただいた条件、ありがたくお受けしたいと思います」
一瞬の沈黙。
そして、椅子が乱暴に引かれる音がした。
「……は? なに勝手に決めてんだよ」
志賀がゆっくりと立ち上がっていた。
「エセ勇者が仕切んなよ。
お前、自分が本物だとでも思ってんのか?
候補だぞ、候補。
お前の言うこと聞く理由なんか、もうどこにもねえんだよ」
「志賀、僕は仕切りたいわけじゃない。ただ――」
「うるせえよ、委員長」
志賀は、吐き捨てるように言って、部屋を出ていった。
堂島と小田切が慌ててその後を追う。
宇佐美と姫野さんと花菱さんも、顔を見合わせて席を立った。
桐生は、音もなく、その最後尾についていった。
扉が閉まる。
残された部屋に、気まずい沈黙が満ちた。
「……ご、ごめんなさい……」
なぜか、三枝さんが小さく謝っていた。
「三枝さんが謝ることじゃないよ」
「で、でも……」
三枝さんはうつむいたまま、ちらりと扉のほうを見た。
その視線の意味を、僕はまだ、よく分かっていなかった。
バルトロさんは、何も言わなかった。
ただ、手元の羊皮紙の端に、さらさらと何かを書き留めた。
それから、僕を見て、ほんのわずかに目を細めた。
「承知いたしました、白峰様。他の方々にも、同じ条件をお約束いたします」
「……ありがとうございます」
「礼には及びません。私は、見るべきものを見ているだけでございますので」
その言葉の意味も、僕にはまだ分からなかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
王城の回廊は、迷路のように入り組んでいた。
会議の後、訓練場の場所を確かめようと歩いていた僕は、
曲がり角の向こうから聞こえてきた怒鳴り声に、足を止めた。
「ふざけんなよ、おい!」
堂島の声だった。
角を曲がると回廊の真ん中に、
割れたティーカップの破片が散らばっていた。
その前で一人のメイドの少女が、床に膝をついて震えている。
まだ十五、六歳くらいだろうか。
栗色の髪をきっちりと結い上げた小柄な子だった。
堂島のシャツの胸元が、紅茶の色に染まっていた。
「も、申し訳ございません……! 申し訳ございません……!」
「謝って済むかよ。これ、王様からもらった服だぞ」
「まあまあ、堂島」
壁にもたれていた志賀が薄く笑った。
「異世界の使用人なんて、こういうもんだろ。
身分制度ってやつ。
俺たちは勇者パーティーで、こいつは使用人。
なあ、お前どう責任取るんだ?」
少女の肩がびくりと跳ねた。
破片を拾おうとした指先から、赤い雫がにじむ。
考えるより先に足が動いていた。
「志賀、堂島、そこまでにしよう」
僕は二人と少女の間に入り、その場に膝をついた。
「……っ、勇者様……!?」
「怪我はない? ……あ、指、切ってるね」
ポケットからハンカチを取り出し、少女の指にそっと巻きつける。
それから、散らばった破片を一つずつ拾い集めた。
「僕の仲間がごめんなさい。大声を出されて、怖かったよね」
少女は、信じられないものを見るような目で、僕を見ていた。
「い、いけません、勇者様……!
そのようなこと、勇者様がなさることでは……!」
「勇者かどうかは、まだ分からないんだ。候補だから」
僕は笑って、最後の破片を拾い上げた。
「それに誰がやったって、割れたカップは割れたカップだよ。
一緒に片付けたほうが早い」
背後で志賀が舌打ちするのが聞こえた。
「……点数稼ぎかよ。偽善者が」
「志賀。
この子は、わざとこぼしたわけじゃない。
堂島の服は洗えば落ちる。
でも、この子の指の傷と、怖かった気持ちは、簡単には消えないんだ」
「知るかよ」
志賀は背を向けて歩き出した。
堂島が僕を一度睨んでからその後を追う。
二人の足音が遠ざかると、少女は、ぺたりと床に座り込んだ。
張り詰めていた糸が切れたのだろう。
「あ、ありがとうございました……。
わ、わたしリゼと申します。
王城のメイドに上がって、まだひと月で……」
「リゼさん。僕は白峰陽翔。ハルトでいいよ」
「と、とんでもございません、勇者様をお名前でお呼びするなんて……!」
リゼさんは、ハンカチを巻いた指を、大切そうに胸に抱いた。
「このご恩は、決して忘れません」
「大げさだよ。それよりその指、ちゃんと手当てしてもらってね」
リゼさんと別れて、回廊の窓から外を見下ろしたときだった。
中庭の向こう王城の厩舎の脇に、鉄格子の檻が一つ置かれていた。
その前に小田切がしゃがみ込んでいる。
檻の中にいたのは、一頭の狼だった。
普通の狼よりも、ふた回りは大きい。
銀色の毛並みは泥と血に汚れ、片方の後ろ脚に深い傷が見えた。
「なあ、あれ、強そうじゃん」
小田切の声が、風に乗って聞こえてきた。
「魔狼だってさ。
国境で捕まえたらしい。
あれ、オレのにする。
テイマーの最初の相棒は、最強の魔物って決まってんだよ。
マジでテンプレっしょ」
小田切が檻の格子を靴先で蹴った。
魔狼が低く唸った。
その金色の瞳は、怒りよりも、深い怯えの色をしていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「職業ってのは神からの恩恵だ」
午後の訓練場に、騎士団長ガルドさんの声が響いた。
岩をそのまま削り出したような大きな体。
顔の左半分を斜めに走る古い刀傷。
腕を組んで立つだけで、訓練場の空気が引き締まる。
そんな人だった。
石畳の訓練場には、僕たち十五人が並んでいた。
今朝の一件の後でも志賀たちは一応、顔を出していた。
職業の力を使えるようになりたいという気持ちは、同じなのだろう。
「恩恵を受けた者は、鍛えれば鍛えただけ強くなる。
重騎士はより固く。
魔剣士はより鋭く。
薬師は、より多くを癒やせるようになる。
だが」
ガルドさんは、そこで言葉を切り、僕たち一人ひとりを見渡した。
「恩恵には必ず戒律がある」
「戒律?」
剛が首をかしげた。
「職業ごとに定められた、守るべき本分のことだ。
重騎士なら、『守るべきものの前に立て』。
薬師なら、『命を扱う者は、害をなすなかれ』。
そういう具合にな」
ガルドさんは、自分の胸を拳で軽く叩いた。
「俺の職業は聖騎士だ。
戒律は、『剣は守るために振れ』。
この戒律に背けば、職業は劣化する。
背き続ければ最悪の場合、剥奪される」
「剥奪……」
澪さんが小さく繰り返した。
「実際にあった話だ。
先々代の騎士団には、私欲のために剣を振るい続けた男がいた。
そいつはある朝、目を覚ますと、剣の握り方すら思い出せなくなっていた。
職業札にはたった一言、『なし』とだけ刻まれていたそうだ」
訓練場がしんと静まり返った。
その静寂を破ったのは、志賀の笑い声だった。
「ははっ。そういう設定、ありがちだよな」
「……設定?」
「どうせ、主人公補正で無視できんだよ。
選ばれた奴には、そういうルールは適用されねえの。
なあ、古賀」
「まあ……そういう作品も、あるっちゃあるけど」
古賀が曖昧に笑う。
「……暗殺者に戒律とか、意味不明」
列の端で桐生がぼそりとつぶやいた。
「論理的に言って、職業の運用に倫理が介入するのは非効率だね」
宇佐美が肩をすくめる。
「莉愛、難しいこと分かんなーい」
「ウケる。ルール破ったら罰ゲームってこと?」
花菱さんと姫野さんが、くすくすと笑い合った。
ガルドさんは、何も言わなかった。
ただ、その目がほんの少しだけ、
悲しそうに細められたのを、僕は見ていた。
僕は手を挙げた。
「ガルドさん。一つ、質問してもいいですか」
「なんだ坊主」
「僕の戒律は何ですか」
ガルドさんの眉がわずかに動いた。
「……勇者の戒律、か」
「はい。
守るべき本分が分からないまま力を使ったら、知らないうちに、
間違ったことをしてしまうかもしれません。
だから、知っておきたいんです」
ガルドさんは、しばらく黙っていた。
腕を組み、空を見上げ、それから、ゆっくりと首を横に振った。
「……分からん」
「分からない?」
「勇者の戒律は、伝承に残っていない。
三百年前の勇者もその前の勇者も、
誰一人として、それを言い残さなかった。
ヴェルダの婆さんでも知らんだろう」
僕は少しだけ考えて、それから、うなずいた。
「分かりました。じゃあ、自分で探します」
「……探す?」
「はい。
戒律も正しい職業も。
分からないことは、分からないままにしたくないので」
ガルドさんは、僕の顔をじっと見つめた。
それから、傷だらけの顔をくしゃりと歪めた。
笑ったのだと気づくまでに、少し時間がかかった。
「変わった坊主だなお前は」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その夜、僕は眠れなかった。
天蓋付きの寝台は、柔らかすぎて落ち着かない。
窓の外には、見たことのない星座が瞬いている。
目を閉じると、昼間のあの金色の瞳が浮かんだ。
檻の中の怯えた瞳。
気がつくと、僕は寝台を抜け出していた。
厨房に寄ると、遅くまで仕込みをしていた料理長が、
何も聞かずに干し肉を分けてくれた。
澪さんが治療院で分けてもらっていた包帯と、
傷薬の小瓶も一つ、ポケットに入っていた。
昼間、「何かあったら、使って」と、澪さんが持たせてくれたものだ。
夜の中庭は、しんと冷えていた。
厩舎の脇の檻に近づくと、暗闇の中で、二つの金色の光がこちらを向いた。
低い唸り声。
鉄格子の向こうで、魔狼が牙を剥いていた。
僕は、檻から三歩ほど離れたところで足を止め、
そのまま石畳に腰を下ろした。
「こんばんは」
唸り声が一段と低くなる。
「怖がらせるつもりはないんだ。……って言っても、信じられないよね」
干し肉を、檻の格子の隙間からそっと中へ置く。
それから、包帯と傷薬の小瓶をその隣に並べた。
「その脚の傷、痛むだろう。僕じゃ、手当てはさせてもらえないと思うけど」
魔狼は、干し肉には目もくれなかった。
ただ、じっと僕を睨み続けている。
「僕も、ここに来たばかりなんだ」
夜風が中庭の木々を揺らした。
「知らない場所で、知らない人たちに囲まれて、
これからどうなるのかも分からない。
……怖いよな」
返事はない。
当たり前だ。
それでも、僕は話し続けた。
元の世界のこと。
ゼミのこと。
十五人の仲間のこと。
勇者の候補だと言われたこと。
同級生に違うと言われたこと。
自分の正しい職業を、知りたいと思っていること。
魔狼は、一度も唸るのをやめなかった。
干し肉にも、最後まで口をつけなかった。
それでも、僕は、夜が白み始めるまでそこに座っていた。
東の空が藍色から薄紫に変わる頃、
見回りの衛兵に見つかって、慌てて部屋へ戻った。
数時間だけ眠り朝食の前に、もう一度だけ中庭を覗いた。
檻の中で魔狼は丸くなって眠っていた。
格子の隙間に置いた干し肉は、消えていた。
傷薬の小瓶は、割れずにそこに転がっていた。
空になって。




