第18話「開戦」
第18話「開戦」
最初に飛んできたのは火だった。
魔王軍の陣の後方で、黒いローブを纏った小鬼たちが、一斉に杖を掲げた。
ゴブリンの呪術師。
魔物図鑑で読んだ名前が頭をよぎった。
その杖の先に赤い光が灯る。
一つ。
十。
百。
次の瞬間、百の火の玉が、夜明けの空に、弧を描いて舞い上がった。
「――結界師団、展開ッ!」
ヴェルダさんの声が、城壁の上に響き渡った。
北の城壁の上、等間隔に並んだ魔術師たちが、一斉に両手を掲げた。
淡い青色の光が、いくつもの膜となって、城壁の上の空を覆っていく。
その膜の一つの中心に。
小柄な少女の姿があった。
「け、【結界】……っ!」
三枝さんの両手から、青い光が大きく、大きく広がった。
二十歩。
三十歩。
隣の魔術師の膜と重なり合い繋がり合い一枚の、
巨大な青い盾となって、北の城壁を覆い尽くしていく。
火の玉が降ってきた。
青い膜に次々と叩きつけられる。
轟音。
閃光。
熱風が城壁の上を吹き抜けた。
けれど、火の玉は、一つとして、膜を突き抜けなかった。
青い盾の表面で赤い炎が、花火のように弾けて散っていく。
「――防いだ!」
「結界が持ったぞ!」
城壁の上の兵たちから歓声が上がった。
膜の中心で三枝さんが、歯を食いしばっていた。
額に玉のような汗が浮かんでいた。
膝が、がくがくと震えていた。
それでも、その両手は、少しも下がらなかった。
「よくやったよ、嬢ちゃん」
ヴェルダさんが、杖をついて、三枝さんの背中にそっと手を置いた。
「その調子さ。吐く息で広げるんだよ」
「は、はい……っ!」
僕は、北の城壁の少し離れた場所からその光景を見ていた。
胸の奥が熱くなった。
荷物持ちじゃない。
三枝さんは結界師だ。
今、この城壁の上にいる何百人もの兵を、三枝さんの結界が守っていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
火の雨が止むと今度は地響きが来た。
魔王軍の黒い波が一斉に動き出した。
灰色ゴブリンの群れが、城壁の前の空堀になだれ込んでくる。
杭に貫かれ、堀の底に落ちながらそれでも、
後から後から押し寄せてくる。
仲間の死骸を踏み台にして、堀を越え、
城壁の石に爪を立てて、よじ登ってくる。
「弓兵、放てッ!」
「油を落とせッ!」
「石だ! 石を落とせッ!」
城壁の上が戦場になった。
僕は剣を抜いた。
城壁の縁に灰色の手がかかる。
その手の持ち主が、城壁の上に顔を出した瞬間、剣を振るう。
次の手。
次の顔。
息を吐く。
肩の力を抜く。
親指はここ。
小指で締める。
隣でエレオノーラさんが、同じように剣を振るっていた。
その剣は速く正確で、一切の無駄がなかった。
けれど、その表情はひどく険しかった。
「……数が多すぎる」
エレオノーラさんが、剣を振るいながら唇を噛んだ。
「これはまだ、先鋒に過ぎません。グラズは、まだ一歩も動いていない」
城壁の向こうを見た。
黒い波のその真ん中。
鉄角のグラズは、腕を組んで、じっと王都を見上げていた。
その赤い目が城壁の上の僕を、探しているような気がした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
東門はもっとひどかった。
北からの街道がまっすぐにぶつかる門。
魔王軍の主力の一部が、そこに集中していた。
オーガたちが、丸太を抱えて、門扉に何度も、何度も叩きつけていた。
その門の内側で。
剛が盾を構えて、仁王立ちになっていた。
「――【不動】おおおおっ!」
門扉が軋むたびに、その裏から剛が全身で押し返す。
門扉と、剛の盾の間に挟まれた太い閂が悲鳴を上げていた。
けれど、閂は折れなかった。
剛が折らせなかった。
その隣で片腕を吊ったローデリヒさんが、
守備隊の兵たちに指示を飛ばしていた。
「門の上の弓兵、オーガの目を狙え!
丸太を抱えている奴の腕でもいい!
……おい大河内!
まだいけるか!」
「難しいことは分からんが、まだいけます!」
「はっはっは! いい返事だ! お前は本当に、壁だな!」
剛の額から汗と血が流れ落ちていた。
それでも、剛は笑っていた。
「ローデリヒのおっさん!
俺の後ろには、東区の連中がいるんですよ!
トマスが名簿を作ってくれたあの東区が!
一歩も、退けるわけ、ないでしょうが!」
門の上から、その姿を見下ろしていた守備隊の兵たちが、雄叫びを上げた。
「壁が立ってるぞ!」
「壁に続け!」
弓兵たちの矢が、雨のように、オーガたちの上に降り注いだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
治療院は、戦が始まって半日で、寝台が足りなくなった。
床に敷いた藁の上に、負傷兵が次々と運び込まれてくる。
矢傷。
火傷。
爪で裂かれた傷。
骨の折れた腕や、脚。
「……こっちの人、止血、お願いします。
布を傷口に当てて、上から強く押さえて」
澪さんの声が大広間に静かにけれど、はっきりと響いていた。
城下から集まった女性たちが、澪さんの指示に従って、次々と動いていく。
パン屋のおかみさんが包帯を巻く。
仕立て屋の娘さんが水を飲ませる。
年配の女性たちが、呻き声を上げる兵士の手を、そっと握っている。
澪さんは、大広間の真ん中で、一番重い傷の兵士の前に膝をついていた。
脇腹を、オーガの棍棒で砕かれた若い兵士だった。
【薬草知識】と【調合】。
澪さんの手が薬草を選び、すり潰し混ぜ合わせていく。
その動きには、一切の迷いがなかった。
「……大丈夫。助かります」
澪さんが兵士の手を握って小さく言った。
「私が助けますから」
兵士の荒い呼吸が、ほんの少しだけ落ち着いた。
治療院の入り口で、一人の兵士が、薬瓶を手に首をかしげていた。
「……おい、このポーション、なんか、変じゃねえか?」
「どうした?」
「城下の錬金術師の娘が売ってたやつなんだけどよ。
すげえ効くって評判で銀貨三枚もしたんだ。
確かに飲んだら、傷はすぐ塞がった。
でも、なんか、頭がぼんやりして……。
もう一本、飲みたくてたまらねえんだ」
その声が聞こえたのか、澪さんがふと顔を上げた。
兵士の手の中の硝子の小瓶をじっと見つめた。
淡い薄紅色の液体。
その液体の中で、ほんのわずかに、濁った光が揺らめいていた。
澪さんの眉がかすかにひそめられた。
けれど、次の負傷兵が運び込まれてきて、
澪さんは、すぐにそちらへ向き直った。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
籠城は二日目を迎え、三日目を迎えた。
城壁は持ちこたえていた。
結界は火の雨を防ぎ続けた。
東門は、一度も破られなかった。
けれど、それは、魔王軍がまだ、本気を出していないからだった。
二日目の昼、城壁の上から遠くに一団の騎影が見えた。
魔王軍の陣の東の横腹。
五十騎ほどの小さな一団が、魔物の群れに、横から食い込んでいく。
「……遊撃隊だ」
隣の騎士がつぶやいた。
先頭を駆けているのは、黒い革の鎧を纏った、一人の剣士だった。
青と黒の光を纏った剣が、魔物の群れを切り裂いていく。
志賀だった。
その隣で赤い光を纏った大柄な影が、狂ったように斧を振り回している。
堂島だった。
狂化。
その後ろで、宇佐美の魔法が、魔物の群れの中に次々と炸裂していた。
吉岡の矢が、取りこぼしを射抜いていく。
強かった。
本当に強かった。
遊撃隊は魔物の群れを、
まるで熱いナイフでバターを切るように、切り裂いていった。
そして、その一団の一番前。
志賀よりもさらに前に。
銀色の影が走っていた。
シロガネだった。
首に巻かれた茶色い革の首輪から、赤黒い光が、絶え間なく漏れていた。
その光が明滅するたびに、シロガネの体がびくりと痙攣する。
それでも、シロガネは止まらなかった。
止まれなかった。
首輪が止まることを許さなかった。
魔物の群れの中に、一頭で飛び込んでいく。
黒い狼の群れが一斉に、シロガネに襲いかかる。
牙が銀色の毛並みに食い込む。
爪がその脇腹を裂く。
シロガネが悲鳴を上げる。
それでも、シロガネは走り続けた。
その後ろに、遊撃隊のための道が切り開かれていく。
一団の後方で小田切が馬上から指を鳴らしていた。
「行け、ポチ! もっと前だ! 止まんなよ!」
「……っ」
僕は、城壁の縁を、白くなるほど、強く握りしめていた。
遠すぎた。
城壁の上から、あの場所まで千歩はある。
城門は固く閉ざされている。
たとえ開いたとしても、その間には魔物の大群がいる。
何もできなかった。
遊撃隊は魔物の群れに、大きな傷を負わせて、
また、東の森の中へと退いていった。
城壁の上の兵たちから歓声が上がった。
「遊撃隊、やるじゃねえか!」
「あの魔剣士、すげえな!」
その歓声の中で僕は、遊撃隊の退いていった森を、じっと見つめていた。
銀色の影は、遊撃隊の最後尾を、脚を引きずりながら、
よろよろとついていっていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
三日目の夜。
北の城壁の通用口の前で僕は、一人の男と向かい合っていた。
古賀だった。
遊撃隊の補給のために、夜陰に紛れて、城門の通用口から、
一時的に王都に戻ってきたのだという。
その顔は、泥と煤にまみれ、頬がげっそりとこけていた。
「……時間がない。すぐに戻らなきゃいけない」
古賀は、周りを見回して声を潜めた。
「白峰氏。明日の夜明けだ」
「明日の夜明け?」
「志賀がグラズの本陣に突っ込む」
心臓が跳ねた。
「この三日で遊撃隊は、魔王軍の東の横腹をだいぶ削った。
志賀は、それで自信をつけたんだ。
グラズの本陣の守りは、思ったより手薄だ。
夜明けの魔物の動きが鈍くなる時間を狙えば、グラズまで届く。
……志賀は、本気でそう思ってる」
「無茶だ。ガルドさんは知ってるの?」
「知らない。
志賀は、騎士団には何も知らせてない。
遊撃隊は、騎士団の指揮を受けないことになってるから」
古賀は唇を噛んだ。
「俺は止めた。
宇佐美も、吉岡も、さすがに渋い顔をしてた。
でも、志賀は聞かない。
『グラズの首を取るのは俺だ。
あのエセ勇者に、先を越されてたまるか』って」
古賀は一度、言葉を切った。
それから、さらに声を低くした。
「それと……小田切は、明日も、シロガネを、一番前に立たせるつもりだ」
「……」
「あいつもう限界だよ、白峰氏。
脇腹の傷が化膿してる。
鑑定したら、状態欄に『衰弱・重度』って出てた。
もう一度、あの群れの中に突っ込ませたら……たぶん、
もう、帰ってこれない」
古賀は、懐から、小さく折り畳んだ羊皮紙を取り出した。
それを僕の手に押しつけた。
「遊撃隊の明日の突入経路。
東の森を出て、北東の丘を越えて、グラズの本陣の背後に回り込む。
俺が覚えている限り書いておいた」
「古賀……」
「俺には、これくらいしかできない」
古賀は、眼鏡の奥で僕をまっすぐに見た。
「でも、白峰氏なら。何とか、するんだろ」
僕は、羊皮紙を握りしめた。
胸のポケットが熱くなった。
「……古賀」
「なに」
「ありがとう。必ず何とかする」
僕は、古賀の目をまっすぐに見返した。
「志賀も、堂島も、宇佐美も吉岡も小田切も。
古賀も。
シロガネも。
みんな生きて、帰ってこられるように」
古賀は、一瞬だけ泣きそうな顔をした。
それから、くるりと背を向けて、通用口の暗がりの中へ消えていった。
通用口の扉が、重い音を立てて閉ざされた。
僕は羊皮紙を広げた。
月明かりの下で古賀の少し癖のある字が、びっしりと並んでいた。
突入の経路。
時間。
遊撃隊の配置。
そして、その一番下に、小さな字で一行だけ書き添えられていた。
『シロガネを頼む』
僕は、羊皮紙を胸のポケットにしまって、
王城の作戦室へ向かって走り出した。




