第17話「籠城前夜」
第17話「籠城前夜」
王都の北門をくぐった僕たちを、人々の歓声が迎えた。
大通りの両脇を埋め尽くすほどの人。
窓という窓から、身を乗り出して手を振る人々。
花びらが雨のように降ってきた。
「ローデリヒ隊長だ! 生きて帰ってこられたぞ!」
「殿の兵も全員無事だってよ!」
「王女殿下と騎士団長と、候補の勇者様が、
連れて帰ってきてくださったんだ!」
担架の上で、ローデリヒさんが、照れくさそうに片手を上げた。
その周りを、砦から生還した兵たちの家族が、泣きながら取り囲んでいた。
妻の名を呼ぶ兵。
父に抱きつく子ども。
息子の頬を、何度も何度も撫でる年老いた母親。
僕は、馬上からその光景を見つめていた。
石橋であのまま殿に残っていたら。
ローデリヒさんたちは誰一人、この光景を見ることはなかった。
「……白峰殿」
担架の上から、ローデリヒさんが僕を呼んだ。
「はい」
「礼を言う。この光景を、また見られるとは、思っていなかった」
ローデリヒさんは、群衆の向こうの王城を見上げた。
「この腕が治ったら、東門に立たせてもらう。
ガルドから聞いたがあそこには、
お前の仲間のでかい重騎士がいるそうだな」
「剛です。大河内剛」
「壁、と呼ばれているそうだな。はっはっは。会うのが楽しみだ」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
王城の西の塔の下に、城壁の上へと続く長い石段がある。
その石段をのぼりきった先の北の城壁の上で。
十人ほどの魔術師たちが、円を描くように並んでいた。
その円の中心に、小柄な少女が立っていた。
「――け、【結界】……!」
三枝さんの両手から、淡い青色の光がふわりと広がった。
光は、薄い膜のように、城壁の上の空間を半球状に覆っていく。
直径、十歩ほど。
透き通った青い膜が、午後の陽光を受けて、
シャボン玉のように、きらきらと虹色に光っていた。
「よし、そのまま、そのまま。
息を止めるんじゃないよ、嬢ちゃん。
結界ってのは、吐く息で広げるもんさ」
円の外でヴェルダさんが、杖をついて立っていた。
「ゆっくり吐いて。そう。吐きながら、膜を外へ外へ」
「は、はい……っ」
三枝さんが細く長く息を吐いた。
青い膜がゆっくりと広がっていく。
十五歩。
二十歩。
「――よし、そこまで」
ヴェルダさんの声と同時に、三枝さんは膝から崩れ落ちた。
青い膜がぱちんと弾けるように消える。
「は、はあっ……はあっ……」
「上出来だよ。三日前は、五歩がやっとだったんだ。四倍さ」
ヴェルダさんは、ふぇっふぇっと笑った。
周りの魔術師たちが、ぱちぱちと拍手を送った。
「三枝さん」
僕が声をかけると、三枝さんは、弾かれたように顔を上げた。
「し、白峰くん……!
お、お帰りなさい……!
ぶ無事でよかった……!」
「ただいま。三枝さんこそ、すごいね、今の結界」
「そ、そんな……。ま、まだ全然……」
三枝さんは、慌てて首を横に振った。
それから、少しだけうつむいて、小さな声で言った。
「……わ、私、言えました」
「え?」
「し、志賀くんに……。
ゆ、遊撃隊には行かないって……。
じ自分で決めたって……」
三枝さんは、包帯の取れた両手を、胸の前でぎゅっと握りしめた。
もう、手のひらの腫れは、ほとんど引いていた。
「こ、怖かったです……。ででも……言えました」
僕は思わず笑っていた。
胸の奥がじんわりと温かくなった。
「……うん。すごいよ、三枝さん。本当にすごい」
三枝さんの顔が真っ赤になった。
「あ、ありがとう、ございます……」
ヴェルダさんが、杖の先で三枝さんの頭をこつんと叩いた。
「ほら、休憩は終わりだよ。
もう一回、二十歩。
今度は三十数える間、保たせてごらん」
「は、はいっ!」
三枝さんはもう一度、円の中心に立った。
その背中は、召喚された日よりも、ほんの少しだけ、まっすぐに伸びていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その日の夕方。
城下の人通りの少ない路地裏で古賀が待っていた。
「……白峰氏。
灰色峡谷の話、聞いたよ。
石橋を落として、殿を全員連れて帰ったって」
「みんなのおかげだよ。僕一人じゃ、何も」
「そういうとこだよね、白峰氏」
古賀は小さく苦笑した。
それから、周りを見回して声を潜めた。
「時間がないから、手短に言うね。志賀たちの遊撃隊のこと」
「うん」
「遊撃隊はギルドの冒険者、五十人くらいで編成される。
志賀がその隊長に収まった。
ワイバーン七体の実績を、ギルド長も無視できなかったみたい」
古賀は眼鏡を押し上げた。
「で志賀の狙いは、一つだけ。魔将グラズの首だ」
「……グラズの」
「魔王軍が王都を包囲したら、遊撃隊は、城の外から敵陣の横腹を突く。
そのどさくさに紛れて、敵の本陣に突っ込んで、グラズを討ち取る。
……志賀は、本気でそう考えてる」
「無茶だ。グラズは、灰色峡谷で僕も見た。あれは……」
「分かってる。俺も、止めた。でも聞かない」
古賀は唇を噛んだ。
「志賀はもう、引くに引けなくなってるんだ。
決闘で勝ったのに、誰も自分を見なかった。
ワイバーンを七体狩ったのに、ギルドに降格された。
その間に白峰氏はハルン村を救って、
灰色峡谷で殿を全員連れて帰って、王都じゅうの英雄になった」
古賀は一度、言葉を切った。
「……一万の魔王軍の大将首。
それくらいの手柄を立てなきゃ、もう、
白峰氏に追いつけないって、思い込んでるんだよ」
僕は何も言えなかった。
「それともう一つ」
古賀の声がさらに低くなった。
「小田切のこと。あいつ遊撃隊に、あの魔狼を連れていくつもりだ」
「シロガネを……」
「……シロガネ?」
「あ、いや。僕が勝手にそう呼んでるんだ」
古賀は、一瞬だけ目を丸くして、それから、少しだけ笑った。
「……いい名前じゃん」
それから、真顔に戻った。
「小田切は、あの魔狼を、遊撃隊の一番前に立たせるつもりだ。
魔王軍の陣に、真っ先に突っ込ませて、道を切り開かせる。
……要するに盾にするってこと」
拳を握りしめた。
「しかもあいつ、ザイルの件があってから、
ギルドの厩舎を追い出されたんだ。
魔狼は今、城壁の外の遊撃隊の野営地に繋がれてる」
「城壁の外……」
それでは、夜に会いに行くこともできない。
城門は、日が暮れると、固く閉ざされてしまう。
「……ごめん、白峰氏」
古賀はうつむいた。
「俺には、これくらいしかできない。
志賀を止めることも、小田切を止めることも」
「……ううん」
僕は首を横に振った。
「教えてくれてありがとう、古賀。
古賀がいなかったら、僕は、何も知らないままだった」
古賀は、眼鏡の奥で何度か瞬きをした。
「……お礼を言われるようなこと、してないよ」
「ううん。してるよ」
古賀は、何かを言いかけてやめた。
それから、くるりと背を向けた。
「……戦が終わったら、また話そう。白峰氏」
「うん。約束だよ」
古賀の背中が、夕暮れの路地の向こうへ消えていった。
胸のポケットが、ほんのりと温かくなった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
魔王軍が王都に至ると見込まれた日の前の夜。
王城の北の城壁の上に五人が集まっていた。
剛と澪さんと美咲さんと、奏さん。
そして、僕。
城に残った五人だった。
「はい、みんなちゃんと食べてね」
美咲さんが、竹の皮で包んだ握り飯を一つずつ配っていく。
「明日からゆっくりご飯を食べる時間なんて、なくなっちゃうと思うから。
今夜くらいはね」
「おうありがてえ」
剛が握り飯を二口で平らげた。
「うまい。難しいことは分からんが、美咲の握り飯は世界一だ」
「ふふ、異世界一、でしょ」
城壁の石の上に五人で並んで座った。
眼下には、王都の街並みが静かに広がっていた。
灯りは、いつもよりもずっと少なかった。
避難民の天幕の間で、小さな焚き火が、いくつも、ちらちらと揺れていた。
北の空は曇っていた。
その雲の下、地平線の向こうに明日、一万の魔物が現れる。
「……ねえ」
奏さんが竪琴を膝に乗せたまま、ぽつりと言った。
「みんな元の世界に帰りたい?」
誰も、すぐには答えなかった。
「……帰りたいわね」
最初に口を開いたのは、美咲さんだった。
「お父さんとお母さんが心配してると思うの。
定食屋、二人だけで回せてるかなって。
毎朝、市場に行くとき、ちゃんと腰の湿布、貼ってるかなって」
美咲さんは、握り飯を両手で包んだ。
「でも、ボルグさんや、厨房のみんなを置いて帰るのも、寂しいなって。
……変よね。
まだ三か月なのに」
「俺は分からん」
剛が夜空を見上げた。
「ラグビー部の連中に会いたい気もする。
でも、ローデリヒのおっさんや、
守備隊の連中と、東門に立つのも悪くない」
剛は、少しだけ照れくさそうに頭をかいた。
「難しいことは分からんが。今、俺が立つべき場所は、ここだって気がする」
「……私は」
澪さんが膝を抱えたまま小さく言った。
「……治療院にまだ治していない人がたくさんいるから。
その人たちを置いて帰れない」
それから、ほんの少しだけ、間を置いて付け加えた。
「……それに。一人で帰っても、意味がないから」
その言葉が、誰に向けられたものなのか。
僕にはよく分からなかった。
剛と美咲さんが、意味ありげに顔を見合わせていた。
「わたしは帰りたくない」
奏さんがあっさりと言った。
「この世界の歌をまだ、半分も覚えてないもの。
それに今、一番歌にしたい物語が、まだ途中だし」
奏さんは、僕のほうを見て、ふわりと笑った。
「ハルトくんは?」
全員の視線が僕に集まった。
僕は、しばらく夜空を見上げていた。
雲の切れ間から、見知らぬ星座が、ほんの少しだけ覗いていた。
「……分からない」
正直にそう答えた。
「元の世界のことを、忘れたわけじゃないんだ。
家族のことも、大学のことも篠原教授のことも。
合宿、夕方に到着するはずだった教授は、
研修室に誰もいなくて、きっとすごく心配してると思う」
みんなが小さく笑った。
「でも、今は、帰りたいとか、帰りたくないとかより先に。
この国の人たちを守りたいと思ってる。
リゼさんや、トマスくんや、ガルドさんや、エレオノーラさんや。
城下のたくさんの人たちを」
僕は、四人の顔を一人ずつ見た。
「それにみんなを。
剛を柚木さんを美咲さんを奏さんを。
それから、三枝さんも古賀も」
少しだけ言葉を探した。
「……志賀たちも。
みんなで生きて、この戦を越えたい。
帰るかどうかを決めるのは、その後でいいと思うんだ」
城壁の上に静かな風が吹いた。
「……陽翔らしいな」
剛がぽつりと言った。
「志賀たちもか。
あんだけ馬鹿にされて、決闘でボコボコにされてそれでも」
「うん。ゼミの仲間だから」
「……難しいことは分からんが」
剛は、大きな手で、僕の背中をばんと叩いた。
「お前がそう言うなら、俺もそうする。
東門で志賀の奴が逃げ込んできたら、ちゃんと入れてやるよ」
奏さんが竪琴の弦に指を置いた。
ぽろん、と澄んだ音が夜の城壁に響いた。
「――いいね、それ。歌になる」
奏さんは、静かに歌い始めた。
それは、この世界の歌ではなかった。
僕たちの世界の誰もが知っている古い童謡だった。
夕焼けの空と、帰り道と家族の待つ家を歌った優しい歌。
美咲さんが小さく口ずさんだ。
剛が低い声でそれに続いた。
澪さんが膝を抱えたまま、唇だけをそっと動かした。
僕も歌った。
五人の歌声が、夜の王都の上に静かに流れていった。
城壁の下の避難民の天幕の間で、誰かが顔を上げた。
知らない言葉の、知らない歌。
それでも、その旋律の優しさだけは、きっと伝わったのだと思う。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
夜が明けた。
僕は、北の城壁の上に立っていた。
隣にエレオノーラさんがいた。
反対側の隣にガルドさんがいた。
東の空が白み始めていた。
朝の冷たい風が、城壁の上を吹き抜けていく。
北の地平線は、まだ、薄い靄に覆われていた。
「……来るぞ」
ガルドさんが低くつぶやいた。
靄の向こうで何かが動いた。
最初は、地平線がわずかに黒ずんだように見えた。
それが少しずつ、少しずつ広がっていく。
左から右へ。
地平線の端から端まで。
黒い染みが大地を覆い尽くしていく。
靄が晴れた。
それは染みではなかった。
魔物だった。
灰色ゴブリン。
ホブゴブリン。
赤銅色のオーガ。
黒い毛並みの巨大な狼の群れ。
翼を持つ見たこともない異形の魔物たち。
数え切れないほどの魔物が、地平線を埋め尽くし、
ゆっくりと、王都へと向かって、押し寄せてきていた。
そして、その黒い波の真ん中に。
ひときわ巨大な影が立っていた。
黒い鉄の角。
赤銅色の岩のような巨体。
鉄角のグラズが、王都を見上げていた。
城壁の上の兵たちが、息を呑む音が聞こえた。
誰かの槍が、震える手から滑り落ちて、石畳の上でからんと鳴った。
僕は、胸のポケットに手を当てた。
職業札が静かに温かかった。
隣でエレオノーラさんが小さく言った。
「……隣に立っています」
「はい」
僕はうなずいた。
「僕も隣に立っています」
遠くで王城の鐘が鳴り始めた。
一つ。
二つ。
三つ。
奏さんの歌で、王都じゅうの人々が覚えた合図。
鐘が三つ鳴ったら南の大門へ。
籠城が始まった。




