第16話「北の砦、 陥落」
第16話「北の砦、陥落」
一か月の猶予は半分で終わった。
その報せが届いたのは、北の砦の狼煙から、
ちょうど二週間が過ぎた夜明けだった。
王城の中庭に、一頭の馬が、倒れ込むようにして駆け込んできた。
馬の脇腹は、汗と泡にまみれ、鞍には、乾いた血がこびりついていた。
その背から転げ落ちた若い騎士は、
駆け寄った衛兵の腕をつかみ、かすれた声で叫んだ。
「――北の砦、陥落……! 守備隊、南へ撤退中……!」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「三日前の夜だ」
作戦室で、伝令の騎士――砦の副官を務めていたという、
ハンスという青年――は、包帯を巻かれた腕を震わせながら、報告を続けた。
「魔王軍の中に、巨大なオーガがいました。
鉄の角を持つオーガの王。
魔物どもは、そいつを『グラズ』と呼んでいました」
「鉄角のグラズ……」
ヴェルダさんが低くつぶやいた。
「魔王軍の魔将の一人だね。
北の三国を滅ぼした軍勢の先鋒を務めてたって話だよ」
「そいつが砦の正門を素手で叩き割ったんです」
ハンスさんの声が震えた。
「門が破られて、魔物がなだれ込んできて……。
ローデリヒ隊長は、すぐに撤退を命じられました。
生き残った八百を、南の灰色峡谷へ逃がせと」
「ローデリヒは」
ガルドさんの声が低く響いた。
ハンスさんはうつむいた。
「……隊長は、五十人の兵と一緒に、殿に残られました。
灰色峡谷の石橋の手前で、追っ手を食い止めると。
そうしなければ、八百人が峡谷を渡りきる前に、
追いつかれてしまうからと」
作戦室が静まり返った。
殿。
最後の一人が逃げ終えるまで、そこに立ち続ける者。
僕は思わず、エレオノーラさんを見た。
エレオノーラさんは、卓の端を白くなるほど、強く握りしめていた。
その顔からは、血の気が完全に引いていた。
「……三年前と同じだ」
誰に言うでもなく、エレオノーラさんがつぶやいた。
かすれた小さな声だった。
ガルドさんが王に向き直った。
「陛下。騎兵を二百、お貸しください」
「ガルド」
「灰色峡谷までは、馬を飛ばせば一日半。
撤退中の八百と合流し、その退路を守ります。
そして」
ガルドさんの拳が、卓の上で固く握りしめられた。
「ローデリヒを連れて帰ります」
王は、しばらく目を閉じていた。
王都に残る騎士は二千。
そこから二百を割けば、王都の守りはそれだけ薄くなる。
けれど、その二百がいなければ、八百の命が、失われるかもしれない。
やがて、王はゆっくりと目を開けた。
「……行け、ガルド。ただし一つだけ命じる」
「は」
「そなたは必ず帰ってこい。
そなたまで失えば、この国は、本当に立ち行かなくなる」
「――わたくしも参ります」
エレオノーラさんが立ち上がっていた。
「エレオノーラ」
王の声がわずかに揺れた。
「三年前、わたくしは、城で、兄の帰りを待つことしかできませんでした」
エレオノーラさんは、王をまっすぐに見つめた。
「今度は待ちません。
ローデリヒは、兄の副官だった男です。
兄が最後に、生きろと命じて、砦から逃がした男です。
その男が今、兄と同じ場所に立とうとしている」
声が震えていた。
けれど、その瞳は、少しも揺らいでいなかった。
「行かせてください父上」
王は長い間、娘の顔を見つめていた。
それから、静かにうなずいた。
「……僕も行かせてください」
僕も立ち上がっていた。
ガルドさんが僕を見た。
エレオノーラさんが僕を見た。
「エレオノーラさんと、約束しました。次も、隣に立つと。それに」
僕は、胸のポケットに手を当てた。
「一人で立とうとしている人がいるなら、その隣に立ちに行きたいんです」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
灰色峡谷は、その名のとおり灰色の岩肌が、
天を衝くようにそそり立つ深い谷だった。
谷底を白く泡立つ急流が、轟音を立てて流れている。
その急流に架かる一本の古い石橋。
幅は馬車が一台、ようやく通れるほど。
長さは百歩ほど。
この石橋が、北から南へ抜ける唯一の道だった。
一日半の強行軍の末に、僕たちが峡谷の南の崖の上にたどり着いたとき。
石橋の上を、撤退する兵たちの列が、ゆっくりと渡ってきていた。
傷ついた兵。
仲間に肩を貸す兵。
担架で運ばれる兵。
誰もが泥と血にまみれ、疲れ切っていた。
「――ガルド団長!」
「援軍だ……! 援軍が来たぞ……!」
崖の上の僕たちに気づいた兵たちが、次々と声を上げた。
その声には、安堵と涙が混じっていた。
ガルドさんは、列の先頭にいた騎士に馬上から叫んだ。
「ローデリヒはどこだ!」
騎士は、振り返って、石橋の向こうを指さした。
「……北岸です! 隊長は、まだ橋の向こうに……!」
僕は、崖の縁から峡谷の向こうを見た。
石橋の北の端。
橋のたもとのわずかな平地に。
三十人ほどの兵が、盾を並べて、半円の陣を組んでいた。
その陣の向こうから、灰色と赤銅色と黒の、
魔物の群れが、波のように押し寄せていた。
そして、陣の真ん中。
盾の列の一番前に。
一人の男が立っていた。
白髪交じりの髭。
ぼろぼろになった銀色の鎧。
左腕は、だらりと垂れ下がりもう、動かないようだった。
それでも、その男は右手一本で大剣を構え、
押し寄せる魔物を、次々と斬り伏せていた。
「……ローデリヒ」
ガルドさんの声が震えた。
「――全騎、続け!」
エレオノーラさんが剣を抜いた。
その声は王女の声だった。
けれど、その奥に祈るような、叫ぶような響きがあった。
「橋を渡り北岸の殿を救出します! 一人も、置き去りにするな!」
二百の騎兵が、崖の道を駆け下りていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
石橋の上は、撤退する兵たちでまだ混み合っていた。
騎兵が一列になって、その脇をすり抜けていく。
橋の北の端にたどり着いたとき、殿の陣は、もう、二十人ほどに減っていた。
「ローデリヒ!」
ガルドさんが、馬から飛び降りて、陣の中に駆け込んだ。
「ガルド……か……?」
陣の真ん中で、白髪の男が、ゆっくりと振り返った。
その顔は、煤と血で黒く汚れていた。
けれど、その目だけは、まだ、鋭い光を失っていなかった。
「……なぜ、来た。王都の守りはどうした」
「お前を連れて帰りに来た」
「馬鹿を言え」
ローデリヒさんは、大剣を地面に突き立てた。
「八百がまだ、渡りきっていない。
俺たちが退けば、魔物どもは、一気に橋になだれ込む。
橋の上で追いつかれれば、八百のうち、半分は死ぬ」
「だから、お前がここで死ぬと言うのか」
「それが殿の務めだ」
ローデリヒさんは、ガルドさんの肩越しに、
その後ろに立つ、金の髪の少女を見た。
その目が大きく見開かれた。
「……エレオノーラ、殿下……」
エレオノーラさんは、ローデリヒさんの前に一歩、進み出た。
「ローデリヒ。退きなさい」
「殿下……。
なりません。
殿下こそお退きください。
ここは、王族がおられる場所では――」
「三年前」
エレオノーラさんの声が、ローデリヒさんの言葉を遮った。
「兄は、北の砦であなたに退けと命じた。
自分が殿に残るから、あなたは、兵を連れて生きて帰れと」
ローデリヒさんの顔が歪んだ。
「……はい。
殿下は……アルベルト殿下は、俺にそうお命じになりました」
「あなたは、その命に従った。そして、兄は帰らなかった」
「……俺が残るべきだった」
ローデリヒさんの声がかすれた。
「殿下ではなく、俺があの門の前に立つべきだった。
この三年、毎晩、そう思わなかった日はありません。
だから、今度こそ――」
「――兄は、あなたに生きろと言ったのです!」
エレオノーラさんが叫んでいた。
峡谷の轟音さえも一瞬、かき消されたような気がした。
「兄があなたを逃がしたのは、あなたを、
自分の代わりに死なせるためではありません!
あなたに生きて、この国を守り続けてほしかったからです!」
エレオノーラさんの青い瞳から、涙があふれていた。
「その兄の願いを……兄が、
命と引き換えにあなたに託したものを……あなたは、
ここで捨てるつもりですか……!」
ローデリヒさんは、言葉を失っていた。
大剣を握る右手が、小刻みに震えていた。
魔物の咆哮が、陣のすぐ外で轟いた。
盾の列が大きく揺らいだ。
残った兵たちが、歯を食いしばって、それを押し返す。
僕は一歩、前に出た。
「ローデリヒさん」
ローデリヒさんが僕を見た。
見知らぬ若者を見る、怪訝そうな目だった。
「白峰陽翔と言います。異界から来ました。勇者の候補です」
「……候補の勇者……。噂の……」
「一人で立たなくていいんです」
僕は、ローデリヒさんの隣に立った。
剣を抜く。
盾の列のその一番前に。
「殿が要るなら、みんなで殿をやりましょう。
ガルドさんも、エレオノーラさんも、騎兵の皆さんもここにいます。
二百と二十人なら、八百人が橋を渡りきるまで、
きっと持ちこたえられます」
ローデリヒさんの目をまっすぐに見た。
「そして、八百人が渡りきったら。
ここにいる全員で、一緒に退きましょう。
一人も置き去りにせずに」
「……一緒に退く……」
ローデリヒさんが、かすれた声で繰り返した。
「だが、最後の一人が橋を渡る間誰かが、
ここに残らねば魔物どもは――」
「橋を落とします」
全員が僕を見た。
「来る途中、南岸の崖の上で、工兵の人たちが、話しているのを聞きました。
この石橋は古くて、南の橋脚の要石を砕けば、
橋ごと谷底に崩れ落ちるって」
僕はガルドさんを見た。
「全員が橋を渡りきった瞬間に、南岸から橋を落とせば。
魔物はもう、追ってこられません」
ガルドさんは、一瞬だけ目を見開いた。
それから、にやりと笑った。
傷だらけの顔がくしゃりと歪んだ。
「……ハンス!」
「は、はいっ!」
橋の上で、撤退の誘導をしていた副官のハンスさんが、振り返った。
「工兵を南の橋脚へ回せ!
合図があったら要石を砕け!
殿の最後の一人が、南岸に足をつけた瞬間だ!」
「――了解しました!」
ローデリヒさんは僕を見ていた。
長い間じっと見ていた。
やがて、その口元がかすかに震えた。
「……アルベルト殿下も、そういう方だった。
誰よりも、民のことを考えておられた」
ローデリヒさんは、大剣を地面から引き抜いた。
「だが、殿下は、誰にも、隣に立たせてはくださらなかった。
……お前は、違うのだな候補の勇者」
「はい」
僕はうなずいた。
「僕は弱いので。
みんなに隣に立ってもらわないと、何もできないんです」
ローデリヒさんが、声を上げて笑った。
血と煤にまみれた顔で、心の底からおかしそうに。
「――はっはっは! 弱い勇者か! いいだろう!」
大剣を天に掲げる。
「殿の諸君!
聞いたか!
援軍が来た!
王女殿下と、騎士団長と候補の勇者殿がな!
ここからは全員で殿をやる!
そして全員で生きて帰る!」
疲れ切っていた兵たちの顔に、光が戻った。
「おおおおっ!」
盾の列から雄叫びが上がった。
胸のポケットが熱くなった。
ローデリヒさんの声に応えた、二十人の殿の兵たちの声。
それに重なる、二百の騎兵たちの声。
そして、石橋の上から、振り返って叫ぶ、撤退中の兵たちの声。
「隊長!」
「勇者様!」
「生きて帰ってきてください!」
信じてくれる声。
そして、僕が立てた誓い。
――全員で一緒に退く。
職業札の炎が金色に燃え上がった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
戦いは半刻ほど続いた。
二百二十人の殿は石橋のたもとで、
押し寄せる魔物の群れを食い止め続けた。
ガルドさんの大剣がオーガを薙ぎ払った。
エレオノーラさんの剣が光を描いた。
ローデリヒさんが、片腕で大剣を振るい続けた。
そして、僕の剣は金色の光を纏って、
盾の列の綻びを何度も、何度も繕った。
石橋の上の撤退の列が、少しずつ短くなっていく。
五百。
三百。
百。
「――最後の担架、渡りきりました!」
南岸からハンスさんの声が響いた。
「殿、退け!」
ガルドさんが叫んだ。
「騎兵は負傷者を馬に乗せろ!
走れる者は走れ!
一人も置いていくな!」
殿の陣が一斉に、石橋の上へと退き始めた。
魔物の群れが、それを追って、橋のたもとに殺到する。
僕は最後尾にいた。
隣にエレオノーラさんがいた。
反対側の隣に、ローデリヒさんがいた。
三人で後ろ向きに、石橋の上を退きながら、
追いすがる魔物を斬り払い続けた。
橋の中ほどまで来たとき。
峡谷の北の崖の上に、巨大な影が姿を現した。
人の背丈の三倍はある。
赤銅色の岩のような筋肉。
頭の両脇から、天を衝くように伸びた黒い鉄の角。
その手には、大木の幹をそのまま削り出したかのような、
巨大な鉄の棍棒が握られていた。
鉄角のグラズ。
その濁った赤い目が、石橋の上の僕たちを見下ろした。
いや、違う。
その目は、まっすぐに僕だけを見ていた。
僕の剣の金色の光を見ていた。
グラズの口が大きく開いた。
――オオオオオオオオオッ!
峡谷全体が震えた。
岩肌から小石が、ぱらぱらと剥がれ落ちた。
鼓膜が破れるかと思った。
「――走れッ!」
ガルドさんの声に、弾かれたように、僕たちは、背を向けて走り出した。
石橋の南の端まであと五十歩。
三十歩。
十歩。
背後で地響きがした。
グラズが崖を駆け下りてくる。
その一歩ごとに、石橋が大きく揺れる。
五歩。
三歩。
南岸の土を踏んだ。
「――今だッ! 砕けえッ!」
ハンスさんの絶叫と同時に、工兵たちの大槌が、
南の橋脚の要石に叩きつけられた。
轟音。
石橋がその中ほどから、ゆっくりと崩れ始めた。
古い石組みが一つまた一つと谷底へと落ちていく。
橋の上にいた魔物たちが、悲鳴を上げながら、急流の中へと消えていく。
そして、橋の北の端で。
グラズが立ち止まっていた。
崩れ落ちた橋の向こう。
百歩の谷を隔てて。
鉄角の魔将は、赤い目で僕をじっと見据えていた。
その口元が、ゆっくりと歪んだ。
笑ったのだと分かった。
――待っていろ。
声は聞こえなかった。
けれど、その目が確かにそう言っていた。
グラズは、くるりと背を向けて、北の崖の向こうへと姿を消した。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その夜。
峡谷の南の野営地で。
八百人と殿の二十人と援軍の二百人。
一千と二十人の兵が焚き火を囲んでいた。
撤退の途中で力尽きた者もいた。
魔物の刃に倒れた者もいた。
それでも。
石橋で殿を務めた二百二十人の中から、
命を落とした者は、一人も出なかった。
焚き火から少し離れた岩陰で。
エレオノーラさんが一人、膝を抱えて座っていた。
「……隣、いいですか」
エレオノーラさんは、顔を上げずに、小さくうなずいた。
僕は、少しだけ距離を空けて、その隣に腰を下ろした。
しばらく二人とも何も言わなかった。
峡谷の急流の音だけが、遠くで低く響いていた。
「……三年前」
やがて、エレオノーラさんが、膝に顔を埋めたまま言った。
「あの砦にも、あなたがいてくれたら。
兄の隣に誰かが立っていてくれたら。
兄は、生きて帰ってきたでしょうか」
僕は少しだけ考えた。
それから、正直に答えた。
「……分かりません」
「……」
「でも、今日、ローデリヒさんは、生きて帰ってきました。
アルベルトさんが、三年前に、ローデリヒさんを逃がしてくれたから。
そして、今日、エレオノーラさんがローデリヒさんに、
アルベルトさんの願いを届けてくれたから」
エレオノーラさんの肩が、小さく震えた。
「アルベルトさんが守ったものは、ちゃんと今も生きています」
エレオノーラさんは長い間、顔を上げなかった。
その肩の震えが、少しずつ、少しずつ静まっていくまで。
僕はただ隣に座っていた。
焚き火の向こうから、ローデリヒさんの笑い声が聞こえてきた。
ガルドさんと、酒を酌み交わしているらしかった。
「ガルド、あの候補の勇者は面白い奴だな!
弱いから、みんなに隣に立ってもらうんだと!
はっはっは!」
「ああ。面白い坊主だ。……だが、弱くはない」
「なに?」
「あいつは、自分が弱いと知っている。だから、強い」
胸のポケットの中で、職業札が静かに温かかった。
王都まであと二日。
鉄角のグラズの軍勢が王都に至るまで、
斥候の見立てでは、あと七日だった。




