第14話「それぞれの備え」
王都が、 変わり始めた。
城壁の上に、 石と油の樽が運び上げられていく。
大通りには、 鍛冶屋の槌音が、 朝から晩まで鳴り響いている。
広場では、 志願した民兵たちが、 騎士の指導のもとで、 槍の構えを教わっていた。
北から逃れてきた避難民の天幕が、 城壁の内側の空き地を、 少しずつ埋めていく。
それでも、 王都の人々は、 パンを焼き、 店を開け、 子どもを育てていた。
いつもどおりを、 必死に続けていた。
――怯えて立ち止まれば、 それだけで国は死んでしまいますから。
初めて城下を歩いた日の、 エレオノーラさんの言葉が、 何度も頭をよぎった。
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「――はい、 次! 塩漬け肉の樽は、 地下の三番倉庫へ! 乾パンは二番! ちゃんと、 日付の札を付けてね!」
王城の厨房の裏手で、 美咲さんの声が響いていた。
荷車から次々と降ろされる食料の樽や袋を、 料理人たちが、 手際よく倉庫へ運び込んでいく。
「籠城になったら、 一番最初に足りなくなるのは、 食べ物なの」
美咲さんは、 帳面に何かを書き込みながら、 僕に言った。
「十万人が、 一日三食。 それを、 何日分用意できるか。
どの順番で食べていくか。 傷みやすいものから先に、 日持ちするものは後に。
それをちゃんと決めておかないと、 魔物より先に、 飢えに負けちゃうから」
「美咲さん、 すごいね。 そういうの、 どこで覚えたの」
「実家が、 定食屋なの。 毎朝、 市場で仕入れて、 在庫を見て、 献立を決めて。
小さい頃から、 ずっと手伝ってたから」
美咲さんは、 少しだけ照れくさそうに笑った。
「それにね、 料理人のスキル。 【味覚】と【火加減】だけじゃなかったの。
最近、 【献立】っていうのが増えたのよ。
食材と人数を見ると、 何をどれだけ作れば、 みんながちゃんと食べられるか、
頭の中に浮かんでくるの」
熊のような料理長のボルグさんが、 大鍋を担いで通りかかった。
「料理人の娘っこの言うことは、 だいたい正しい」
ぼそりと言って、 また、 黙々と鍋を運んでいく。
美咲さんが、 くすくすと笑った。
「ボルグさんね、 最近、 あたしのこと『副料理長』って呼んでくれるのよ。
本人の前では、 絶対に言わないけど」
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治療院は、 隣の古い倉庫を借り受けて、 二倍の広さになっていた。
「……包帯は、 こう。 傷口に直接当たる最初の一巻きは、 必ず、 煮沸したものを使ってください。 二巻き目からは、 少し、 きつめに」
大広間の真ん中で、 澪さんが、 二十人ほどの女性たちに囲まれていた。
城下から集まってきた、 志願者たちだった。
パン屋のおかみさん。
仕立て屋の娘さん。
子育てを終えた、 年配の女性たち。
皆、 真剣な顔で、 澪さんの手元を見つめている。
「戦が始まったら、 怪我人は、 何百人と運ばれてくると思います。
私と、 マルタさんたちだけでは、 とても手が足りません。
だから……皆さんに、 手伝ってほしいんです」
澪さんは、 一人ひとりの顔を見ながら、 ゆっくりと言った。
いつもの澪さんよりも、 ずっと、 言葉が多かった。
「難しいことは、 しなくていいです。
包帯を巻いて、 水を飲ませて、 手を握ってあげてください。
それだけで、 助かる人が、 たくさんいます」
女性たちが、 一斉にうなずいた。
講習が終わった後、 マルタさんが、 僕の隣に来て、 小さく笑った。
「澪さん、 変わりましたね」
「え?」
「最初の頃は、 患者さんに話しかけるのも、 一言か二言でした。 今は、 ああして、 二十人の前で、 自分の言葉で話している」
マルタさんは、 遠くの澪さんを、 目を細めて見つめた。
「手の優しい人は、 いずれ、 口も優しくなるものです。 誰かを守りたいと思ったとき、 人は、 言葉を覚えるのですよ」
澪さんが、 こちらに気づいて、 小さく手を振った。
僕が手を振り返すと、 澪さんは、 ほんの少しだけ、 頬を赤くして、 また包帯の山に向き直った。
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夕暮れの大広場に、 竪琴の音が響いていた。
広場の噴水の縁に腰かけて、 奏さんが歌っていた。
その周りに、 たくさんの人が集まっていた。
避難民の子どもたち。
荷運びの手を休めた職人たち。
槍の稽古を終えた民兵たち。
けれど、 今日の歌は、 勇者の歌ではなかった。
「――鐘が三つ鳴ったら、 南の大門へ。
赤い旗の下に、 並んでおいで。
お年寄りと子どもは、 先に船へ。
手をつないで、 走らずに、 歩いておいで――」
明るく、 覚えやすい、 弾むような旋律。
子どもたちが、 手を叩きながら、 一緒に口ずさんでいる。
「避難の手順を、 歌にしたんだって」
いつの間にか隣に来ていた剛が、 腕を組んで言った。
「バルトロのおっさんが作った避難の手引き、 字が読めない人も多いだろ。
だから、 奏が、 歌にして覚えてもらうんだと。
鐘の数で、 どこに逃げるか、 誰が先か。 全部、 歌詞に入ってる」
「……すごいな、 奏さん」
「あいつの歌は、 一回聞いたら忘れねえからな」
歌が終わると、 子どもたちが、 「もう一回!」とせがんだ。
奏さんは、 ふわりと笑って、 また、 竪琴の弦に指を置いた。
それから、 広場の端にいる僕たちに気づいて、 小さく唇を動かした。
――いいね、 それ。 歌になる。
「……ところで、 剛は? 守備隊のほうは」
「おう。 東門の守備に、 正式に配属された」
剛は、 分厚い胸を、 拳で叩いた。
「東門は、 北からの街道が、 まっすぐぶつかる門だ。
魔王軍が来たら、 一番最初に、 一番たくさん、 押し寄せてくる。
隊長に、 『お前は東門の壁になれ』って言われた」
「……一番、 危ない場所じゃないか」
「だからだろ」
剛は、 にっと笑った。
「重騎士の戒律、 覚えてるか。 『守るべきものの前に立て』だ。
東門の後ろには、 東区の連中がいる。
トマスが名簿を作ってくれた、 あの東区だ。
難しいことは分からんが、 俺が立つ場所は、 そこしかねえよ」
夕日が、 剛の大きな背中を、 茜色に染めていた。
僕は、 何も言えずに、 ただ、 その背中を見つめていた。
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そして、 僕は。
「――遅い!」
ガルドさんの木剣が、 僕の脇腹を、 正確に打ち据えた。
石畳の上を、 転がる。
起き上がる間もなく、 今度は、 エレオノーラさんの木剣が、 喉元に突きつけられた。
「二対一で、 稽古をつける」
三日前、 ガルドさんは、 そう宣言した。
「戦場では、 敵は一体ずつ来てはくれん。
二方向から、 三方向から、 同時に来る。 それを、 体で覚えろ」
夜明けから、 昼まで。
昼から、 日暮れまで。
日暮れからは、 城下の名簿作り。
そして、 夜更けに、 また素振り。
体じゅうが、 軋んでいた。
けれど、 不思議と、 倒れることはなかった。
「……一つ、 聞いていいですか」
休憩の合間、 井戸の水を頭からかぶりながら、 僕は二人に尋ねた。
「誓約の灯を、 自分の意思で使うことは、 できないんでしょうか」
ガルドさんと、 エレオノーラさんが、 顔を見合わせた。
「ハルン村でも、 決闘でも、 火が燃え上がったのは、 誰かが声を上げてくれたときでした。
僕が、 使おうと思って使えたことは、 一度もないんです」
職業札を取り出す。
炎の紋様は、 手のひらの半分ほどの大きさで、 静かに揺らめいていた。
「戦が始まったら、 いつも誰かが声を上げてくれるとは限りません。 だから、 少しでも、 自分で」
「……やめておけ」
ガルドさんが、 低く言った。
「え?」
「その火は、 お前のものであって、 お前のものじゃない。 ヴェルダの婆さんは、 そう言ったんだろう」
「……はい」
「なら、 無理に引き出そうとするな。
他人から預かったものを、 自分の都合で、 好き勝手に使おうとする奴は、
いずれ、 その他人を、 道具だと思うようになる」
ガルドさんは、 木剣を肩に担いだ。
「お前がやるべきことは、 火がなくても戦える剣を、 身につけることだ。
火は、 その上に乗るもんだ。 土台がなけりゃ、 どんな火も、 すぐに燃え尽きる」
エレオノーラさんが、 小さくうなずいた。
「わたくしも、 同じ意見です。
あなたの剣は、 この二か月で、 見違えるほど強くなりました。
火がなくとも、 見習い騎士となら、 十分に渡り合える」
それから、 少しだけ、 声を落とした。
「……それに。 その火を、 道具のように使うあなたは、 見たくありませんので」
僕は、 札を、 そっと胸のポケットに戻した。
「……分かりました。 ありがとうございます」
「よし。 なら、 休憩は終わりだ」
ガルドさんが、 にやりと笑った。
「もう百本、 二対一だ」
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その夜も、 僕は、 ギルドの厩舎に向かった。
あの日、 小田切に「出ていけ」と言われてから、 毎晩、 欠かさずに通っていた。
小田切が酒場で酔い潰れている時間を見計らって。
厩舎番の老人には、 最初の夜に事情を話して、 頭を下げた。
老人は、 何も言わずに、 裏口の鍵を開けておいてくれるようになった。
鉄格子の前に、 腰を下ろす。
魔狼は、 もう、 僕の足音だけで、 顔を上げるようになっていた。
首輪の痛みに耐えながら、 鉄格子のそばまで、 這ってくる。
僕の手から、 肉を食べる。
僕が傷の手当てをする間、 じっと、 金色の瞳で、 僕を見つめている。
けれど、 その夜。
厩舎の中に、 先客がいた。
「……どうも、 お初にお目にかかります」
暗がりから、 粘りつくような声がした。
ランプの灯りの中に、 一人の男が、 ゆっくりと姿を現した。
痩せぎすの体に、 上等だが、 どこか着崩れた外套。
油で撫でつけた黒髪。
指には、 いくつもの指輪が、 鈍く光っていた。
「ザイルと申します。 しがない、 商人でございますよ」
ザイル。
古賀から聞いた名前だった。
小田切に、 隷属の首輪を売った、 闇商人。
ザイルの隣に、 小田切が立っていた。
酒の匂いは、 しなかった。
けれど、 その顔は、 ひどく、 やつれていた。
「……なんで、 いんだよ、 委員長」
小田切が、 苛立たしげに吐き捨てた。
「小田切。 その人と、 何の話を」
「関係ねえだろ」
「この子のことなら、 関係ある」
僕は、 鉄格子の前に立った。
ザイルが、 にたり、 と笑った。
「いえいえ、 大した話ではございません。
こちらの旦那が、 少々お金にお困りのようでしてね。
銀牙狼の毛皮と牙は、 好事家の間で、 なかなかの値で取引されるのですよ。
生きたままより、 よほど高く」
背筋が、 凍りついた。
「……売る、 つもりなのか」
僕は、 小田切を見た。
「この子を……殺して、 毛皮にして」
「仕方ねえだろ!」
小田切が、 叫んだ。
「違約金で、 金、 全部取られたんだよ!
宿代も払えねえんだよ!
こいつ、 首輪で縛っても、 全然強くならねえし!
戦わせても、 すぐ怪我するし!
餌代ばっかかかって、 何の役にも立たねえんだよ!」
鉄格子の向こうで、 魔狼が、 小さく、 身を縮めた。
「……だったら、 僕に譲ってくれ」
僕は、 懐から、 革袋を取り出した。
王国から毎月もらっている、 支度金。
ほとんど手をつけずに、 貯めてきたものだった。
「毛皮の値段と同じだけ、 払う。 足りなければ、 来月の分も、 その次の分も。 だから」
小田切は、 革袋を見た。
それから、 僕の顔を見た。
その顔が、 ゆっくりと、 歪んでいった。
「……は?」
「小田切」
「ふざけんなよ……。 委員長に、 売るくらいなら……」
小田切の声が、 震えていた。
怒りなのか、 屈辱なのか、 それとも、 別の何かなのか。
「委員長にだけは、 絶対、 売らねえ」
ザイルが、 肩をすくめた。
「おやおや、 これは困りましたな。 では、 旦那、 例のお話は――」
そのとき、 だった。
厩舎の入り口から、 甲冑の擦れる音がした。
二人の衛兵が、 槍を携えて、 立っていた。
「――ここで、 何をしている」
衛兵の一人が、 ランプを掲げた。
その光が、 ザイルの顔を、 まともに照らし出した。
ザイルの顔から、 一瞬で、 笑みが消えた。
「ギルドの厩舎に、 夜分、 部外者の出入りがあると、 宰相府から見回りを命じられている。 貴様、 何者だ」
「い、 いえいえ、 わたくしは、 ただの通りすがりの……」
ザイルは、 じりじりと後ずさりした。
そして、 次の瞬間、 外套を翻して、 厩舎の裏口から、 闇の中へと駆け出していった。
「待て!」
衛兵の一人が、 その後を追う。
残った衛兵が、 僕と、 小田切を、 交互に見た。
それから、 鉄格子の向こうの魔狼に、 目をやった。
魔狼の首には、 普通の、 茶色い革の首輪が巻かれていた。
その継ぎ目から漏れる、 かすかな赤い光に、 衛兵が気づいたかどうかは、 分からなかった。
「……勇者殿」
衛兵は、 僕に向かって、 小さく会釈をした。
「宰相閣下より、 言伝がございます。
『縛られた獣が、 主以外の誰に心を許すかまでは、 法は何一つ定めておりませんので、 どうぞご随意に』と」
衛兵は、 それだけ言うと、 もう一人の衛兵の後を追って、 厩舎を出ていった。
厩舎の中に、 静寂が戻った。
小田切は、 呆然と、 立ち尽くしていた。
やがて、 唇を噛みしめて、 僕を睨みつけた。
「……全部、 お前の差し金かよ」
「違う。 僕は、 何も」
「うるせえ!」
小田切は、 鉄格子を、 拳で殴りつけた。
魔狼が、 びくりと体を震わせた。
「見てろよ……。 もうすぐ戦争なんだろ。
そこで、 こいつを使って、 でかい手柄を立ててやる。
そしたら、 金なんか、 いくらでも入ってくるっしょ。
テイマーは、 魔物さえいれば、 最強の軍団なんだよ。
委員長なんかに、 オレの従魔を、 渡してたまるかよ」
小田切は、 足音荒く、 厩舎を出ていった。
僕は、 しばらく、 その場に立ち尽くしていた。
それから、 鉄格子の前に、 ゆっくりと腰を下ろした。
魔狼が、 這うようにして、 近づいてきた。
首輪の痛みに、 小さく呻きながら。
鉄格子の隙間から、 鼻先を、 僕の手のひらに押しつけた。
「……怖かったね」
僕は、 その鼻先を、 そっと撫でた。
「ごめん。 まだ、 その首輪を、 外してあげられない」
魔狼は、 何も答えなかった。
ただ、 金色の瞳で、 じっと、 僕を見つめていた。
その毛並みは、 汚れていても、 ランプの灯りを受けて、 かすかに、 銀色に光っていた。
冬の月のような、 冷たくて、 けれど、 どこか優しい、 銀色。
「……シロガネ」
気がつくと、 口にしていた。
「勝手に、 そう呼んでもいいかな。 小田切がつけた名前は、 君には、 似合わないと思うから」
魔狼の耳が、 ぴくりと動いた。
それから、 ほんのわずかに。
本当に、 ほんのわずかに。
その尾が、 藁の上で、 一度だけ、 揺れた。




