第13話「一か月の猶予」
王城の作戦室には、 夜が明けても、 灯りが消えなかった。
長い卓の上に、 王国全土の地図が広げられている。
北の砦から王都までの街道に、 赤い石がいくつも置かれていた。
魔王軍の進路を示す、 赤。
それを迎え撃つ王国軍を示す、 青い石は、 赤に比べて、 あまりにも少なかった。
卓を囲んでいるのは、 国王レオンハルト。
宰相バルトロさん。
騎士団長ガルドさん。
宮廷魔術師長ヴェルダさん。
エレオノーラさん。
そして、 なぜか、 僕。
「……白峰様にも、 お聞きいただきたいと、 陛下が仰せですので」
作戦室に入るとき、 バルトロさんは、 そう言った。
僕は、 卓の端の椅子に、 背筋を伸ばして座っていた。
場違いだ、 と思った。
けれど、 逃げるわけにはいかなかった。
「北の砦の守備隊は、 千二百」
ガルドさんが、 地図の北端を指で叩いた。
「砦の守備隊長は、 ローデリヒという男だ。
俺とは、 見習いの頃からの腐れ縁でな。
頑固だが、 守りの戦をさせたら、 この国であいつの右に出る者はいない。
それでも、 一万を相手に、 持って一か月だ」
「援軍は」
王の問いに、 ガルドさんは、 苦々しく首を横に振った。
「王都に残る騎士団は、 二千。
これを砦に回せば、 王都が空になる。
砦が持ちこたえている間に、 王都の守りを固めるほかありません」
「砦を、 見捨てると申すか」
「……見捨てはしません。 ですが、 救いにも行けません。 それが、 今の我らの、 偽らざる力です」
作戦室に、 重い沈黙が落ちた。
「民の避難は」
王が、 低く問うた。
バルトロさんが、 手元の帳面を開いた。
「王都の人口は、 およそ八万。
北部と東部の村々から、 すでに避難民が流れ込み始めております。
城壁の内側に収容できるのは、 せいぜい十万。
南の港町へ船で逃がせるのは、 一度に二千が限度でございます。
……全員を、 逃がすことはできません」
八万。
十万。
二千。
数字が、 卓の上を行き交う。
その一つひとつの向こうに、 人の顔があるのだと思うと、 胸の奥が、 冷たく締めつけられた。
カップを拾ったリゼさん。
膝を擦りむいた男の子と、 果物売りのお母さん。
『銀の竪琴亭』の、 白髪のおじいさん。
治療院の、 マルタさんと、 負傷兵たち。
ハルン村の、 ヨハンさんと、 カイくん。
「……発言しても、 よろしいでしょうか」
気がつくと、 僕は、 手を挙げていた。
全員の視線が、 僕に集まった。
「申してみよ、 白峰殿」
王が、 静かにうなずいた。
「僕には、 戦のことは、 分かりません。 軍略も、 兵站も、 何一つ知りません」
僕は、 地図の上の、 王都の印を見つめた。
「でも、 城下の人たちのことなら、 少しだけ、 知っています。
この二か月、 毎日、 城下を歩いて、 治療院に通って、 いろんな人と話をしてきたので」
顔を上げる。
「避難の段取りや、 城下の備えを、 手伝わせてもらえないでしょうか。
誰が足を悪くしているとか、 どの家に小さな子どもがいるとか、
そういうことなら、 僕にも、 少しは分かります」
作戦室が、 静まり返った。
やがて、 バルトロさんが、 革の帳面に、 さらさらと何かを書き留めた。
「……白峰様。 宰相府の書記を、 三名、 お付けいたします。
城下の各区の名簿作りを、 お願いできますでしょうか」
「はい!」
「それと」
バルトロさんは、 ほんのわずかに、 口元を緩めた。
「白峰様が城下で『お願い』をされたほうが、 宰相府の役人が命じるよりも、
民はよほど早く動くでしょう。 ……これは、 皮肉ではなく、 客観的な見込みでございます」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
作戦会議が終わった後、 ヴェルダさんに呼び止められた。
「ちょいと、 塔まで付き合いな、 坊や」
西の塔のてっぺんの、 丸い研究室。
天井からぶら下がる薬草の束の下で、 ヴェルダさんは、 僕の職業札を、 机の上の水晶玉の前に置いた。
水晶玉が、 札の炎を映して、 淡い金色に染まった。
「ハルン村で、 金色に燃えたんだってね」
「はい。 村の人たちが、 声を上げてくれたときに」
「その前は、 決闘のとき。 その前は、 ミルスの森。 一番最初は、 防具磨きをしてたときだったかね」
ヴェルダさんは、 指を折って数えた。
「それと、 王女様と丘の上で話したとき。 魔狼の檻の前で、 首輪を外すと言ったとき。
ハルン村に発つ前に、 メイドの嬢ちゃんに『約束する』と言ったとき」
「……全部、 ご存じなんですね」
「この塔からは、 城じゅうがよく見えるのさ。 それに、 王女様が、 律儀に報告してくるんでね」
ヴェルダさんは、 水晶玉に映る炎を、 じっと見つめた。
「あたしの見立てを言うよ。 間違ってるかもしれないから、 話半分に聞きな」
「はい」
「その火は、 二つのもので燃えてる。
一つは、 人があんたを信じる心。
もう一つは、 あんたが人に立てる誓い」
ヴェルダさんの皺だらけの指が、 札の炎の縁を、 なぞった。
「信じてもらうと、 火が大きくなる。
誓いを立てると、 火が形を持つ。
その二つが重なったとき、 火は、 あんたの体に流れ込んで、 力になる。
……灯を分かつ者たち、 ってのは、 たぶん、 あんたを信じる者たちのことさ」
僕は、 しばらく、 黙って炎を見つめていた。
ずっと、 薄々、 そうではないかと思っていた。
けれど、 こうして言葉にされると、 胸の奥に、 何か重いものが、 すとんと落ちてくるような感覚があった。
「……ヴェルダさん。 一つ、 怖いことがあります」
「言ってごらん」
「人に信じてもらうことが、 力になる。 それは、 とてもありがたいことだと思います。 でも」
僕は、 膝の上で、 両手を握りしめた。
「もし、 僕が、 その信頼を裏切ったら。
信じてくれた人を、 守れなかったら。 火は、 消えるんでしょうか」
ヴェルダさんの目が、 わずかに細くなった。
「それに……アルベルトさんのことを、 考えるんです。
民に勇者と呼ばれて、 期待されて、 退けなくなった人。
人の信頼を力にするというのは、 その人の期待を背負うということで。
背負いきれなくなったら、 僕も、 同じように」
ヴェルダさんは、 しばらく、 何も言わなかった。
窓の外で、 鳥が一羽、 鳴いた。
「……坊や」
やがて、 ヴェルダさんは、 静かに言った。
「あんたがそれを怖いと思えるから、 神様は、 その火をあんたに預けたんだろうね」
「え……」
「人の期待を、 何とも思わない奴に、 この火は預けられない。
期待を当然だと思う奴にも、 預けられない。
期待の重さを知ってて、 それでも、 一人で背負わずに、
誰かと分かち合おうとする奴にしか、 この火は、 灯らないのさ」
ヴェルダさんは、 札を、 僕の手に戻した。
「ハルン村で、 あんたは一人で戦ったかい?」
「……いいえ。 剛と、 トマスくんたちと、 エレオノーラさんが、 一緒に」
「それが答えさ」
ヴェルダさんは、 ふぇっふぇっと、 喉の奥で笑った。
「怖がりな勇者ほど、 長生きするもんだよ。
王太子殿下も、 もう少し、 怖がりだったらよかったんだがねぇ」
最後の一言は、 ひどく、 寂しそうな声だった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その日の午後。
王都の冒険者ギルド本部は、 異様な空気に包まれていた。
北の山から、 志賀たちが戻ってきたのだ。
荷車に積まれた、 ワイバーンの首が七つ。
大通りに、 人だかりができた。
けれど、 そこに、 歓声はなかった。
「……あれが、 ハルン村の依頼を放り出した連中か」
「前金だけ受け取って、 姿も見せなかったって話だぜ」
「村は、 候補の勇者様が、 王女殿下と一緒に救ったんだとよ」
ひそひそと交わされる囁き声が、 荷車を取り囲んでいた。
ギルドの扉を、 志賀が、 乱暴に押し開けた。
「ワイバーン七体。 討伐完了だ。 報酬、 よこせよ」
カウンターに、 依頼書を叩きつける。
けれど、 受付に座っていたのは、 いつもの若い受付嬢ではなかった。
白髪交じりの髪を短く刈り込んだ、 片目に眼帯をした初老の男。
王都冒険者ギルドの、 ギルド長だった。
「ワイバーンの報酬は、 払おう」
ギルド長は、 低い声で言った。
「ただし、 そこから、 差し引くものがある」
「は?」
「ハルン村の護衛依頼。
前金を受け取りながら、 依頼を放棄し、 ギルドへの報告も怠った。
村は、 魔物の群れに襲われた。
王女殿下と、 騎士団と、 異界の勇者殿が駆けつけなければ、 村は滅んでいた」
ギルド長は、 一枚の羊皮紙を、 カウンターの上に滑らせた。
王家の紋章の封蝋が押された、 正式な通達書だった。
「アルセリア第一王女、 エレオノーラ殿下の名による、 問責状だ。
前金の全額返還。
違約金として、 前金の三倍の支払い。
さらに、 パーティーのランクを、 Cから、 Dへ降格とする」
ギルドの中が、 静まり返った。
「……ふざけんなよ」
志賀の声が、 震えていた。
「ワイバーンを七体だぞ。 七体。 そっちのほうが、 何倍も価値がある依頼だろうが」
「依頼の価値を決めるのは、 冒険者ではない。 依頼を出した者だ」
ギルド長は、 眼帯の奥の目で、 志賀を見据えた。
「ハルン村の連中にとっては、 村じゅうの蓄えを掻き集めて出した依頼だった。
ワイバーン七体よりも、 よほど、 重い依頼だったんだよ」
志賀は、 カウンターを、 拳で殴りつけた。
「――全部、 あのエセ勇者のせいだ」
低い、 低い声だった。
「あいつが、 余計なことしやがるから……! 王女に、 告げ口しやがったんだろ……!」
「……違うよ、 志賀」
後ろのほうで、 小さな声がした。
古賀だった。
「白峰氏は、 何も言ってない。
ハルン村の長老が、 自分で、 王女殿下に訴えたんだ。
俺、 さっき、 大通りで、 そう聞いた」
志賀が、 ゆっくりと振り返った。
その目に、 これまで見たことのない、 暗い光が宿っていた。
「……古賀。 お前、 どっちの味方なんだよ」
古賀は、 答えなかった。
ただ、 眼鏡の奥で、 唇を噛みしめていた。
ギルドを出ていく志賀の背中を、 吉岡が、 慌てて追いかけていった。
堂島と、 宇佐美と、 花菱さんと、 姫野さんが、 その後に続く。
桐生は、 一人、 黙って、 ギルドの裏口から姿を消した。
三枝さんと、 古賀だけが、 しばらく、 その場に立ち尽くしていた。
そして、 小田切は。
違約金の分配で、 支度金の残りも、 ワイバーンの報酬の取り分も、 すべてを失った小田切は。
ギルドの厩舎の前で、 鎖に繋がれた魔狼を見下ろしながら、 爪を噛んでいた。
「……オレ、 もう、 金、 ねえんだけど」
魔狼は、 何も答えなかった。
首輪の紋様が、 鈍く、 赤く、 脈打っていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その夜。
僕は、 城下の路地を、 宰相府の書記の人たちと一緒に、 一軒一軒、 回っていた。
「こんばんは。 夜分にすみません。 王城から来ました、 白峰と申します」
「あらまあ、 勇者様じゃないの!」
扉を開けた年配の女性が、 目を丸くした。
「北の砦のことは、 お聞きになっていると思います。
もし、 王都に魔物が来たときのために、
このおうちに、 何人住んでいらっしゃるか、 足の悪い方や、
小さなお子さんがいらっしゃるか、 教えていただけないでしょうか」
「ええ、 ええ、 もちろんですとも。
うちはね、 主人と、 あたしと、 孫が三人。 一番下の子が、 まだ乳飲み子でね」
書記の人が、 名簿に、 さらさらと書き込んでいく。
一軒。
また一軒。
扉を叩くたびに、 人々は、 驚き、 それから、 協力してくれた。
「勇者様の頼みなら」
誰もが、 そう言ってくれた。
その言葉を聞くたびに、 胸のポケットの職業札が、 ほんのりと温かくなった。
そして、 そのたびに、 胸の奥が、 少しだけ、 重くなった。
この人たちを、 守らなければならない。
守れなければ、 この温もりは、 きっと、 裏切りに変わる。
路地の角を曲がったところで、 僕は、 足を止めた。
夜空を見上げる。
北の空は、 雲に覆われて、 星一つ見えなかった。
「……一人で背負わなくていい」
小さく、 自分に言い聞かせる。
ヴェルダさんの言葉。
ハルン村の、 焚き火の夜の、 エレオノーラさんの言葉。
「誰かと、 分かち合えばいい」
「――勇者様!」
路地の向こうから、 そばかすの少年が、 息を切らせて駆けてきた。
トマスくんだった。
その後ろに、 見習い騎士の仲間たちが、 五、 六人、 続いている。
「ぼくたちも、 手伝わせてください! 名簿作り!」
「トマスくん……。 でも、 見習いの皆も、 訓練が」
「訓練は、 明日の朝、 倍やります! ガルド団長にも、 許可をもらいました!」
トマスくんは、 胸を張った。
「勇者様一人じゃ、 王都じゅうの家を回るのに、 一か月かかっちゃいますから!」
僕は、 思わず、 笑っていた。
「……ありがとう。 じゃあ、 東区を、 お願いしてもいいかな」
「はいっ!」
見習い騎士たちが、 路地の向こうへ散っていく。
その背中を見送りながら、 胸のポケットに、 そっと手を当てた。
温かかった。
さっきまでの、 重さを伴う温かさとは、 少しだけ、 違っていた。
一か月。
北の砦が持ちこたえてくれる、 一か月。
それが、 僕たちに与えられた、 猶予だった。




