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【最終章突入】職業「勇者」って言われたのですが、一緒に転移した同級生いわく違うらしい ~正しい職業を知りたい今日この頃~  作者: 有馬 茶
第1部 ~新たな出会いと別れ~

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第12話「ハルン村の灯」

第12話「ハルン村の灯」



「出せるのはこれだけだ」


王城の厩舎の前に、ガルドさんの低い声が響いた。


集まったのは、騎士が六人と見習い騎士が四人。

その中には、トマスくんの姿もあった。

それに剛と澪さんと、エレオノーラさん。

そして、僕。

全部で十四人。


「……すまん」

ガルドさんは、傷だらけの顔を苦々しく歪めた。

「今朝、北の砦から早馬が来た。

魔王軍の動きが、にわかに慌ただしくなっているらしい。

陛下は騎士団の主力を、

王都の守りから動かすわけにはいかんとお決めになった。

俺もここを離れられん」

「十分です、ガルドさん」

僕は首を横に振った。

「十四人もいれば、きっと村の人たちを守れます」


ガルドさんは、しばらく僕を見下ろしていた。

それから、大きな手で僕の肩をつかんだ。

「坊主。

ホブゴブリンの率いる群れは、ミルスの森の比じゃない。

数も、力も狡猾さもだ」

「はい」

「殿下から聞いている。

お前は、名のためには死なんと、殿下に誓ったそうだな」

僕は、思わずエレオノーラさんのほうを見た。

エレオノーラさんは、馬の手綱を握ったまま、ふいっと顔をそらした。

「その誓い忘れるなよ。

退くべきときは退け。

守るべきものを守って、それで生きて帰ってこい」

ガルドさんの手に力がこもった。

「それが今日の騎士団長からの命令だ」


「……はい!」


僕は馬に跨った。

この二か月、エレオノーラさんに、剣と一緒に教わったものの一つだった。


城門の前に、リゼさんが立っていた。

両手を胸の前で固く握りしめ、泣き腫らした目で、僕たちを見送っていた。

その手の中に、白い布が握りしめられていた。

二か月前、割れたカップの破片で切った指に、僕が巻いたハンカチだった。


「……行ってきます、リゼさん」

リゼさんは声もなく、何度も、何度もうなずいた。


十四騎の馬が、王都の東門を駆け抜けていった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆








ハルン村は、王都から馬を全力で走らせて、半日の距離にあった。


なだらかな丘陵に囲まれた小さな農村。

麦畑の向こうに木の柵で囲まれた、

三十軒ほどの家々が身を寄せ合っている。

村の中央には、尖塔を持つ、小さな石造りの教会。


その村が燃えていた。


丘の上からそれが見えた。

村の外れの納屋から、黒い煙が空へと立ち上っていた。

木の柵の一部が破られていた。

その破れ目に、灰色の小さな影が群がっていた。


一体や二体ではない。

十。

二十。

いや――。


「……四十はいるな」

騎士の一人がかすれた声で言った。

「それにあれを見ろ」


灰色の群れのその奥。

麦畑の真ん中に、ひときわ大きな影が立っていた。


人の背丈の優に二倍はある。

灰色ゴブリンと同じ、ねじくれた灰色の肌。

けれど、その腕は丸太のように太く、

その手には、巨大な木の棍棒が握られていた。

棍棒の先に、錆びた鉄の釘が、何本も打ち込まれていた。


ホブゴブリン。


その巨体が、棍棒を振り上げて何かを叫んだ。

地鳴りのような太い咆哮。

それに応えるように、灰色の群れが、一斉に甲高い声を上げた。


柵の破れ目の向こうで村人たちが、

必死に鍬や、鋤や、熊手を構えていた。

その数はわずか十人ほど。

その中に一人、頭に血の滲んだ布を巻いた、栗色の髪の中年の男性がいた。

その目元がどこか、リゼさんに似ていた。


「――行きます」

エレオノーラさんが剣を抜いた。

その横顔は、凛としていて、けれど、わずかに青ざめていた。

「騎士は、わたくしに続きなさい。

群れの側面を突き、柵の破れ目から、ゴブリンどもを引き剥がします。

大河内殿は、柵の破れ目を、その身で塞いでください」

「おう! 任された!」

「柚木殿は、村の教会へ。負傷者が、集められているはずです」

「……はい」

「見習いたちは、村の中に入り込んだゴブリンを、二人一組で掃討しなさい。

決して一人にならないこと」

「は、はいっ!」

トマスくんたちが震える声で答えた。


それから、エレオノーラさんは僕を見た。

「勇者様は」

「僕は、村人の皆さんと一緒に、柵の内側を守ります」

僕は剣の柄を握りしめた。

「あの人たちが一番、怖い思いをしているから」


エレオノーラさんは、一瞬だけ何かを言いたそうに唇を動かした。

けれど、結局、何も言わずに小さくうなずいた。

「――死なないでください」

「はい。約束です」


エレオノーラさんの馬が、丘を駆け下りていった。

騎士たちがその後に続く。

剛が盾を構えて、雄叫びを上げながら突っ込んでいく。


僕も馬の腹を蹴った。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




柵の破れ目は、地獄のようだった。


灰色ゴブリンたちが、次から次へと押し寄せてくる。

村人たちは、鍬や鋤で必死にそれを押し返していた。

けれど、その腕はもう限界だった。

一人が骨の槍に脚を裂かれて倒れた。

もう一人が、短剣で腕を斬られて、鍬を取り落とした。


「――下がってください!」


僕は、馬から飛び降りて、柵の破れ目に体ごと飛び込んだ。

飛びかかってきたゴブリンを、剣で弾き返す。

もう一体。

返す刀でその骨の槍を叩き折る。


「な、なんだあんたは……!」

頭に布を巻いた中年の男性が、目を見開いていた。

「王都から来ました!

 怪我をした人を教会へ!

 ここは僕たちが守ります!」

「お、王都から……! 騎士様か……!?」

「騎士じゃありません。でも、一緒に戦います!」


「――おうりゃあああっ! 【不動】!」

すぐ隣で剛が盾を構えて、柵の破れ目の真ん中に仁王立ちになった。

押し寄せてきたゴブリンの群れが、

まるで岩壁に激突したかのように、次々と弾き飛ばされていく。

「陽翔! 正面は、俺が止める! お前は、横から来る奴を頼む!」

「分かった!」


戦った。

ひたすら、戦った。


息を吐く。

肩の力を抜く。

親指はここ。

小指で締める。

エレオノーラさんとの二か月の稽古。

ガルドさんの教え。

ミルスの森でのあの一振り。

その全部が、体の中に確かに生きていた。


柵の外では、エレオノーラさんの率いる騎士たちが、

群れの側面に食い込んでいた。

王女の剣が、光を描くたびに、灰色の影が地に伏していく。

村の中では、トマスくんたちが二人一組で、

入り込んだゴブリンを、一体ずつ確実に仕留めていた。


群れが少しずつ削れていく。

四十が三十に。

三十が二十に。


――いける。


そう思ったそのときだった。


地面が揺れた。


麦畑の真ん中で、ホブゴブリンが動き出していた。

一歩。

また一歩。

その一歩ごとに、大地が低く唸る。

巨体が麦を薙ぎ倒しながら、まっすぐに、こちらへ向かってくる。


いや、違う。

こちらではない。


ホブゴブリンの濁った目は、柵の破れ目のさらにその向こうを見ていた。


村の中央の小さな石造りの教会。

負傷した村人たちと、女性と子どもたちが、身を寄せ合っている場所。

澪さんが負傷者の手当てをしている場所。


「――っ、まずい!」

騎士の一人が叫んだ。

「あいつ群れを囮にして、教会を狙ってる!」


ホブゴブリンが吠えた。

そして、柵をその巨体で、まるで小枝のようになぎ倒した。


「陽翔!」

剛が叫んだ。

けれど、剛は、正面の群れを止めるので手一杯だった。

エレオノーラさんたちは、柵の外の遥か向こうだった。

トマスくんたちは、村の反対側にいた。


教会の前に立てるのは。

僕しか、いなかった。


走った。

全力で走った。

ホブゴブリンの巨体を、追い越すようにして。

脇腹の決闘でできた打ち身が悲鳴を上げた。

それでも、走った。


教会の扉の前に滑り込む。

振り返る。

剣を構える。


目の前にホブゴブリンが立っていた。


大きかった。

見上げるほどに大きかった。

その巨体が、太陽を遮り僕の上に、黒い影を落としていた。

腐った肉と血と獣の匂い。

濁った黄色い目が、僕を見下ろして、嘲るように細められた。


棍棒が振り上げられた。


「――っ!」


剣を立てて受け止める。

受け止めた。

受け止めたはずだった。


衝撃が腕を肩を背骨を貫いた。

剣が手の中で悲鳴を上げた。

膝が石畳に叩きつけられた。


重い。

志賀の剣とは、比べ物にならないほど重い。


二撃目。

受け止める。

腕が痺れて、感覚がなくなった。


三撃目。

受け止める。

剣が根元からひびの入る音がした。


――駄目だ。


頭の片隅で、冷静な声がそう告げていた。

このままでは剣が折れる。

剣が折れたら、次の一撃で僕は終わる。


退くべきときは退け。


ガルドさんの声が聞こえた。

エレオノーラさんの青い瞳が浮かんだ。

――名のために死ぬことだけは、しないでください。


でも。


背中の扉の向こうには澪さんがいる。

負傷した村人たちがいる。

女性と子どもたちがいる。

リゼさんの家族がいるかもしれない。


退けばこの扉は破られる。


「……退けない」


声が漏れていた。


「ここは……名のためじゃない。

この扉の向こうに、守りたい人たちがいるから」


ホブゴブリンが、四撃目の棍棒を振り上げた。

その一撃はこれまでよりも、さらに高く、

さらに大きく振りかぶられていた。

とどめの一撃だった。


そのとき。


背後で教会の扉が軋む音がした。


「――勇者さま!」


幼い声だった。

扉の隙間から、一人の男の子が顔を出していた。

七つか八つくらいの栗色の髪の男の子。

その目元が、リゼさんによく似ていた。


「勇者さまだ! ねえちゃんの手紙に書いてあった、勇者さまだ!」

男の子は、扉の隙間から、身を乗り出して叫んだ。

「カップを拾ってくれた勇者さま! ねえちゃんを助けてくれた勇者さま!」


「……え?」

「ほんとだ……! あの歌の……!」

教会の中からざわめきが上がった。

「候補の勇者様だ……!」

「王都の酒場で、吟遊詩人が歌ってたっていう……!」

「来てくれたんだ……! 勇者様が、来てくれたんだ……!」


扉が大きく開いた。

教会の中から、人々が顔を出していた。

傷ついた村人たちが。

女性たちが。

子どもたちが。

そして、その一番奥で、負傷者の手当てをしていた澪さんが、

立ち上がって僕を見ていた。


「勇者様、負けないで!」

「頑張れ、勇者様!」

「勇者さまあっ!」


声が重なり合う。


そして、誰からともなく、人々は手を組み合わせた。

祈るように。

いや、違う。

祈っているのではない。


信じているのだ。


胸のポケットが爆ぜた。


熱いという言葉では足りなかった。

ミルスの森の比ではない。

決闘のときの比でもない。

胸の奥で太陽が生まれたかのような熱が、一瞬で全身を駆け巡った。


視界が金色に染まった。


剣が光っていた。

ひびの入った騎士団から借りたただの鋼の剣。

その刃が内側から、金色の光を放っていた。

夜明けの最初の光のように。

柔らかく温かくどこまでも澄んだ金色の光。


鑑定の儀の日に、鑑定板が放った光と同じ色だった。


ホブゴブリンの棍棒が振り下ろされる。


僕は、その棍棒を見上げた。


遅い。


いや、違う。

棍棒が遅くなったのではない。

僕が見えるようになったのだ。

棍棒の軌道も、ホブゴブリンの重心も、その巨体のわずかな揺らぎまで。

全部が手に取るように見えた。


息を吐く。

肩の力を抜く。

親指はここ。

小指で締める。

力を入れるのは、振り下ろす最後の一瞬だけ。


――剣は守るために振れ。


金色の剣が下から斜めに跳ね上がった。


棍棒が真っ二つに割れた。


ホブゴブリンの濁った目が、初めて驚愕に見開かれた。

その巨体がよろめく。


「――今だ陽翔あっ!」


剛の声だった。

正面の群れを振り切って、盾を構えたまま、

ホブゴブリンの脇腹に、全身でぶつかっていく。

「【不動】おおおっ!」

巨体が大きく傾いた。


「勇者様!」

トマスくんの声だった。

村の反対側から、息を切らせて駆けつけてきた見習い騎士たちが、

ホブゴブリンの足元に、一斉に槍を突き出す。

巨体の膝が、がくりと折れた。


「――はあっ!」

そして、エレオノーラさんの声。

いつの間にか、柵の外から駆け戻ってきた王女の剣が、光を描いて、

ホブゴブリンのもう片方の膝裏を深々と斬り裂いた。


巨体が地響きを立てて両膝をついた。


その頭がちょうど、僕の目の高さにあった。


僕は、金色の剣を振りかぶった。


一人ではなかった。

剛が盾で巨体を押さえていた。

トマスくんたちが、槍でその脚を縫い止めていた。

エレオノーラさんが、剣を構えて、僕の隣に立っていた。

背中には、教会の人々の声があった。

信じてくれる声があった。


――灯を分かつ者たちのその手にあり。


金色の光が弧を描いた。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




ホブゴブリンが倒れると、残った灰色ゴブリンたちは、

蜘蛛の子を散らすように、森の奥へと逃げていった。


戦いは終わった。


村の納屋が二軒、焼けた。

柵は、半分ほどが壊された。

負傷した村人は十二人。

騎士の中にも何人か、怪我人が出た。


けれど。


死者は、一人も出なかった。


「……ゆうしゃ、さま……」

教会の中で、頭に布を巻いた中年の男性が、

寝台に横たわったまま、僕の手を握っていた。

澪さんの手当てで、傷の出血はもう止まっていた。

「リゼの父のヨハンと申します……。娘が……王都で……お世話に……」

「お世話になっているのは僕のほうです」

僕は、ヨハンさんの手を握り返した。

「リゼさんは毎朝、温かい布を持って、訓練場で待っていてくれるんです。

ハンカチを、お守りにしてくれていて」

ヨハンさんの目から、涙があふれた。


その寝台の脇で、さっき扉から顔を出した男の子――リゼさんの弟の、

カイくんが、僕の袖を小さな手で、ぎゅっと握りしめていた。

「勇者さま。ほんとに来てくれた」

「うん。遅くなってごめんね」

「ねえちゃんに手紙、書いたんだ。

たすけてって。

そしたらほんとに来てくれた」

カイくんは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で、にっと笑った。

「ねえちゃんの言ってたとおりだった。

勇者さまは、ぜったい来てくれるって」


村の長老が、杖をついて、僕の前にやってきた。

白い髭を蓄えた、腰の曲がった老人だった。

「……勇者様。村を代表して、礼を申し上げます」

長老は深々と頭を下げた。

それから、顔を上げて苦々しく言った。

「本来ならば、ギルドに依頼した冒険者の方々が、

三日前から、村を守ってくださるはずでした。

前金も、村じゅうの蓄えを掻き集めて、お支払いしたのです。

けれど、その方々は一度も、村に姿を見せなかった」

「……」

「確か、異界から来られた、勇者様のお仲間だと伺っておりましたが」


僕は何も言えなかった。

エレオノーラさんが、僕の隣で静かに拳を握りしめていた。


「……そのことは、わたくしが王都に戻り次第、

ギルドに正式に問い質します」

エレオノーラさんは、長老に向かって、王女の声で言った。

「村の蓄えは、必ず取り戻します。

アルセリア第一王女、エレオノーラの名において、お約束いたします」




◆◆◆◆◆◆◆◆◆








その夜。

村の広場で、ささやかな宴が開かれた。


焼け残った納屋から運び出したわずかな酒と麦のパン。

村の女性たちが、大鍋で煮込んだ野菜のスープ。

豪華なものは、何一つなかった。

けれど、焚き火を囲む人々の顔は、みんな笑っていた。


剛は、村の男たちに囲まれて、杯を酌み交わしていた。

「いやあ、あんたの盾、すごかったなあ!

 まるで城壁が歩いてるみたいだった!」

「ガッハッハ! 難しいことは分からんが、壁は得意だ!」


トマスくんたち見習い騎士は、村の子どもたちに囲まれて、

戦いの話をせがまれていた。

トマスくんは、真っ赤な顔で、身振り手振りを交えながら、

何度も同じ話を繰り返していた。

「それでね、勇者様の剣が金色に光ったんだ!

 ぼくこの目で見たんだよ!」


焚き火から少し離れた場所。

村の外れの柵の残骸に腰かけて、僕は、職業札を見つめていた。


炎の紋様は、もう、指先ほどの大きさではなかった。

手のひらの半分ほどにまで広がり、札の表面で、

静かに力強く揺らめいていた。

橙色だった炎は、その芯のところが、かすかに金色を帯び始めていた。


そして。

【職業:勇者(候補)】の文字。

その「候補」の二文字が、ほんのわずかに、薄くなっているような気がした。

目の錯覚だろうか。

焚き火の明かりのせいだろうか。


「……白峰くん」

振り返ると、澪さんが湯気の立つ木の椀を、二つ持って立っていた。

「……スープ。村の人たちが、白峰くんにって」

「ありがとう、柚木さん」

澪さんは、僕の隣に、少しだけ距離を空けて腰を下ろした。


しばらく二人で、黙ってスープをすすった。

素朴なけれど、体の芯まで染み渡るような温かい味だった。


「……教会の扉の前で」

澪さんが椀を両手で包んだまま、ぽつりと言った。

「白峰くんが、ホブゴブリンの前に立ったとき。私、中から見てた」

「……うん」

「……怖かった。すごく。白峰くんが、死んじゃうって思った」

澪さんの声が、少しだけ震えた。

「でも、白峰くんは退かなかった。

……退けなかったんだよね。

私たちが後ろにいたから」

「……ごめん。また無茶をした」

「……ううん」

澪さんは首を横に振った。

それから、焚き火の明かりの中で僕を見た。

「……ありがとう。守ってくれて」


その言葉は、いつもの澪さんの言葉よりも、少しだけ長かった。


焚き火の向こうから、エレオノーラさんが、こちらに歩いてくるのが見えた。

澪さんは、それに気づくとすっと立ち上がった。

「……負傷者の様子、見てくる」

「あ、柚木さん――」

澪さんは、振り返らずに、教会のほうへ歩いていった。

すれ違いざま、エレオノーラさんと、

澪さんが小さく会釈を交わすのが見えた。


「……隣、よろしいですか」

「はい、もちろん」

エレオノーラさんは、さっきまで澪さんが座っていた場所に、

静かに腰を下ろした。

その手には、何も持っていなかった。


「……あなたは、退きませんでしたね」

エレオノーラさんが、焚き火を見つめたまま言った。

その声には責めるような響きも、

安堵するような響きも、両方が混ざり合っていた。

「名のためには、死なない。そう、わたくしに約束したのに」

「……名のためじゃ、なかったです」

僕は職業札を握りしめた。

「教会の扉の向こうに、柚木さんや、村の人たちがいました。

退いたら、あの人たちが死んでしまう。

だから、退けなかった。

それに」

「……それに?」

「一人じゃ、なかったので」

僕は、焚き火を囲む人々を見た。

剛を。

トマスくんたちを。

村の人々を。

「剛が来てくれる気がしたし、トマスくんたちも、

エレオノーラさんも、きっと来てくれるって信じてました。

実際、来てくれた。

あのホブゴブリンを倒したのは、僕じゃありません。

みんなです」


エレオノーラさんは、しばらく何も言わなかった。

焚き火の爆ぜる音が静かに響いていた。


やがて、王女は小さく息を吐いた。

「……兄は一人でした」

「……」

「砦の門の前に、最後まで一人で立っていた。

誰も、兄の隣には立てなかった。

兄がそれを許さなかったから」

エレオノーラさんは、膝の上で両手を組み合わせた。

「あなたは違うのですね。

あなたは、誰かが隣に立つことを、最初から信じている」


そして、エレオノーラさんは、僕のほうを向いた。

焚き火の明かりが、その青い瞳の中で揺れていた。


「……次も、わたくしが、あなたの隣に立ちます」

「エレオノーラさん……」

「監視役ですので」

王女は、そう言って、少しだけ照れくさそうに目をそらした。

「……それだけです」


焚き火の向こうで、誰かが歌い始めた。

聞き覚えのある旋律だった。

王都の酒場で、奏さんが歌ったあの歌。

候補の勇者の歌。

村の誰かが、王都で聞いて、覚えて帰ってきたのだろう。

一人、また一人と歌声が重なっていく。


その歌の中に今夜、新しい一節が加わることを、僕はまだ知らなかった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆








翌日の夕刻。

王都の東門をくぐった僕たちを、リゼさんが待っていた。


僕が馬から降りるよりも先に、リゼさんは駆け寄ってきた。

「ハルト様……! 村は……! 父は……! 弟たちは……!」

「みんな無事だよ」

僕は懐から、一通の手紙を取り出した。

「カイくんから。お姉ちゃんに渡してって」


リゼさんは、震える手で手紙を受け取った。

拙い子どもの字。

昨日の手紙とは違って、その字は、涙で滲んではいなかった。


『ねえちゃん

勇者さまが きてくれたよ

とうさんも みんなも だいじょうぶ

勇者さまの けんが きんいろに ひかって

おおきな まものを たおしたよ

ねえちゃんの いってたとおりだった

勇者さまは ぜったい きてくれた』


リゼさんは、手紙を胸に抱きしめて、その場にしゃがみ込んだ。

声を上げて泣いた。

子どものように泣いた。


僕は、その隣にしゃがんで、リゼさんが泣き止むまで、

ずっと黙ってそこにいた。


約束は守れた。


胸のポケットの中で、職業札が静かに温かかった。




けれど。


その夜、王城の作戦室に呼ばれた僕たちを待っていたのは、

ガルドさんのこれまで見たことがないほど、険しい顔だった。


「……北の砦から二度目の早馬が来た」

ガルドさんは、卓の上に広げた地図の北の端を太い指で叩いた。

「砦の物見台から、狼煙が上がったそうだ。

三本。

……三本の狼煙の意味は一つしかない」

作戦室の空気が凍りついた。


エレオノーラさんが、小さく息を呑んだ。

「……魔王軍の総攻撃」

「ああ」

ガルドさんは、重々しくうなずいた。

「砦の向こうの平原に、魔物の大軍が集結している。

その数、少なく見積もっても一万。

三年前に、王太子殿下が命を落とされたときの倍以上だ」


一万。


その数字が、作戦室の中に、重く冷たく沈んでいった。


「砦は持って一か月だろう」

ガルドさんは、地図の上で、北の砦から、王都までを指でなぞった。

「砦が落ちれば、次はここだ」


その指が王都の上でぴたりと止まった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆








同じ頃。

北の山脈の峻険な岩場。


ワイバーンの死骸の山の上で、志賀は一人、夜空を見上げていた。


討伐は終わった。

ワイバーン、七体。

王都のギルドでも、前代未聞の戦果だった。

明日、その首を持って王都に戻れば、誰もが、

今度こそ、俺の名前を口にするはずだ。


それなのに。


頬の一筋の傷が疼いた。

決闘の日に、あのエセ勇者につけられた傷。

もう、とっくに塞がっているはずなのに。

なぜか、いつまでも消えなかった。


「……くそが」


志賀は、腰の職業札を無造作に取り出した。

月明かりにかざす。

【職業:魔剣士】。

その文字が、ほんのわずかに、曇っているように見えた。

志賀は、舌打ちをして札をしまった。

気のせいだ。

きっと月が霞んでいるだけだ。


そんな志賀の姿を、遥か上の岩棚の陰から見下ろす影があった。


黒いヴェールに顔を隠した一人の女だった。

夜の闇よりも、なお暗い漆黒のドレス。

その裾から覗く白い指先が、岩の縁をゆっくりと撫でていた。


「……あら」

女の唇がヴェールの奥で、艶やかに弧を描いた。

「いい器ね。渇いていて、飢えていて、ひび割れていて」

女は、くすくすと喉の奥で笑った。

「でも、まだ少しだけ青いわ。

もう少し……熟れてから、いただきましょうか」


一陣の風が岩場を吹き抜けた。

次の瞬間、岩棚の陰にはもう、誰の姿もなかった。


志賀は何も気づかないまま、

ワイバーンの死骸の上で、夜空を睨み続けていた。

第12話までお読みいただき、 本当にありがとうございます。

ここまでで、 第1部の前半が終わりました。


今回は、 第1部前半のまとめを兼ねて、 ここだけの話をいくつか。


ホブゴブリンを倒した場面について。

陽翔が一人で倒す展開には、 あえてしませんでした。

剛が盾で押さえ、 トマスたちが脚を止め、 エレオノーラが膝を斬り、 最後に陽翔が剣を振る。

これが、 この物語の「勇者」の戦い方です。

一人で全部を背負った王太子や志賀との対比として意識しました。


第1部後半では、 いよいよ、 王都に一万の魔王軍が迫ります。

首輪を巻かれた、 あの銀色の狼の物語にも、 決着をつけます。

引き続き、 お付き合いいただけたら幸いです。

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