第11話「首輪の狼」
第11話「首輪の狼」
「隷属の首輪、でございますか」
宰相の執務室で、バルトロさんは羽ペンを置いた。
決闘から三日。
ようやく澪さんから外出の許しをもらった僕が、
真っ先に向かったのがここだった。
「はい。
小田切……仲間のテイマーが連れている魔狼の首に、巻かれています。
柚木さんが、治療院の本で見たものと同じ紋様だと」
「……ふむ」
バルトロさんは机の上で指を組んだ。
「白峰様のおっしゃるとおり、隷属の首輪は、この国では禁制品です。
使用した者には、罰金と、職業札への刻印による処罰が科されます」
「だったら――」
「ですが」
バルトロさんは、静かに僕の言葉を遮った。
「処罰には証拠が要ります。
衛兵が首輪を検め、禁制の紋様を確認した上で、
初めて罪に問うことができる」
「首輪なら、あの魔狼の首に――」
「昨日、衛兵を一人、ギルドの厩舎に遣わしました」
僕は思わず口をつぐんだ。
「魔狼の首には、ごく普通の革の首輪が巻かれていたそうです。
紋様などどこにもなかったと」
バルトロさんは、机の引き出しから、一枚の報告書を取り出した。
「おそらく普通の革を、上から被せて隠しているのでしょう。
隷属の首輪は、外せば効果を失います。
それを外して見せろと命じるには、確たる理由が要る。
異界の客人の持ち物を、疑いだけで剥ぎ取ることは、
陛下のお約束に反します」
「……そう、ですか」
「申し訳ございません。
法とは時に、正しき者の手をも縛るものでございます」
バルトロさんは、報告書を引き出しに戻した。
それから、少しだけ声を落とした。
「……ただ、一つだけ。
これは、宰相としてではなく、一人の老人の独り言として、お聞きください」
「はい」
「隷属の首輪は、魔物の意思を痛みで縛る道具です。
縛られた魔物は、主の命令には逆らえない。
けれど、主以外の者に対しては、その限りではございません」
バルトロさんは窓の外に目をやった。
「縛られた獣が、主以外の誰に心を許すかまでは、
法は、何一つ定めておりませんので」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
王都の冒険者ギルド本部は、ヴェルンのそれよりも、ずっと大きかった。
四階建ての石造りの建物。
その裏手に、冒険者たちの馬や従魔を預かる、広い厩舎があった。
夜の厩舎は、獣の寝息と、干し草の匂いに満ちていた。
一番奥の鉄格子で仕切られた区画。
そこにあの魔狼がいた。
藁の上に力なく横たわっていた。
銀色の毛並みは、三日前に大通りで見たときよりも、
さらにひどく汚れていた。
右の前脚に、新しい傷が増えていた。
深い爪の痕。
誰も手当てをしていないのだろう。
傷口の周りの毛が、乾いた血で固まっていた。
首にはバルトロさんの報告どおり、
ごく普通の茶色い革の首輪が巻かれていた。
けれど、その革の継ぎ目から、赤黒い光がかすかに漏れていた。
僕は、鉄格子の前で足を止めた。
二か月前の王城の中庭と同じように。
三歩、離れた場所に腰を下ろした。
「……こんばんは」
魔狼の耳がぴくりと動いた。
濁った金色の瞳が、ゆっくりとこちらを向いた。
唸り声は上がらなかった。
牙も剥かなかった。
ただ、じっと僕を見ていた。
「覚えてるかな。城の中庭で毎晩、一人で喋ってた奴だよ」
魔狼は何も答えなかった。
けれど、その瞳がほんのわずかに、揺れたような気がした。
僕は、持ってきた布袋を開けた。
厨房のボルグさんに分けてもらった柔らかく煮た肉。
澪さんに作ってもらった傷薬と新しい包帯。
「お腹、空いてるよね。
それとその脚の傷。
……手当て、させてもらえないかな」
肉を鉄格子の隙間からそっと中へ置く。
二か月前と同じように。
魔狼は、しばらく肉を見つめていた。
それから、ゆっくりと首をもたげた。
そのとき。
首輪の継ぎ目から漏れる赤黒い光が、ひときわ強く脈打った。
魔狼の体がびくりと痙攣した。
喉の奥から押し殺した、か細い呻き声が漏れる。
「……っ」
僕は思わず、鉄格子に手をかけていた。
首輪は、主以外の者から、食べ物を受け取ることすら、
痛みで縛っているのだ。
小田切の命令がなければ、この魔狼は、食べることも、
傷を舐めることも、何一つ、自由にはできないのだ。
魔狼は、痛みに体を震わせながら、それでも、肉から目を離さなかった。
いや、肉ではない。
その向こうにいる僕から目を離さなかった。
そして。
ゆっくりと、這うようにして、鉄格子のそばまで体を寄せてきた。
首輪がまた赤く脈打った。
魔狼が呻いた。
それでも、魔狼は止まらなかった。
鉄格子の隙間から差し入れた僕の手のひら。
その上の肉に魔狼は震える鼻先を寄せた。
そして、一口だけ食べた。
僕の手から。
「……っ」
声が出なかった。
目の奥が熱くなった。
「……ありがとう」
ようやく絞り出した声は、ひどくかすれていた。
「痛いのに……ありがとう」
魔狼は、肉を飲み込むと、僕の手のひらにそっと鼻先を押しつけた。
乾いて、ひび割れた冷たい鼻先だった。
けれど、その奥から伝わってくる息は、確かに温かかった。
僕は、鉄格子の隙間から手を伸ばした。
傷ついた前脚に、ゆっくりと触れる。
魔狼は逃げなかった。
傷口を洗い、澪さんの傷薬を塗り新しい包帯を巻く。
その間、魔狼は一度も唸らなかった。
ただ、時折、首輪の痛みに小さく体を震わせながら、
じっと僕の手の動きを見つめていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「……やっぱりここにいた」
背後から聞き慣れた声がした。
振り返ると、厩舎の入り口に古賀が立っていた。
手に小さなランプを提げている。
その光が眼鏡のレンズに反射して、表情がよく見えなかった。
「古賀」
「……三日前の夜から、気になってたんだよね。
白峰氏なら、たぶん、来るだろうなって」
古賀は、ランプを提げたまま、ゆっくりと厩舎の中に入ってきた。
鉄格子の前で足を止める。
包帯を巻かれた魔狼の前脚を見て、小さく息を吐いた。
「……手当てさせてもらえたんだ」
「うん。痛いのに、我慢してくれた」
「そっか」
古賀は、しばらく黙って、魔狼を見下ろしていた。
それから、僕の隣に、少しだけ距離を空けて腰を下ろした。
「……白峰氏、一つ白状していい?」
「なに?」
「城にいた頃。
夜中に中庭で、白峰氏がこいつの檻の前に座ってるの、
見たことがあるんだ」
古賀は膝を抱えた。
「あのとき笑った。
何やってんだあの委員長、って。
魔物相手に人生相談かよ、って」
「……そっか」
「でも、ヴェルンで、小田切がこいつに首輪を嵌めたとき。
こいつが、悲鳴みたいな声で啼いてるのを聞いて。
俺、なんでか、白峰氏のことを思い出してた」
古賀は、眼鏡を外して、シャツの裾でレンズを拭いた。
「白峰氏なら、どうしたんだろうなって」
厩舎の中に、獣たちの寝息だけが静かに響いていた。
「……古賀」
「なに」
「この子のこと、鑑定してもらえないかな。鑑定士のスキルで」
古賀は、少しだけ驚いた顔をした。
それから、眼鏡をかけ直して、魔狼のほうを向いた。
「……いいよ。それくらいなら」
古賀の目が淡い光を帯びた。
鑑定士のスキル【鑑定】。
物の価値や、生き物の状態を文字として見通す力。
古賀は、しばらく魔狼をじっと見つめていた。
その唇が声に出さずに、何かを読み上げるように動いていた。
そして、ある一点でその唇がぴたりと止まった。
「……は?」
「古賀?」
「いや……ちょっと待って」
古賀は、眼鏡を押し上げて、もう一度、魔狼を見つめ直した。
それから、ゆっくりと僕のほうを向いた。
「……読み上げるね。
種族、銀牙狼。
若い個体。
状態、隷属、衰弱、負傷。
主、小田切健吾」
「……うん」
「でその下にもう一行、あるんだよ」
古賀は一度、唾を飲み込んだ。
「――『心を許した者、一名。白峰陽翔』」
厩舎の中がしんと静まり返った。
「……主の欄と、心を許した者の欄が別々に表示されてる。
こんな表示、初めて見た」
古賀の声がかすかに震えていた。
「小田切はこいつの主だ。
首輪で縛ってるから。
でも、こいつが心を許してるのは……白峰氏、だけなんだよ」
僕は、鉄格子の向こうの魔狼を見た。
魔狼は、包帯を巻いた前脚を、そっと僕の手のほうへ伸ばしていた。
「……テイマーの【使役】はさ。
魔物が心を許さないと発動しないんだよ」
古賀は、膝を抱えたまま、ぽつりと言った。
「小田切は二か月、こいつにスキルを使い続けた。
でも、一度も発動しなかった。
だから、首輪に頼った。
……テイマーでもない白峰氏に、心を許してるような奴が、
小田切に懐くわけ、なかったんだ」
「――おい」
厩舎の入り口から低い声が響いた。
振り返ると小田切が立っていた。
酒の匂いをさせながら、赤い顔でこちらを睨みつけていた。
「なにしてんの委員長。オレの従魔に、勝手に触んないでくれる?」
「小田切。この子、前脚に怪我をしてたんだ。だから、手当てを――」
「余計なお世話っしょ」
小田切は、ずかずかと厩舎の中に入ってきた。
鉄格子の前で、魔狼の前脚に巻かれた包帯を見て、鼻で笑った。
「なにこれ。こんなのすぐ取れるって。どうせ明日も戦わせるんだし」
「明日も……? この傷で?」
「当たり前じゃん。
オレの従魔なんだから。
オレが戦えって言ったら戦うんだよ」
小田切は指を鳴らした。
首輪の継ぎ目から、赤黒い光がほとばしった。
魔狼の体が弓なりに反り返った。
喉の奥から、引き裂かれるような悲鳴が上がった。
藁の上をのたうち回る。
巻いたばかりの包帯が、ずれて解けていく。
「やめろっ!」
僕は、小田切の腕をつかんでいた。
「やめてくれ、小田切! 痛がってる!」
「離せよ!」
小田切が僕の手を振り払った。
「なに?
また正義の味方ごっこ?
委員長、忘れたの?
決闘、負けたっしょ?
負けた奴が、勝った側に口出しすんなって」
「決闘のことは関係ない! この子は、生きてるんだ!」
「魔物だっつってんだろ!」
小田切はもう一度、指を鳴らした。
魔狼の悲鳴が、厩舎の天井に反響した。
ほかの馬や従魔たちが、怯えていななき始める。
「小田切、やめろって」
古賀が立ち上がっていた。
その声は震えていた。
けれど、はっきりと、小田切に向けられていた。
「……さすがにそれはない」
小田切は、目を丸くして古賀を見た。
「……は?
古賀、お前まで何言ってんの?
お前解説役だろ?
テイマーものだと、こういうのお約束じゃん」
「……お約束、だけどさ」
古賀は拳を握りしめていた。
「お約束だと、こういうことする奴は、後でろくな目に遭わないんだよ」
厩舎の中が静まり返った。
小田切の顔が、ゆっくりと赤から、青へと変わっていった。
それから、引きつったように笑った。
「……はっ。意味分かんね。オレは主人公側だし。志賀のパーティーだし」
小田切は、鉄格子を靴先で蹴った。
「もういいわ。
二人とも出てってくんない?
今度、オレの従魔に勝手に触ったら、ギルドに訴えるから」
僕は、鉄格子の向こうの魔狼を見た。
魔狼は、藁の上に倒れ伏したまま、荒い息をついていた。
それでも、金色の瞳だけは、じっと僕を見ていた。
――また何もできなかった。
拳を握りしめた。
爪が手のひらに食い込んだ。
「……必ずまた来る」
僕は、魔狼に向かって、小さくけれど、はっきりと言った。
「必ず、その首輪を外してみせる。約束する」
胸のポケットが、ふわりと温かくなった。
魔狼の耳がかすかに動いた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ギルドの外に出ると、夜風が冷たかった。
古賀は、しばらく僕の隣を黙って歩いていた。
大通りの角まで来たところで、ようやく口を開いた。
「……白峰氏。もう一つ、伝えておかなきゃいけないことがある」
「なに?」
「志賀のことだよ」
古賀は、ランプの火を見つめながら言った。
「決闘の後、志賀の職業札の文字が、少しだけ曇ったんだ。
俺の鑑定で見えた」
「……曇った」
第2話の、ガルドさんの講義が、頭をよぎった。
戒律に背けば、職業は劣化する。
職業札の文字が曇っていく。
「魔剣士の戒律は、『剣は誇りのために振れ』らしい。
……決闘で倒れた白峰氏に、殺すための剣を振り下ろした。
たぶん、あれだ」
「志賀はそのことを」
「知らない。誰も、教えてない。俺も言えなかった」
古賀は、自嘲するように笑った。
「解説役のくせに、一番大事なことは、何一つ言えないんだよね、俺」
それから、古賀は足を止めた。
「それともう一つ。こっちのほうが、急ぎかもしれない」
「なに?」
「志賀が受けた、ハルン村の護衛依頼」
僕は思わず、古賀の顔を見た。
「三日前に前金だけ受け取ったんだ。
でも、今日になって、北の山でワイバーンの群れの討伐依頼が出た。
報酬は、ハルン村の依頼の十倍」
古賀の声が低くなった。
「志賀は明日の朝、そっちに行くって決めた。
ハルン村の依頼は放り出すって」
「……放り出す? 前金を受け取ったのに?」
「前金は返さない。
ギルドへの報告もしないらしい。
『どうせ魔物の群れなんて噂だけだろ。
来なけりゃ護衛も必要ねえ』って」
背筋が冷たくなった。
「古賀。
ハルン村の近くで、魔物の群れが目撃されてるって、三枝さんから聞いた。
それは」
「……噂じゃない。たぶん」
古賀は眼鏡を押し上げた。
「前金を受け取った日に、村から来た使いの人を俺、鑑定したんだ。
服に灰色ゴブリンの体毛が付いてた。
それも、普通の灰色ゴブリンじゃない。
その上位種のホブゴブリンの毛だった」
「ホブゴブリン……」
魔物図鑑の記述が頭に浮かんだ。
灰色ゴブリンの群れを率いる大型の個体。
ホブゴブリンが率いる群れは、通常の群れの数倍の規模になる。
「……志賀には言ったの?」
「言ったよ」
古賀はうつむいた。
「『鑑定士のくせに、ビビってんじゃねえよ』って、笑われた」
古賀はしばらく黙っていた。
それから、顔を上げて、まっすぐに僕を見た。
初めて見る古賀の真剣な目だった。
「……白峰氏。
俺には何もできない。
志賀を止めることも、パーティーを抜けることも。
俺はそういう奴なんだ。
情けないけど」
「古賀……」
「でも、白峰氏なら、何とかするんだろ」
古賀は、小さく笑った。
「それがお約束、なんでしょ」
古賀は、それだけ言って背を向けた。
ランプの小さな灯りが、夜の路地の向こうへ遠ざかっていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
翌朝。
夜明けの訓練場で、エレオノーラさんとの稽古を始めようとした、
そのときだった。
「――ハルト様あっ!」
訓練場の入り口から、悲鳴のような声が響いた。
リゼさんだった。
メイド服の裾を乱して、息を切らせながら、駆け込んでくる。
その顔は真っ青だった。
手に一枚のくしゃくしゃになった紙を握りしめていた。
「リゼさん! どうしたの!」
「は、ハルト様……! む、村から……! 弟から手紙が……!」
リゼさんは、握りしめていた紙を、震える手で差し出した。
拙い子どもの字だった。
ところどころ、涙で滲んでいた。
『ねえちゃん たすけて
むらのちかくに まものがいっぱいきた
ギルドのぼうけんしゃさんが きてくれるはずだったのに
きてくれない
むらのおとなが たたかうって
とうさんも いくって
ねえちゃん たすけて』
「……昨夜遅くに村の人が、
王都まで馬を飛ばして、届けてくれたんです……」
リゼさんの声が震えていた。
「ギルドに何度も行ったけど、護衛を引き受けた冒険者様たちが、
北へ発ってしまって、代わりの人がいないって……!
ほかの冒険者様も、みんな、ワイバーンの討伐に行ってしまって……!」
リゼさんの膝が崩れた。
石畳にへたり込む。
「お、お願いします、ハルト様……! わたし、わたしどうしたら……!」
僕は、リゼさんの前に膝をついた。
震える肩にそっと手を置いた。
それから、顔を上げた。
エレオノーラさんが、すでに木剣を置いていた。
その青い瞳が、まっすぐに僕を見ていた。
「――ガルドを呼びます」
エレオノーラさんは、短くそう言った。
「騎士団の動ける者を集めます。一刻で、出られるように」
僕はうなずいた。
そして、リゼさんの手を両手でしっかりと握った。
「リゼさん。行ってくる」
「ハルト、様……」
「必ず、みんなを守る。リゼさんの家族も、村の人たちも」
胸のポケットが熱くなった。
「――約束する」




