第10話「王女が剣を取った理由」
決闘の翌朝、 僕は、 生まれて初めて、 寝台から起き上がれないという経験をした。
体中が、 軋んでいた。
腕も、 脚も、 脇腹も、 首も。
指一本動かすだけで、 どこかの骨が悲鳴を上げる。
治療院の高い天井を見上げながら、 僕は、 小さくうめいた。
「……まだ、 寝てて」
寝台の脇で、 澪さんが、 薬草をすり潰していた。
ごり、 ごり、 と、 規則正しい乳鉢の音。
「骨は、 折れてない。 でも、 打ち身がひどい。 三日は、 安静」
「三日も……。 稽古が」
「……安静」
澪さんは、 乳鉢から顔を上げずに、 もう一度だけ、 そう言った。
有無を言わせない口調だった。
僕は、 素直に、 枕に頭を戻した。
「よお、 陽翔。 生きてるか」
大広間の入り口から、 剛が、 見舞いの果物を抱えて入ってきた。
「なんとか」
「そりゃよかった。 難しいことは分からんが、 昨日のお前は、 死んでもおかしくない顔してたからな」
剛は、 寝台の脇の椅子に、 どっかりと腰を下ろした。
果物の皮を、 太い指で器用に剥きながら、 声を潜める。
「……志賀たちのことだけどな。 しばらく、 王都に残るらしい」
「王都に?」
「王都のギルド本部で、 でかい依頼を片っ端から受けるんだと。
ヴェルンの連中から聞いた話だと、 志賀の奴、 宿で荒れに荒れてたらしい。
『このままじゃ終われねえ』って」
剛は、 剥いた果物を、 僕の口元に差し出した。
「昨日の決闘、 勝ったのは志賀だ。 でも、 王都の連中が覚えてるのは、 お前のほうだ。
それが、 どうしても我慢ならねえんだろうな」
僕は、 果物を一口かじった。
甘酸っぱい味が、 切れた口の中に、 少しだけ染みた。
「……志賀は、 強かったよ」
「ああ。 強かった」
「僕が、 もっと強ければ。 三枝さんのことも、 あの魔狼のことも、 約束を守ってもらえたのに」
剛は、 しばらく黙って、 果物を剥き続けていた。
それから、 ぽつりと言った。
「陽翔。 お前、 自分が何をしたか、 分かってないだろ」
「え?」
「お前は負けた。 でも、 あの訓練場にいた全員が、 お前のために声を上げた。
王様も、 騎士も、 メイドも、 城下の連中も。
難しいことは分からんが、 あれは、 勝つよりも、 すごいことだと思うぞ」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
昼過ぎ。
ようやく、 寝台の上で体を起こせるようになった頃。
大広間の入り口に、 見慣れた金の髪が現れた。
エレオノーラさんだった。
今日は、 騎士服ではなかった。
淡い水色の、 簡素なドレス。
その腕に、 小さな花束を抱えていた。
大広間の負傷兵たちが、 一斉に背筋を伸ばした。
「で、 殿下……!」
「楽にしてください。 今日は、 王女としてではなく、 見舞い客として来ましたので」
エレオノーラさんは、 負傷兵たちに軽く会釈をしてから、 まっすぐに、 僕の寝台へと歩いてきた。
「……具合は、 いかがですか」
「なんとか。 三日は安静だそうです」
「そうですか」
エレオノーラさんは、 寝台の脇の花瓶に、 花束をそっと挿した。
白い、 小さな花だった。
「……アルセリアの、 北の山に咲く花です。 『灯草』と呼ばれています。
冬の雪の中でも、 小さな灯りのように咲き続けることから、 そう名付けられたそうです」
「灯草……」
「あなたの札の火に、 少し、 似ている気がしたので」
エレオノーラさんは、 花瓶の花を見つめたまま、 しばらく黙っていた。
それから、 静かに言った。
「……少し、 歩けますか」
「え?」
「お見せしたい場所があります。 もし、 お体に障らなければ、 ですが」
澪さんが、 乳鉢を置いて、 顔を上げた。
エレオノーラさんと、 澪さんの視線が、 一瞬だけ、 交差した。
「……ゆっくりなら。 でも、 走ったりは、 絶対に駄目です」
「感謝します、 柚木殿」
エレオノーラさんは、 澪さんに、 丁寧に頭を下げた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
エレオノーラさんが僕を連れていったのは、 王城の裏手にある、 小さな丘の上だった。
丘の頂には、 白い石で造られた、 小さな霊廟が建っていた。
その周りを、 灯草の白い花が、 一面に覆っている。
風が吹くたびに、 小さな花々が、 さざ波のように揺れた。
丘の上からは、 王都の街並みと、 その向こうに広がる平原と、 さらにその向こう、 北の空に霞む山脈までが、 一望できた。
「王家の霊廟です」
エレオノーラさんは、 霊廟の扉の前で、 足を止めた。
扉の脇に、 一本の剣が、 石の台座に突き立てられていた。
銀色の、 美しい長剣だった。
けれど、 その刃は、 中ほどから、 無残に折れていた。
「……わたくしの兄、 アルベルトの剣です」
風が、 灯草の花を揺らした。
「兄は、 この国の王太子でした。 わたくしより、 五つ年上で。
剣の腕は、 ガルドにも引けを取らないほどでした。
優しくて、 明るくて、 誰からも好かれていた。 民は、 兄のことを、 こう呼んでいました」
エレオノーラさんは、 折れた剣の柄に、 そっと手を触れた。
「――アルセリアの勇者、 と」
僕は、 何も言えなかった。
「三年前。 北の砦が、 魔王軍の大軍に襲われました。 トマスの村が焼かれたのも、 そのときです」
エレオノーラさんの声は、 静かだった。
静かすぎて、 かえって、 その奥にあるものの重さが、 伝わってきた。
「兄は、 砦の守備隊を率いて、 周辺の村々の民を逃がすための殿を務めました。
ガルドは、 撤退を進言したそうです。
砦はもう持たない、 王太子殿下が死ねば国が揺らぐ、 と。
けれど、 兄は、 退きませんでした」
「……どうして」
「民が、 兄を、 勇者と呼んでいたからです」
エレオノーラさんの手が、 折れた剣の柄を、 強く握りしめた。
「勇者が退けば、 民は絶望する。
勇者が背を向ければ、 兵は逃げ出す。
だから、 勇者は、 最後まで立っていなければならない。
……兄は、 出陣の前夜、 わたくしにそう言いました。 笑いながら」
風が、 止んだ。
灯草の花が、 静まり返った。
「兄は、 最後の村人が逃げ終えるまで、 砦の門の前に立ち続けたそうです。
そして、 帰ってきたのは、 この、 折れた剣だけでした」
僕は、 ただ、 その背中を見つめていた。
小さな背中だった。
いつも凛と伸びている、 王女の背中が、 今は、 ひどく小さく見えた。
「わたくしは、 その日から、 剣を取りました」
エレオノーラさんは、 剣の柄から手を離した。
「兄の代わりになりたかったわけではありません。 兄の代わりなど、 誰にもなれません。
ただ……二度と、 守られるだけの者でいたくなかった。
誰かが、 わたくしの前で、 わたくしを守るために死んでいくのを、
ただ見ているだけの者でいたくなかったのです」
そして、 エレオノーラさんは、 ゆっくりと振り返った。
青い瞳が、 まっすぐに、 僕を見つめていた。
「だから、 わたくしは、 『勇者』という言葉が、 嫌いでした」
その言葉は、 刃のように、 静かに、 僕の胸に届いた。
「勇者という言葉は、 人を縛ります。
退くことを許さず、 背を向けることを許さず、 最後まで立ち続けることを強いる。
民の期待という名の鎖で、 人を、 死地へと縛りつける。
兄を殺したのは、 魔王軍の刃ではありません。
……『勇者』という、 その呼び名です」
だから、 召喚の日、 彼女は、 あれほど冷たい目をしていたのだ。
だから、 初めて会ったあの朝、 「勇者という肩書きを持つ方は、 特に信用していない」と言ったのだ。
「あなたが、 現れたとき。 わたくしは、 正直に申し上げて、 恐ろしかった」
エレオノーラさんの声が、 わずかに、 震えた。
「また、 民が、 一人の若者を勇者と呼ぶ。
また、 その若者が、 期待という鎖に縛られて、 死地へと向かっていく。
それを、 また、 わたくしは、 ただ見ていることになるのではないかと」
「……エレオノーラさん」
「けれど、 あなたは」
エレオノーラさんは、 小さく、 首を横に振った。
「あなたは、 勇者を名乗りませんでした。
鑑定板に勇者と書かれても、 民に勇者と呼ばれても、 一度も。
『候補』の二文字を、 誰よりも素直に、 受け入れていた。 そして、 昨日」
青い瞳が、 揺れた。
「民の前で、 偽物だと頭を下げろと言われて。
あなたは、 自分は一度も勇者を名乗ったことがない、 と言った。
名を失うことを、 少しも恐れていなかった」
風が、 また、 吹き始めた。
灯草の白い花が、 一斉に揺れた。
「あのとき、 分かったのです。 あなたは、 兄とは違う。
あなたは、 勇者という名に縛られていない。
名ではなく、 ただ、 目の前の誰かのために、 立っている」
エレオノーラさんは、 一歩、 僕に歩み寄った。
「……だからこそ、 お願いがあります」
「はい」
「あなたは、 死なないでください」
その声は、 王女の声ではなかった。
三年前に兄を失った、 一人の少女の声だった。
「民があなたを勇者と呼んでも。 あなたの札の火が、 どれほど大きくなっても。
退くべきときは、 退いてください。 背を向けるべきときは、 背を向けてください。
名のために死ぬことだけは、 しないでください」
僕は、 しばらく、 何も言えなかった。
折れた剣を見た。
一面の、 灯草の花を見た。
そして、 目の前の、 青い瞳を見た。
それから、 静かに、 口を開いた。
「……約束、 します」
エレオノーラさんの目が、 わずかに見開かれた。
「僕は、 名のためには死にません。 でも、 その代わり」
僕は、 胸のポケットに手を当てた。
「目の前の誰かを守れるくらいには、 強くなります。
誰かを守って、 それで、 ちゃんと、 生きて帰ってこられるくらいに。
アルベルトさんが、 一人で背負わなければならなかったものを、
一人で背負わなくてもいいくらいに」
エレオノーラさんを、 まっすぐに見た。
「だから、 これからも、 稽古をつけてください。 今までよりも、 もっと、 厳しく」
そのときだった。
胸のポケットが、 ふわりと、 温かくなった。
決闘のときのような、 燃え上がる熱ではなかった。
もっと、 静かで、 穏やかで、 けれど、 深いところから湧き上がってくるような、 温もりだった。
職業札を、 取り出す。
炎の紋様が、 静かに、 揺らめいていた。
その炎の輪郭が、 ほんの少しだけ、 はっきりと、 くっきりと、 形を持ったように見えた。
エレオノーラさんが、 札を覗き込んだ。
「……火が」
「はい。 今、 少しだけ、 温かくなりました」
「今……? 誰も、 あなたを応援してなど……」
エレオノーラさんは、 言いかけて、 はっと口をつぐんだ。
「……誓約、 の灯」
小さく、 つぶやく。
「あなたは、 今、 わたくしに、 約束をした」
僕も、 札を見つめた。
誓約の灯。
ちかいの、 ともしび。
人に信じてもらったとき、 火は大きくなった。
そして、 今。
誰かに、 約束をしたとき。
火は、 形を持った。
「……少しだけ、 分かった気がします」
僕は、 札を、 そっと胸のポケットに戻した。
「この火が、 何なのか。 まだ、 全部じゃないですけど」
エレオノーラさんは、 しばらく、 黙って僕を見ていた。
やがて、 その唇が、 かすかに、 ほころんだ。
初めて見る、 王女の笑顔だった。
「……明日から、 とは言いません。 柚木殿に叱られますので」
エレオノーラさんは、 そう言って、 少しだけ、 いたずらっぽく目を細めた。
「三日後から。 夜明けに、 訓練場で。 ……今までよりも、 厳しくいたします」
「はい。 よろしくお願いします」
丘を下りる帰り道。
エレオノーラさんは、 僕の歩調に合わせて、 ゆっくりと歩いてくれた。
一度だけ、 僕がよろめいたとき、 その手が、 そっと僕の腕を支えた。
細くて、 けれど、 剣だこのある、 温かい手だった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その夜。
治療院の大広間の灯りが、 一つ、 また一つと消えていった頃。
寝台の脇に、 小さな人影が立った。
「……し、 白峰くん。 お、 起きてますか……?」
囁くような、 震える声。
目を開けると、 三枝さんが立っていた。
外套のフードを目深にかぶり、 両手で、 小さな壺を握りしめている。
「三枝さん? どうして、 ここに」
「し、 志賀くんたちが、 寝た後に……こっそり、 来ました……。
ご、 ごめんなさい、 こんな夜遅くに……」
三枝さんは、 握りしめていた壺を、 寝台の脇の台に置いた。
澪さんの、 軟膏の壺だった。
「こ、 これ……柚木さんに、 返してほしくて……。 あ、 あと……」
三枝さんは、 フードの奥で、 ぎゅっと唇を噛んだ。
包帯を巻いた両手が、 小刻みに震えていた。
「……き、 昨日の、 決闘」
「うん」
「わ、 私、 見てました……。 白峰くんが、 何回倒れても、 立ち上がるの……」
三枝さんの声が、 震えた。
「わ、 私のために……戦ってくれたんですよね……。 わ、 私なんかの、 ために……」
「三枝さん」
僕は、 寝台の上で、 ゆっくりと体を起こした。
脇腹が、 ずきりと痛んだ。
「『なんか』じゃないよ。 三枝さんは、 僕のゼミの仲間だ。
それに、 結界師だ。 あんなふうに、 荷物を背負わされるような人じゃない」
「で、 でも……白峰くん、 負けちゃったから……。 や、 約束も……」
「うん。 ごめん。 僕が、 弱かったから」
三枝さんは、 激しく首を横に振った。
フードが外れて、 涙で濡れた顔が、 月明かりに浮かび上がった。
「ち、 違います……! 謝らないでください……!
わ、 私……私が、 弱いから……! 嫌だって、 言えないから……!」
三枝さんは、 包帯を巻いた両手で、 顔を覆った。
「ご、 合宿所で、 床が光ったとき……
白峰くん、 私の腕を引いてくれましたよね……。
わ、 私、 あのとき、 ずっと、 思ってたんです……。
ど、 どうして、 私なんかを、 って……」
「……」
「き、 昨日、 分かりました……。 白峰くんは、 誰でも、 助けるんだって……。
私だから、 じゃなくて……そこに、 困ってる人がいたら、 誰でも……」
三枝さんは、 顔を覆っていた手を、 ゆっくりと下ろした。
涙で濡れた目が、 僕を見た。
「わ、 私も……そういう人に、 なりたいです……。
せ、 せめて……嫌なことを、 嫌だって、 自分で、 言えるように……」
僕は、 しばらく、 その目を見つめていた。
それから、 静かに、 うなずいた。
「……なれるよ。 三枝さんなら」
「……っ」
「三枝さんの結界、 何度も、 志賀たちを守ってたんだろう? 古賀から、 少しだけ聞いたことがある」
三枝さんは、 驚いたように目を見開いた。
「守れる人は、 強い人だよ。 三枝さんは、 もう、 十分、 強い」
三枝さんの目から、 また、 涙がこぼれた。
けれど、 今度の涙は、 さっきまでとは、 少しだけ違う色をしているように見えた。
「……あ、 ありがとう、 ございます……」
三枝さんは、 何度も、 何度も、 頭を下げた。
それから、 フードをかぶり直して、 寝台から一歩、 離れた。
「わ、 私、 もう、 戻らないと……。 き、 気づかれたら……」
「うん。 気をつけて」
扉に向かいかけた三枝さんが、 ふと、 足を止めた。
振り返らないまま、 小さな声で言った。
「……あ、 あの。 志賀くんが、 明日、 ギルドで、 新しい依頼を受けるそうです……。
王都の東の、 ハルン村っていう村の、 護衛の依頼……。
さ、 最近、 村の近くで、 魔物の群れが目撃されてるって……」
「ハルン村?」
その名前に、 聞き覚えがあった。
どこで聞いたのだったか。
「で、 でも、 志賀くん……報酬が安いって、 文句を言ってて……。
も、 もっといい依頼があったら、 そっちに乗り換えるかもって……」
三枝さんは、 それだけを言い残して、 夜の闇の中へ、 小走りに消えていった。
僕は、 寝台の上で、 しばらく、 その言葉を反芻していた。
ハルン村。
どこで、 聞いたのだったか。
――わたしの故郷は、 王都の東の、 ハルンという小さな村なんです。
両親と、 弟が二人。 みんな、 元気にしているといいのですけれど。
訓練場の出口で、 温かい布を差し出しながら、 リゼさんが、 嬉しそうにそう話していた。
あれは、 いつのことだったろう。
窓の外で、 灯草の花が、 夜風に揺れていた。




