Record: 09「白紙の主人公」
その日の午後、第七窓口の仕事は珍しく少しだけ落ち着いていた。
相変わらず窓口の向こうには、「追放されたが実は最強だった青年」や「実家を勘当された直後に王族の血筋が判明した少女」、「婚約破棄されたものの、実は世界唯一の聖女だった令嬢」といった、どこかで見たような人生設計を抱えたキャラクターたちが列を作っている。
受付嬢たちが慣れた手つきで申請書類を処理し、時折「その古代竜の血統、昨日まではありませんでしたよね?」だの、「『実は最強』の申請は一人につき一属性まででお願いします」だのという声が飛び交う中、セシルの意識だけは目の前の仕事から何度も逸れ、自分の机の端に置かれた一冊の募集要項へ引き寄せられていた。
表紙には、朝から何度見ても変わらない金色の文字で、『新規長編王道ファンタジー・主人公募集要項』と記されている。
念願だった。
物語がエタり、窓際の事務員へ転落してからも、無双おじさんの設定資料をシュレッダーへ送りながらも、一晩かけて異国神話を王道ファンタジーへ魔改造している最中でさえ、心のどこかには「いつか自分は再び勇者へ戻る」という確信だけが残っていた。
だからこそ、その席が本当に目の前へ現れた以上、本来なら迷う理由などひとつもないはずだった。
ところが、いざ契約書へ署名しようと羽根ペンへ手を伸ばすと、どうしても指先が止まる。
「セシル様。先ほどから同じ募集要項を十五回開いて、十五回閉じていますが、十六回目へ突入される場合は、作業効率低下として業務記録へ残してもよろしいでしょうか」
向かいの席で書類を整理していたカノンが、銀縁眼鏡の奥からじっとこちらを見ている。
「人の人生の岐路を業務ログに残すなよ……」
力なく返しながら、セシルは十六回目を開こうとしていた募集要項をそっと机へ戻した。
そこへ、第七窓口の奥から受付嬢が顔を覗かせる。
「セシルさん、局長から伝言です。主人公枠の返答は今日中で構わないそうですよ。『悩むのも主人公らしい成長イベントだから、夕方くらいまでは待つ』とのことです」
「俺の葛藤まで演出扱いしてんのか、あの人……」
額を押さえながら呻いたものの、募集要項を睨み続けていても答えが勝手に浮かんでくるわけではない。
しばらく黙り込んでいたセシルは、やがて何かを思いついたように机の引き出しを開け、そこから真っ白な原稿用紙を一枚取り出した。
「……だったら、自分で書けばいい」
ぽつりと漏れた独り言に、カノンが書類から顔を上げる。
「何をですか」
「俺の物語だよ」
セシルは白紙を机の中央へ置き、羽根ペンを手に取った。
「結局、あの求人票が気持ち悪いのは、他人が決めた『勇者とはこうあるべき』って型に俺を押し込もうとしてるからだろ。だったら簡単じゃないか。俺自身が、俺にふさわしい最高の物語を書けばいい。何しろ俺は、一晩で異国神話を王道ファンタジーへ魔改造した男だぞ。自分一人の物語くらい朝飯前に決まってる」
先ほどまでの煮え切らない態度が嘘のように自信を取り戻したセシルは、羽根ペンの先をインクへ浸すと、白紙の一番上へ堂々と文字を書きつけた。
『第一章 伝説の勇者セシル、旅立つ』
そこまでは、実に滑らかだった。
しかし、その先へ続くはずの二行目を前にして、羽根ペンが完全に止まった。
「…………」
勇者が旅立つこと自体に問題はない。むしろ王道ファンタジーにおいて旅立たない勇者など、セシルに言わせれば勇者ではない。
問題は、その勇者がどこへ向かい、何をするのかである。
「……まずは、行き先だな」
魔王城へ向かう、という案が真っ先に浮かんだ。しかし現在の世界には、都合よく討伐を待ってくれている魔王など存在しない。
ならば王国へ向かい、国王から何らかの依頼を受ければいい。そう考えたところで、今度は何を依頼されるのかという問題が発生する。さらに王道ファンタジーなら仲間も必要だろうと、剣士や魔法使い、僧侶といった定番の役職を頭の中へ並べてみたものの、「では自分はどんな人間と一緒に旅をしたいのか」と考えた瞬間、そこでまた思考が止まった。
「……なんでだよ」
セシルの眉間に、じわじわと深い皺が刻まれていく。
今までなら、物語の形などいくらでも思い描けた。勇者がいて、魔王がいて、仲間と聖剣があり、幾多の苦難を乗り越えた末に世界を救う。そうした王道らしい要素を並べれば、それだけで物語になると思っていた。
ところが、自分自身を主人公へ据えた途端、それら全てが急に借り物のように見えてくる。
セシル自身が何を望み、どこへ行き、誰と出会いたいのかという問いを加えた瞬間、それまで無数に持っていると思っていた物語の引き出しが、驚くほど空っぽだった。
「セシル様」
「言うな」
「まだ何も申し上げておりませんが」
「今のお前の顔、絶対なんか刺す気だっただろ」
「気のせいです」
相変わらず表情一つ変えないカノンから視線を逸らし、セシルは気を取り直して別の書き出しを試す。
『ある日、勇者セシルは一人の少女と出会った』
そこで、また筆が止まった。
少女は誰で、なぜ出会い、どんな理由で旅を共にするのか。考えようとすればするほど、既存の型ばかりが浮かび、その中のどれを自分自身が望んでいるのかだけが分からない。
「以前、申し上げたことを覚えておいでですか」
しばらく彼の苦悩を眺めていたカノンが、静かに口を開いた。
「物語には、データを論理的に並べるだけでは決定的に不足するものがある、と」
その言葉に、セシルは羽根ペンを止めた。
神話デスマーチの最中、カノンは確かにそう言っていた。ありとあらゆる人間的ノイズが混ざってこそ、物語には初めて温度が生まれるのだと。
「セシル様は、勇者という存在について非常に多くの情報を持っています。どのように振る舞うべきか、どんな仲間と旅をし、どのような敵と戦うべきかという知識も、恐らく誰より豊富でしょう」
「お、珍しく褒めてる?」
「まだ途中です」
「やっぱりかよ」
カノンは一切動じず、そのまま続けた。
「ですが、それらの多くは『勇者とはこうあるべき』という外部から与えられた情報です。セシル様ご自身が何を見たいのか、何を嫌い、何に怒り、誰を好きになり、何を守りたいと思うのかという経験は、その中にほとんど含まれていません」
セシルは反射的に言い返そうとして、結局何も言えなかった。
確かに自分は旅をし、仲間と戦い、聖剣を握って魔王討伐を目指した。
だが、それらは全て物語の中であらかじめ用意されていたものだ。作者が決めた道を進み、作者が設定した敵と戦い、作者が用意した仲間と出会い、作者が定めた使命を背負っていた。
そして物語が途絶えた後も、編纂局で与えられた仕事をこなし、局長から神話を書けと言われれば徹夜で書き上げた。
そうやって振り返ってみると、自分で選んだと言えるものが、思っていた以上に少ない。
「……俺、自分の人生なのに、『勇者じゃない俺が何をしたいか』って、何も持ってないじゃん」
ようやく口から出た言葉は、自分で思っていたよりずっと情けない響きを帯びていた。
カノンは否定も慰めもせず、ただ静かにそこにいた。その沈黙が今は妙にありがたく、セシルは椅子の背もたれへ身体を預けながら、何とか「勇者ではない自分」の中から一つくらい何かを探し出そうとする。
「いや、待てよ。俺だってもっとあるだろ。好きなものとか、行きたい場所とか、趣味とか」
「プロテイン」
「それは健康管理」
「鏡を見ること」
「自己確認」
「ご自身の顔を褒めること」
「客観的事実の確認」
カノンがほんの少しだけ目を細めた。
「十分、趣味として成立しているかと」
「うるさいな!」
思わず声を荒らげたものの、そのくだらないやり取りのおかげで張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
セシルは自分でも呆れながら笑い、もう一度白紙へ目を落とす。
「……じゃあ、どうすりゃいいんだよ。俺の物語に必要な『温度』ってやつは、どこで手に入る」
カノンは少し考えるように視線を落とした後、実に単純な答えを返した。
「経験されてはいかがですか。知らない場所へ行き、知らないものを見て、知らない人間と会う。その中で何を感じるかは、役割でも設定でもなく、セシル様自身のものになります」
「……それって、要するに旅に出ろってこと?」
「簡潔に申し上げれば、そうなります」
「随分アナログな解決法だな」
「人間的ノイズを収集する手段としては、極めて効率的です」
「最後までデータ収集みたいに言うのやめろよ」
苦笑しながら、セシルは白紙の上に書かれた『第一章 伝説の勇者セシル、旅立つ』という一文を見つめ直した。
旅立つと書いたのに、行き先は決まっていない。だが、考えてみれば最初から目的地を決めておく必要などないのかもしれない。
王道ファンタジーだから魔王城へ向かうのではなく、何があるのか分からない場所へ自分で行ってみる。
その先で何を見て、誰と出会い、何を好きになり、何に腹を立て、何を守りたいと思うのかを自分自身で確かめ、その経験を後から物語にすればいい。
「……なるほどな。どうせ物語を作るなら、先に俺自身が物語になるような経験をすりゃいいのか」
小さく笑いながら、セシルは机の端に置かれた勇者募集要項へ視線を移した。
長い間、自分が欲し続けてきた未来がそこには書かれている。手を伸ばせば、今すぐかつての自分へ戻ることができる。
それでも今は、全てが決められたその紙より、何ひとつ書かれていない白紙の方が、ほんの少しだけ面白く見えた。
セシルはしばらく二枚の紙を見比べた後、募集要項を静かに閉じる。
「……決めた。勇者枠、断る」
カノンは大きく驚くこともなく、ほんのわずかに目を細めた。
「後悔されませんか」
「するかもしれない。明日の朝になったら、『やっぱり魔王倒してぇぇぇ!』って床を転げ回ってる可能性もある。でも、それでもいい。今度は自分で決める」
セシルは自嘲するように笑いながら、閉じた募集要項を指先で軽く叩いた。
「それに、俺が本当に勇者なら、肩書きなんかなくても、それっぽいことくらいできるだろ」
「非常にセシル様らしい、根拠のない自信ですね」
「褒めてんのか?」
「半分ほど」
「半分しかないのかよ」
いつもの調子で言い返しながら、セシルは机の引き出しから別の紙を一枚取り出した。
今度は原稿用紙ではない。
世界構築編纂局の正式な書式であり、その上部には『退職届』という文字が印刷されている。
物語を失い、役割を失ってからも、自分は勇者へ戻ることだけを考えて生きてきた。けれど今は、それより先に知りたいことがある。
勇者という役割ではなく、セシル・ヴァレンタインという一人の人間が何を見て、何を選び、その先でどんな物語を作るのか。
それを知るためなら、何も書かれていないところから始めるのも悪くない。
セシルは羽根ペンの先を退職届へ触れさせ、ゆっくりと自分の名前を書き始めた。
「……どうせ作るなら、まずは材料集めからだな」
窓の外では、午後の光が少しずつ夕方へ傾き始めている。
行き先も、仲間も、その先で何が起こるのかも決まっていない。今までのセシルなら、そんな筋書きのない物語を「設定不足だ」と鼻で笑っていただろう。
けれど今は、それでいいような気がした。
何しろ、その続きを決めるのはこれからなのだから。




