Record: 08「勇者という名の求人票」
世界構築編纂局の一角にある、小さな休憩室。
窓から差し込む朝の光はまだ柔らかく、古びた木製テーブルの上には、湯気の立つ二つの湯呑と、クラウディアが置いていった見るからに高級そうな胃腸薬の箱が並んでいた。
「いいか、カノン。ほうじ茶ってのはな、ただ茶葉に熱湯をぶっかければ完成ってわけじゃない。香りの立たせ方、蒸らしの時間、湯の温度、その全部が絶妙に噛み合って初めて最高の一杯になる。まあ、俺様クラスになると、顔面だけじゃなく茶の淹れ方まで黄金比を理解してるわけだが」
徹夜明けとは思えないほど得意げな顔で、セシルは完成した一杯をカノンの前へ滑らせた。一晩中、異国神話という名の地獄を駆け抜けた男とは思えない自信である。
対するカノンは、無双おじさんの物語へ派遣された際の中世風の旅装束をまだ身に纏ったまま、立ち上る香りを静かに確かめ、一口だけ飲んだ。
「昨日、私が淹れたものより若干薄いですね」
「初手で師匠越え判定すんなよ!! そこは普通、『さすがセシル様、芳醇な香りと深い味わいが絶品です』くらい言うところだろ!」
「虚偽の賞賛は業務内容に含まれておりません」
「まだその設定続いてんのか!」
カノンは抗議を受け流すように、もう一度ほうじ茶を口へ運んだ。それから少しだけ間を置いて、「ですが、美味しいです」と静かに付け加える。
セシルは一瞬、返す言葉を失った。
昨夜までの彼女なら、味について尋ねても「成分上、飲用に問題ありません」とでも答えていただろう。だが今の一言は、役割として必要な返答でも、誰かに要求された賞賛でもない。ただ彼女自身が感じたことを口にしただけなのだろう。
「……そうかよ」
セシルは照れ隠しのように鼻を鳴らし、自分の湯呑へ口をつけた。確かに少し薄かったが、その事実には気づかなかったことにする。
「それにしても、お前さ。よくあの無双おじさん相手に、あそこまで好き放題言えたな。仮にも『無双の力を授ける流浪の美少女』って役だったんだろ?」
「はい。能力付与と戦闘支援は全て遂行しております。私が拒否したのは役割そのものではなく、そこへ勝手に付随された『何をしても無条件で褒め称えてくれる都合の良い美少女』という人格設定だけです」
「……それ、かなり屁理屈じゃね?」
「合理的解釈です」
あまりにも堂々と言い切るので、セシルは呆れながらも小さく笑った。
昨夜、カノンは何度も役割を書き換えられた末に、自分自身を消してしまえば傷つかずに済むと思ったのだと語った。
ところが今の彼女は、与えられた役割をきちんと果たしながら、その中に自分自身を残している。
「……変わったな、お前」
「そう見えますか」
「昨日までなら、役割上必要だって判断すれば、本当にあのおじさんをチヤホヤしてただろ。感情なんて邪魔だとか言ってさ」
カノンはしばらく答えず、窓の向こうへ視線を向けた。編纂局はすでに朝を迎え、廊下からは始業準備を進める職員たちの足音が微かに聞こえている。
「役割を変えることと、自分自身まで捨てることは、必ずしも同義ではないのだと……少しだけ理解しました。私はヒロインにも、悪役にも、賢者にもなりましたが、そのたびに役柄へ合わせて、自分自身まで別のものへ変えなければならないと思っていました。ですが、何を演じることになったとしても、私が何を感じ、どう考えるかまで手放す必要はなかったのかもしれません」
静かな声だったが、昨日までの完全に無機質な響きとは少し違って聞こえた。
そしてカノンは、銀縁眼鏡の奥からセシルを真っ直ぐに見る。
「セシル様は、私とは逆ですね。私は役割に合わせるため自分を消そうとしていました。一方でセシル様は、物語そのものを失った後も、『勇者である自分』だけは頑なに手放そうとされません」
「悪いかよ。俺は最初から勇者として生まれたんだ。聖剣を持って仲間と旅をし、魔王を倒して世界を救う。それが俺だ」
「悪いとは申し上げていません。ただ、それが『セシル・ヴァレンタイン自身』なのか、それとも『セシル・ヴァレンタインに与えられた役割』なのかは、別の問題かと」
反論しようとして、セシルは言葉に詰まった。
勇者である自分と、勇者ではない自分。そんなものを分けて考えたことなど一度もない。これ以上考えると別の意味で胃が痛くなりそうで、セシルは残ったほうじ茶を飲み干した。
「……朝っぱらから人のアイデンティティを解剖すんなよ。せっかくの茶がまずくなる」
「先ほどは美味しいと申し上げました」
「俺の方の話だ!」
いつもの調子で怒鳴り返した、その時だった。
休憩室の扉が控えめにノックされ、局長付きの事務員が顔を覗かせる。
「セシル様。局長がお呼びです。王道ファンタジーの主人公枠が一件、急遽空いたため、セシル様に最優先でお話したいそうです」
「……王道ファンタジーの、主人公枠?」
その言葉を聞いた瞬間、セシルの碧眼が大きく見開かれた。
物語がエタり、窓際事務員へ転落してからも、心のどこかではずっと、自分がもう一度物語の中心へ戻る日を諦めていなかった。そして今、その席が目の前に現れたのだ。
「来た来た来たァァァ!! ついにこの時が来た!! 世界よ見たか! 王道勇者セシル・ヴァレンタイン、堂々の主人公復帰だ! やはり時代は最後に本物を選ぶんだよ!」
つい先ほどまでのアイデンティティ論は、一瞬で跡形もなく吹き飛んだ。
黄金の髪を華麗にかき上げて扉へ向かうセシルへ、カノンが静かに声をかける。
「セシル様」
「なんだ?」
「おめでとうございます」
その言葉に、セシルはほんの少しだけ目を細めた。
「……おう。行ってくる」
今度こそ本当に、自分の物語が戻ってくる。
そう信じながら、セシルは局長室へ向かった。
***
「いやぁ、実に君向きの案件が来たよ」
レオンハルトは最高級の革張りソファに腰掛け、楽しそうに一冊の分厚い書類をテーブルへ置いた。
表紙には、金色の文字で『新規長編王道ファンタジー・主人公募集要項』と記されている。
「舞台は剣と魔法の大陸。古の魔王が復活し、主人公は伝説の聖剣に選ばれた若き勇者として、仲間たちと共に旅をし、最後には魔王を討ち果たして世界を救う。どうだね、君がずっと望んでいたもの、そのものだろう?」
「……完璧じゃないですか」
聖剣を携え、仲間と旅をし、魔王を倒して世界を救う。それは、セシルが途中で奪われた物語そのものだった。
胸の奥が久しぶりに熱くなるのを感じながら、セシルは募集要項を手に取り、詳しい条件へ目を通していく。
『主人公は常に前向きであり、仲間を疑ってはならない。敵とは正々堂々と戦い、仲間が危機に陥った場合は自身の安全より救助を優先し、勇者として模範的な行動を取ること』
「当然だな。スサノオに百回くらい読ませたい」
勇者とはそういうものだ。満足げに頷きながら先へ進む。
『主人公は明朗快活で、過度な皮肉、愚痴、弱音を発してはならない。また恋愛面では原則として鈍感であり、物語終盤まで特定の相手への明確な恋愛感情を自覚してはならない』
「……恋愛に鈍感なのも契約条件なんですか?」
「王道主人公だからね。読者の期待する振る舞いというものがある」
多少引っ掛かりながらも、セシルはさらに読み進める。
『物語進行上必要と判断された場合、出生、血統、能力、性格、過去の記憶等の設定変更を随時受け入れること。なお、主人公は個人的感情より物語上の使命を優先し、常に勇者として模範的な言動を維持するものとする』
今度は、明確に手が止まった。
「……設定変更って、どの程度です?」
「実は王族だった、魔族の血を引いていた、突然新たな力に覚醒する、性格を多少調整する……連載ではよくある話だろう?」
確かに、編纂局で嫌というほど見てきた。
だが、それを自分が受ける側だと考えた途端、胸の奥に妙な違和感が残った。物語に必要なら昨日まで存在しなかった血統を与えられ、求められる主人公像が変われば性格を調整され、それでも個人的な不満を口にせず、最後まで「勇者」として振る舞い続ける。
そこで不意に、休憩室で聞いたカノンの言葉が蘇った。
『それが「セシル・ヴァレンタイン自身」なのか、それとも「セシル・ヴァレンタインに与えられた役割」なのかは、別の問題かと』
募集要項に書かれている一つ一つの条件は、決しておかしなものではない。仲間を守ることも、正々堂々と戦うことも、セシル自身が理想としてきた勇者の姿だ。
けれど、それを自分で選ぶことと、「そういう人間であれ」と最初から決められていることは、果たして同じなのだろうか。
「……局長。これ、俺じゃなくてもいいんですか?」
レオンハルトは少し意外そうに目を瞬かせた。
「もちろん。この条件に適合し、勇者という役割を問題なく遂行できる人物なら誰でも構わないよ。君は適性が非常に高いから、最優先で声をかけただけだ」
ここは世界構築編纂局なのだから、その答えは当然だった。
それでもセシルには、その言葉が妙に引っ掛かった。
自分が勇者になるのではなく、物語が必要としている「勇者」という形へ、自分が収まる。
昨日までなら気づきもしなかった違いだった。
「……どうしたのかね?」
セシルはもう一度、募集要項へ視線を落とした。
ずっと待ち望んできたものが、確かにそこにある。それなのに今すぐ署名しようとすると、なぜか指が動かなかった。
「少し、考えさせてください」
以前なら最後まで読まずに飛びついていたはずの案件を抱え、セシルは局長室を後にした。
***
第七窓口へ戻ると、カノンはすでにいつもの秘書姿へ着替え、机の上で書類を整理していた。
「お帰りなさいませ。念願の勇者枠はいかがでしたか」
「……完璧だったよ。聖剣もある。魔王もいる。仲間との旅も、世界救済もある。俺がずっと欲しかったものは全部書いてあった」
セシルは自席へ腰を下ろし、募集要項を机へ置いた。
「では、受諾されるのですね」
その問いに、すぐには答えられなかった。
「……それがさ。なんか、気持ち悪かったんだよ」
セシルは椅子の背もたれへ身体を預け、まだ自分でも掴み切れていない感覚を言葉にする。
「俺が勇者になれるっていうより、あいつらが欲しがってる『勇者』っていう型に、俺をそのまま押し込もうとしてるように見えてきた。散々『俺は王道勇者だ』って騒いできたくせに、いざ完璧な勇者役を差し出されたらこれだ。我ながら面倒くせぇよな」
カノンは少しだけ彼を見つめた後、銀縁眼鏡を静かに押し上げた。
「それは、以前の私と似ていますね。求められた役割へ完全に自分を合わせれば、確かに物語には綺麗に収まります。ただ、そのために自分自身まで消してしまえば、そこにいるのが本当に自分なのか分からなくなります」
「……朝から刺してくんなよ」
セシルは額を押さえながら、小さく息を吐いた。
勇者になりたくなくなったわけではない。聖剣を手に仲間と旅をし、世界を救う自分を想像すれば、今でも胸は躍る。
それなのに、用意された勇者の席へ座ることには、なぜか抵抗を感じる。
机の上には、ずっと待ち望んできた勇者の求人票があり、そのすぐ横には、少し冷めてしまった二つのほうじ茶が並んでいた。
昨日までなら、迷う理由など一つもなかったはずだ。
けれど一度その違和感に気づいてしまうと、セシルにはもう、何も考えずその紙へ手を伸ばすことができなくなっていた。




