Record: 07「アイデンティティを持つ駒たち」
局長室。
窓から差し込むうららかな朝の光を全身に浴びながら、レオンハルトは最高級の革張りソファへ深く腰掛け、磁器のカップから立ち上る紅茶の香りを、まるで優雅な休日の始まりでも楽しむかのように静かに嗜んでいた。
一晩中、部下へ国家プロジェクト級の神話をたった一夜で書き上げろという悪魔のデスマーチを強制した張本人とは到底思えない。
そんな優雅な世界へ、まるで地獄の最下層から自力で這い上がってきた死者のような男が足を踏み入れた。
「失礼します……」
ガラガラに枯れ果てた、もはや挨拶というより呪詛に近い声と共に、セシルは重い扉を押し開けた。
両腕には、一晩で書き上げた分厚い原稿の山。
それは仕事の成果物というより、自分自身がこの世に存在していたことを証明する墓標のように見える。
自慢だった黄金の髪は無惨に乱れ、普段なら鏡を見るたび本人が賛美せずにはいられない端正な顔立ちからは完全に血の気が失われ、美しい碧眼の周囲には世界の終焉を予告するような濃い隈が刻まれていた。
「やあ、セシル君。大義であった。急なお願いで悪かったね。君なら必ず納期を『死守』してくれると、私は信じていたよ」
口では「悪かった」などと言っているものの、その顔には反省の色が一切ない。
むしろ、予定通り成果物が届いたことに満足している経営者のそれだった。
セシルでなくとも、この男が昨夜の無茶振りについて微塵も悪いと思っていないことくらい、一目瞭然である。
「……提出物です」
「うむ、ご苦労」
セシルが、この一晩で溜め込んだ怨念ごと叩きつけるように原稿の山をテーブルへ置くと、ズン、と重々しい音が部屋へ響いた。
紙をめくる乾いた音だけが、静かな局長室へ規則正しく響く。
しかし、その場で待たされているセシルにとっては、原稿が一枚めくられるたびに、自分の才能どころか今後の人生そのものまで査定されているような心地しかしない。
「あの、局長」
「ん? 何かね。胃薬なら追加支給を検討してもいいが」
「それもできれば欲しいですけど、違います。……カノンは、どこへ行ったんです」
レオンハルトは原稿から視線を外すと、ほんの一瞬だけ何かを思い出すように窓の外へ目を向けた。
「ああ、カノン君なら、急遽欠員が出た物語へピンチヒッターとして行ってもらったよ。役柄は、主人公へ特殊能力を付与し、戦闘面及び情報面で補助する流浪の美少女だったかな。彼女ほど優秀なら、おじさん一人の支援くらい造作もないだろう」
あまりにも軽い調子だった。
だが、その言葉を聞いたセシルは、すぐには何も返せなかった。
確かに、能力だけを見れば何の心配もない。
だからこそ、引っ掛かった。
夜明け前に聞いた彼女の過去が、嫌でも脳裏へ蘇る。
何を感じても、どう生きたいと願っても、創作者の気紛れひとつで「今日からお前はこういう役だ」と人格そのものを書き換えられ、そのたびに自分自身を削り取られてきた少女。
優秀だからこそ、どんな役も完璧に演じられてしまう。
そのことが、今のセシルにはかえって不穏に思えた。
「……そうですか」
結局、それ以上は何も言わなかった。
セシルが踵を返そうとした、その時。
「セシル君」
背後から呼び止められ、肩が反射的にビクリと跳ねた。
身構えながら恐る恐る振り返ると、意外にもレオンハルトは原稿の束を手にしたまま、満足げに目を細めていた。
「この話だが、設定や神話のデータだけなら、カノン君一人でも整理できただろう。しかし、綺麗に並べられた情報だけでは、人の心を動かす物語にはならない」
レオンハルトは数枚の原稿を軽く持ち上げる。
「そこへ君の『心の痛み(笑)』や『生への執念(笑)』が混ざったことで、作品に妙な温度が生まれた。やはり人間というものは、適度に追い詰められると良いものを書くね」
「いやその(笑)、絶対バカにしてんだろ!!」
レオンハルトはそんな部下の悲痛な訴えなど気にも留めず、爽やかに親指を立てた。
これ以上この男と同じ空間にいると、今度こそ物理的に胃壁が消滅する。
そう判断したセシルは、残った力を振り絞って最敬礼に近い一礼をすると、逃げるように局長室を後にした。
***
重い扉が背後で閉じた瞬間、セシルは肺の奥に溜め込んでいた息を一気に吐き出した。
廊下の窓から差し込む朝日は妙に眩しく、一晩中魔導ランプの下で原稿用紙と睨み合っていた目には、世界そのものが無駄に明るすぎるように感じられる。
「……終わった」
少なくとも今日から、無双おじさんの背後を歩いた挙げ句、第一話三ページ目でゴブリンに頭を殴られて死ぬ「青年その一」へ強制転職させられることはない。
本来なら、その場で床へ倒れ込み、そのまま十二時間ほど誰にも起こされず眠り続けたいところだった。
だが、不思議なことに足は宿舎でも休憩室でもなく、自然と第七窓口の方角へ向かっていた。
カノンのことが気になっている。
能力だけを見れば何の心配もない。
それでも、夜明け前に見たサファイア色の瞳の揺らぎを思い出すたび、胸の奥へ刺さった小さな棘が、どうにも抜けなかった。
「……何が『感情を捨てるのが合理的』だよ」
誰に聞かせるでもなく、セシルが小さく吐き捨てた。
そして、その直後だった。
「チェンジでえぇぇぇぇ!!」
編纂局の頑丈な窓ガラスまで震わせるほどの絶叫が、朝の廊下へ轟いた。
「……まさか」
猛烈に嫌な予感を覚えながら第七窓口へ足を速めると、その予感は見事に的中していた。
受付カウンターへ縋りつき、顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら訴えているのは、例の無双おじさんである。
「この娘だよ! なんなんだよ! 俺に無双パワーを授けてくれる、優しくて都合の良い美少女だって聞いてたのに、全然違うじゃないか!」
窓口の受付嬢は、あまりにも規定外の苦情を前にして、どう処理すればいいのか分からないといった顔で何度も瞬きをしていた。
「ええと……設定資料には、『主人公へ特殊能力を付与し、戦闘面及び情報面で補助する流浪の美少女』とございますが……」
「だから普通はチヤホヤしてくれるだろ!? 俺が敵を倒したら『すごーい!』って抱きついて、ちょっとピンチになったら『おじさまなら絶対勝てます!』って励まして、最後は俺の強さに惚れる感じのやつだよ!」
そして、その無双おじさんの背後に、一人の少女が立っていた。
その背筋の伸び方。
完璧な無表情。
そして銀縁眼鏡の奥から相手の矛盾を一切の慈悲なく射抜く、サファイア色の瞳。
セシルは、その気配を一晩中嫌というほど浴び続けていた。
「カノン……」
思わず名前が漏れた。
しかしカノンは、騒ぎ立てるおじさんを前にしても眉一つ動かさず、いつものように静かに眼鏡の位置を直した。
「そうは仰いましても、無能……失礼、無双おじさま」
「今、無能って言ったろ!? 絶対言ったよな!?」
おじさんの抗議など、カノンには春先を吹くそよ風ほどの効果もなかった。
「では改めて確認いたしますが、お客様は全能力値最大、作者の願望を限界まで圧縮した極めて恵まれた初期設定を与えられております。それにもかかわらず、先ほど最低危険度に分類される初級魔獣三体を相手に苦戦された原因について、ご自身ではどのように分析されていますか」
「……聖剣が手に馴染まなくて」
「お客様ご自身の設定資料に、『聖剣とは魂で結ばれており、初めて握った瞬間から手足のように操れる』と明記されています」
一瞬で逃げ道が消えた。
おじさんは何か次の言い訳を探すように目を泳がせたが、カノンの方はすでに次の資料へ視線を落としている。
セシルも思わず口元を押さえた。
他人事だから笑えるのであって、昨日一晩この女の正論砲を至近距離から浴び続けた身としては、おじさんへほんの一ミリ程度の同情を覚えなくもない。
「努力も工夫もせず、最初から与えられた最大能力を力任せに振り回して腰を痛めた人物に対し、私は何を根拠に賞賛すればよろしいのでしょうか。虚偽データの出力は、私の主義に反します」
「うわあああん!」
ついに無双おじさんは、その場へ崩れ落ちた。
昨日のクラウディアとはまた種類の違うローリングが始まり、受付嬢が完全に対応を見失っている。
「もっと優しい美少女にチェンジしてよぉぉ! エルフとか! チョロくて健気で俺のこと大好きなエルフ!」
「何の下積みもないアラフォー無職男性の前に、理由もなく絶世の美少女エルフが出現し、出会った直後から無条件で好意を寄せる確率は、私の統計上ほぼゼロです」
カノンは、そこでわずかにおじさんを見下ろした。
完全に心をへし折られた無双おじさんは、受付嬢が止める間もなく立ち上がると、第七窓口から脱兎のごとく逃げ出していった。
嵐の後のような静寂が訪れる。
受付嬢はしばらく呆然と無双おじさんが消えた方向を眺めていたが、やがて我に返り、カノンへ恐る恐る声をかけた。
「あの……カノンさん。一応確認なんですが、能力付与と戦闘支援自体は、ちゃんとしてくださったんですよね?」
「はい。契約項目は全て履行済みです。特殊能力の付与、戦闘時の情報提供、危険回避に必要な助言については、規定以上の精度で実施しました」
受付嬢は何とも言えない顔で書類を確認し、しばらく迷った末、最終的には規定通り処理するしかないと判断したらしい。
ポン、と乾いた音を立てて、書類へ「契約履行済」の判が押された。
その音を聞きながら、セシルはようやく理解した。
カノンは、与えられた役割そのものを拒絶したわけではない。
だが、その役割と一緒に周囲が勝手に押しつけてくる、「主人公にとって都合の良い人格」まで引き受けることは拒んだ。
与えられた仕事は果たす。
必要な役も演じる。
それでも、自分が何を考え、何を言い、どこまでを受け入れるのかまで、他人に決めさせる必要はない。
(……あいつ、感情を殺した便利なAIになるのをやめたんだな)
そのことに気づいた瞬間、セシルの胸の奥へ引っ掛かっていた小さな棘が、ようやく少しだけ抜けた気がした。
役割が変わっても、自分自身まで変える必要はない。
与えられた物語の中で、自分がどう振る舞うかくらいは、自分で決めてもいい。
それはきっと、物語そのものを失った後も「俺は勇者だ」と言い張り続けているセシルとは正反対の場所から始まった、カノンなりの泥臭い悪足掻きなのだろう。
「……やるじゃん」
思わず漏れた声に気づいたのか、カノンがこちらを振り返った。
その表情は相変わらず無愛想で、たった今、一人の中年男性の自己肯定感を完膚なきまでに粉砕した人間とは思えないほど静かだった。
「セシル様。提出は完了されたのですか」
「おう。局長から『俺の人間的ノイズが作品に最高の温度を与えた』って、ほぼ満点みたいな評価を貰った。つまり俺様の才能が、国家プロジェクト級の神話を救ったわけだ」
「都合よく要約されましたね。原稿の基礎データは、ほぼ私が提供したものですが」
「そこは今言わなくていいだろ!?」
ほんの少し前まで心配していた相手に、一瞬でいつもの調子へ引き戻された。
セシルは呆れたように息を吐き、自分のデスクへ置かれていた、クラウディアから貰った高級胃腸薬の箱を一つ掴んだ。
そして徹夜明けの重い身体をどうにか動かし、カノンの隣へ並ぶ。
「おい、カノン。ちょっと休憩にしよう」
「休憩、ですか」
「そうだ。一晩中神話を捏造させられた元勇者の俺様が、直々に美味いほうじ茶の淹れ方を教えてやるよ」
昨夜、自分が倒れそうになった時に、彼女が何も言わず差し出してくれた一杯。
その借りを返すくらいなら、今の自分にもできる。
カノンは一瞬だけセシルを見つめた。
銀縁眼鏡の奥にあるサファイア色の瞳が、窓から差し込む朝の光を受けて、ほんの少しだけ柔らかく揺れる。
「……では、ご教授願います。セシル様」
その声は、相変わらず淡々としていた。
けれど、昨夜までの完全に無機質だった響きとは、ほんの少しだけ違って聞こえた。




