Record: 06「ギャンブル狂の女神の再就職」
セシルの問いに、カノンはすぐには答えなかった。
夜明け前の静かな事務室で、二人の間に置かれた湯呑から、ほうじ茶の湯気だけが細く立ち上っている。
しばらくその琥珀色の液面を見つめた後、カノンはそれまで一度として崩したことのなかった完璧な姿勢を、ほんのわずかに緩めた。
そして、華奢な指先で、自身の顔の一部と化していた銀縁眼鏡を静かに外す。
レンズの向こうから現れたのは、サファイアそのものの美しさを湛えた深い青色の瞳だった。
そこには、普段の冷徹な事務声や無表情からは決して窺い知ることのできない、深海の底に静かに沈殿したような哀愁が揺らめいていた。
「私はかつて、超大作SFのヒロインに抜擢されていました」
カノンは、どこか遠いものを見るように朝焼け前の窓へ視線を向けた。
「セシル様のようなハイスペック男子の主人公と恋に落ち、その後、宇宙の彼方へ新しい可能性を求めて旅立つ。それが、私に与えられていたはずのフィナーレです」
眼鏡を包む指先へ、わずかに力がこもる。
大げさな感情表現ではなかったが、機械のように正確で、一切の揺らぎを見せないカノンが初めて見せた小さな緊張だった。
「しかし、創作者の作風変更によって、その未来は跡形もなく消えました。私は未来を憂いて世界を破壊する悪の化身へと書き換えられ、さらに方針が変わると、今度は世界の歴史を感情なく観測し続ける、AIのような賢者へと再設定されました」
淡々と語られるその遍歴は、むしろ感情を抑えているからこそ重かった。
主人公を愛するヒロインから、世界を滅ぼす敵へ。
そして最後には、何も愛さず、何も憎まず、ただ世界の歴史だけを見届ける観察者へ。
役割が変わるたびに、求められる言葉も、表情も、思想も、その人物らしさそのものまで、別人のように塗り替えられてきたのだろう。
「……創作者の気分に振り回されるのは、キャラクターあるあるではあるな」
セシルは両手で包んだ湯呑を見つめながら、自嘲気味に口元を歪めた。
「俺も世界を救うはずだった勇者から、今じゃおじさんの設定資料を裁断する係だ。立場を失う気持ちくらいなら、多少は分かる」
だが、自分の場合は物語そのものを失っただけだ。
勇者として生まれ、その役割を奪われた自分。
役割が変わるたびに、自分自身まで作り替えられてきたカノン。
似ているようで、決定的に違う。
その違いを思うと、セシルはそれ以上、軽々しく「分かる」などとは言えなかった。
カノンは外した眼鏡のレンズを布でゆっくりと拭きながら、窓の向こうに広がり始めた薄明るい空へ視線を向けた。
「彼らにとって、私たちは脳内を駆け巡る駒なのでしょう。生命を与えられたキャラクターが、物語の中で何を見て、何を感じ、役割を変えられるたびに何を失うのか。そこまで考える必要はないのかもしれません」
声はいつも通り静かだった。
だが、それは感情がないから静かなのではなく、感情を何度も押し殺した末に辿り着いた静けさにも聞こえた。
「だから私は、考えることをやめました。与えられた役割を処理し、必要とされたデータだけを返し、何を演じろと言われても疑問を持たない。それが最も合理的ですし、傷つかずに済みます」
拭き終えた眼鏡を再び顔へ戻す。
銀縁の向こうへ収まったサファイアの瞳には、いつもの冷静さが戻っていた。
だが、完全に元通りではなかった。
先ほどまでにはなかった、ほんのわずかな熱が残っている。
「……ですが、セシル様は、作者に捨てられ、窓際へ追いやられ、胃を壊し、それでも未だに自分が勇者であることを諦めていません」
「途中の情報いらなくない?」
「事実です」
「知ってるよ」
いつものやり取りが戻り、セシルは疲れ切った顔でわずかに苦笑した。
カノンもまた、ほんの少しだけ瞳を細める。
「その泥臭い悪足掻きを見ていると、全てを諦めて感情を切り捨てることだけが、必ずしも合理的とは限らないのかもしれない……そう思いました」
「……え?」
セシルが顔を上げる。
カノンはそれ以上説明しなかった。
ただ、静かに立ち上がると、徹夜作業の後とは思えないほど整った所作で、机の上に散らばった資料を一枚ずつ揃えていく。
「短いお時間でしたが、共にお仕事をできたこと、感謝申し上げます。セシル様」
「なんだよ、急に改まって」
カノンは答えず、そのまま事務室の出口へ向かった。
扉の前で一度だけ立ち止まり、振り返る。
そして秘書としてというより、一人の少女として、これまでで最も丁寧に頭を下げた。
「では、失礼いたします」
「おい、カノン……?」
セシルが呼び止めるよりも早く、扉は静かな音を立てて閉じた。
残されたのは、夜明けの光が差し込み始めた事務室と、血と涙と胃痛の結晶である原稿の山。
そして、セシルの手元に残された、まだほのかに温かいほうじ茶だけだった。
***
その後、セシルは机へ突っ伏したまま、ほとんど気を失うように短い眠りへ落ちた。
徹夜明けの身体がようやく手にした休息ではあったが、納期までの残り時間を考えれば、許されたのはせいぜい一時間程度でしかない。
意識を失った瞬間から、身体はまるで死体のように動かなくなった。
──そして、その束の間の静寂も。
鼓膜を破壊しかねない聞き覚えのある絶叫によって、あっけなく終了した。
「セーシルぅぅぅぅ!!」
「う……この声は……」
鉛のように重い瞼をどうにか押し上げる。
ぼやけた視界の向こうで、やたらと派手な深紅と漆黒が揺れていた。
「オーッホッホッホッホ!! さあ、よくってよ! このあたくし、クラウディア・ラ・フォンティーヌの華麗なる再誕を、その疲れ切った両目にしっかり焼き付けなさい!」
「…………誰?」
寝起きのセシルから出てきたのは、あまりにも素直な反応だった。
「誰って、あたしよ!」
「いや、顔は分かりますよ。後半の名前、昨日まで存在してなかっただろ」
そこに立っていたのは、昨日まで神々しい天女の装いを身に纏っていた元・最高位女神クラウディアだった。
ただし、現在の姿に神聖さの欠片はない。
深紅と漆黒を基調とした豪華絢爛なドレスには、フリルとトゲと宝石が節操なく盛られ、美しい銀髪は見事な縦ロールへと変貌している。
「悪役令嬢になるんだから、格式ある家名くらい必要でしょ? だから今日からクラウディア・ラ・フォンティーヌよ。どう? 高貴で、妖艶で、なんかこう、領地に薔薇園とかありそうで最高じゃない?」
「設定を現地調達すんなよ!!」
つい一秒前まで半分寝ていたセシルの意識が、一瞬で現世へ引き戻された。
「しかも『ラ・フォンティーヌ』って何なんですか。フォンティーヌ家どこにあるんだよ!」
「今作った!」
「家系図から捏造すんな!!」
クラウディアはセシルの抗議など一切気にすることなく、これ見よがしに両手を広げ、その場でくるくると回ってみせた。
「でも見てよ、この衣装! 最高じゃない!? この圧倒的な悪役令嬢感! これなら再就職窓口でも一発合格間違いなしでしょ。ほら、もっと褒め称えていいのよ!」
一晩中、日本神話という名の地獄と戦い続けた直後のセシルに、その高カロリーな光景はあまりにも眩しすぎた。
「クラウディア・ラ・フォンティーヌさん……その衣装、どうしたんです」
「おっ、ちゃんと呼んだ!」
「もう訂正する気力がないだけです」
昨日の時点で、彼女にそんな豪華な衣装を買える財力などなかったはずだ。
その疑問を口にすると、クラウディアは待ってましたとばかりに胸を張った。
「ほら、この間セシルが貸してくれたお金! あれで万馬券当てちゃったの! しかもその後もスロットとパチンコが大当たりでさぁ! もう軍資金が増える増える!」
「……は?」
セシルの眠気が、今度こそ完全に吹き飛んだ。
昨日、手取り十五万の薄給から泣く泣くプロテイン代を削り、「地球がひっくり返っても最後だからな」と念を押して貸した数枚の金貨。
村人Aとして再出発するための「布の服」を買えと渡した血銭が、よりによって競馬とパチンコとスロットを経由し、この悪趣味な豪華ドレスと架空の家名へと錬金されている。
「しかも全部当てたんですか……?」
「全部!」
「……神の加護をそこに使うなよ」
「細かいこと気にしないの! あたし、今日からこの格好で悪役令嬢としてバズり散らかしてくるから!」
クラウディア・ラ・フォンティーヌを自称する元女神は満面の笑みを浮かべると、ふと思い出したように懐へ手を入れ、見るからに高級そうな箱をセシルの机へドンと置いた。
「あと、これお礼! 一晩中仕事してるって聞いたから、セシルには絶対必要でしょ?」
中身は、海外製の高級胃腸薬だった。
セシルはしばらく無言でそれを見つめた。
貸した金をギャンブルにつぎ込んだことを怒るべきなのか。
一応その金を増やして帰ってきたことを評価するべきなのか。
礼として、自分の弱点をあまりにも的確に突く胃腸薬を選んできた点に複雑な感謝を抱くべきなのか。
そもそも、今日から突然生えてきたフォンティーヌ家について問い詰めるべきなのか。
判断するだけの脳細胞が、今のセシルには残されていなかった。
「じゃ、あたし再就職窓口行ってくるね! オーッホッホッホッホ!! 覚えておきなさい、今日からあたしはクラウディア・ラ・フォンティーヌよ!」
「絶対その名前、明日には飽きてるだろ……」
高笑いと共にフリルの裾を翻し、クラウディアは廊下の向こうへ消えていった。
嵐が過ぎ去った後のような静けさだけが残る。
セシルは机の上へ置かれた高級胃腸薬の箱をしばらく見つめ、それから深く息を吐いた。
「いいよな……アイデンティティがない奴って。家名までその場で生やして、ああも簡単に自分の生き方を変えられて」
女神から悪役令嬢へ。
そのために必要なら、衣装も口調も苗字さえも、自分の都合に合わせて簡単に作り替える。
本人には迷いらしい迷いがない。
昨日まで最高位女神だったことも、今日から悪役令嬢になろうとしていることも、クラウディア本人にとっては服を着替えるのと同じくらい軽いことのように見えた。
セシルには、それが理解できなかった。
自分にとって勇者とは、流行や職種ではない。
セシル・ヴァレンタインという存在そのものだ。
「俺には無理だな……」
給湯室の冷蔵庫へ放り込んであった栄養ゼリーを取り出し、半ば無意識に口へ流し込む。
人工的な甘さが、疲弊し切った五臓六腑へぼんやりと染み込んでいった。
その時、ふと夜明け前の光景が脳裏をよぎる。
静かに眼鏡を外したカノン。
何度も役割を書き換えられ、最後には感情そのものを捨てることを選んだ少女。
そして別れ際に見せた、ほんのわずかな瞳の揺らぎ。
「……カノン、あいつ大丈夫かな」
独り言のように呟いた。
全てを諦め、何を与えられても淡々と処理することが最も合理的だと語っていた彼女が、自分の悪足掻きを見て何かを考え直そうとしていた。
それが良い方向へ転ぶのか、悪い方向へ転ぶのか。
今のセシルには分からない。
ただ、不思議と胸の奥へ引っ掛かっている。
「……チッ。人の心配してる余裕なんてないっての」
セシルは自分へ言い聞かせるように首を振った。
机の上には、一晩の血と涙と胃痛によって積み上げられた、膨大な原稿の山が残されている。
これを納期までに局長へ提出しなければ、自分の明日は本当にゴブリンの棍棒の下だ。
眠気も、胃痛も、カノンへの妙な引っ掛かりも。
今は全部後回しにするしかない。
セシルはこめかみに残る鈍い痛みを指先で押さえながら、原稿の束を両腕で抱え上げた。
ずっしりとした紙の重みが腕へ食い込む。
それはそのまま、自分がこの一晩を生き延びるために費やした執念の重さにも感じられた。
「……よし。まずは俺が生き残ってからだ」
疲労で崩れかけた顔面をどうにか引き締める。
そしてセシルは、もう一度だけ社畜の仮面を被り直すと、全ての元凶たるレオンハルトの待つ局長室へ向かって歩き出した。




