Record: 05「最高神による合法的カツアゲ」
窓の外は、すでに完全な漆黒の闇へと沈んでいた。
昼間は無数の職員たちが行き交い、書類と怒号と問い合わせが飛び交っていた空間も、今では嘘のように静まり返り、その片隅にある一つの机だけが、まるで世界の終末まで働かされる呪われた祭壇のように浮かび上がっていた。
そして、その祭壇へ捧げられている生贄こそ、かつて王道ファンタジーの主人公候補として生まれた男、セシル・ヴァレンタインである。
自慢の金髪は、何時間にも及ぶ徹夜作業の末に鳥の巣のように乱れ、美しい黄金比を誇っていた端正な顔立ちは、寝不足と胃痛によって幽鬼のように青白くなっている。
「終わった……。オロチ討伐、クシナダヒメとの極上ハッピーエンドまで、全部完璧な王道英雄譚として美化してやったぞ……! これでようやく、俺の最終決戦も閉幕──」
「お疲れ様です、セシル様。ただし、非常に残念なお知らせがございます」
達成感に浸りながら椅子へ身体を預けかけたセシルの言葉を、カノンは懐中時計へ視線を落としたまま淡々と遮った。
髪一本乱れていないその姿を見ていると、同じ一晩を過ごしてきたはずなのに、自分だけが時間という名の大型魔獣に踏み潰されているような理不尽さすら感じる。
「神話全体のボリュームは、まだおよそ三分の一が残っています。ここから主人公をスサノオの子孫であるオオクニヌシへと交代し、最終章・国譲り編へ移行します」
「……主人公交代? まだ続くのか?」
セシルの口から零れた声には、もはや驚きよりも恐怖が混ざっていた。
これ以上、一体何を要求されるというのか。
そんなセシルの淡い希望など知ったことではないと言わんばかりに、カノンは次なる主人公のデータを静かに出力し始めた。
「オオクニヌシは、因幡の白兎を助けるほど心優しい青年です。しかし、その善良さと将来性が災いし、実の兄弟たちから激しい嫉妬を受け、物語の序盤で二度ほど殺害されています。一度目は真っ赤に焼いた巨大な岩を獲物だと騙されて受け止めさせられ、そのまま焼死。母親の力で蘇生した後、二度目は大木の裂け目へ誘い込まれ、そのまま挟み潰されて圧死しております」
「……ちょっと待て。『心優しい青年です』から『実の兄弟に二回殺されます』までの落差が大きすぎるだろ。優しさの代償が命二個分って、どんな家庭環境なんだよ」
セシルは両手で顔を覆った。
ただ兎を助けただけの青年が、なぜ身内から二度も惨殺されなければならないのか。
しかも、そのたびに母親の力によって復活しているというのだから、悲劇の英雄譚というより、完全に残機制のアクションゲームである。
「なお、二度とも母親側の助力によって復帰しておりますので、現代風に分類するなら『実家が太いタイプの勝ち組ゾンビ』です」
「言い方ァ!」
心優しい青年の悲劇が、カノンの口を通った瞬間に資産背景の強いアンデッドへ変換された。
セシルは苦悶の表情を浮かべながらも、渋々羽根ペンを取り直す。
「……書き直す。『邪悪なる巨人の呪いによって二度も死の淵へ追いやられながら、聖母の祈りによって奇跡の復活を遂げた、不屈の魂を持つ若き英雄』……よし。これなら読者も引かない」
原典から実の兄弟を消した。
もはや躊躇はなかった。
「で、その不屈の英雄は、兄弟から逃げた後どうするんだ?」
「ご先祖にあたるスサノオのもとへ身を寄せます。かつてギャン泣きしながら世界規模の環境破壊を起こし、追放先では怪獣を酒で酔い潰して寝込みを襲ったスサノオですが、この場面では威厳ある先代英雄として登場します」
その説明を聞いた途端、死にかけていたセシルの目へ、ほんのわずかに希望が戻った。
若い頃には問題ばかり起こしていた男が、長い年月を経て成長し、今度は次代の主人公を導く側へ回る。
ここまで原典に何度も裏切られ続けてきたセシルにとって、その展開はようやく神話側から差し出された小さな慈悲にさえ思えた。
「いいじゃないか。かつての主人公が、今度は後進を導く師となる。これは熱い師弟展開だろ」
「いいえ。スサノオは初対面のオオクニヌシをあまり気に入らず、まず蛇だらけの部屋へ放り込み、次にムカデや蜂のいる部屋へ入れ、さらに野原へ矢を探しに行かせた隙を見計らって周囲へ火を放ちます」
セシルの中で完成しかけていた「老いた英雄と若き後継者による感動の師弟物語」が、音を立てて崩れ落ちた。
「……それ、師匠の試練じゃなくて普通に殺人未遂だよな?」
「結果として、オオクニヌシはスサノオの娘と、たまたま現場にいたネズミの支援によって生還します」
もはや怒鳴る気力すら少しずつ削られ始めていた。
ここまで来ると、神話の登場人物が自分の思い描く王道展開を避けるため、わざと逆方向へ走っているのではないかとすら思えてくる。
「最終的にオオクニヌシは、眠っているスサノオの長い髪を部屋の柱へ厳重に結びつけ、その隙に貴重な武器とスサノオの娘を連れて逃走します。目覚めたスサノオは当然激怒し、柱を引き倒しながら追跡しますが、世界の境界で足を止め、逃げていくオオクニヌシへ『その武器で兄弟たちを倒し、お前が国の王になれ』と叫びます」
セシルはしばらく黙り込み、頭の中で今聞かされた一連の出来事を整理した。
「……そこだけ聞くと、立派な先代英雄みたいなんだよな。最初から普通に認めてやればよかっただろ」
「いわゆるツンデレ構造です」
「何千年前から存在してるんだ、その属性……」
深いため息を吐きながらも、セシルはすでに頭の中で改変作業を始めていた。
事実を見れば見るほど罪状が増えていくのに、セシルの羽根ペンを通れば、それらは全て「英雄の成長」と「師から弟子への継承」に姿を変えていく。
もはや原典の面影は、遠い彼方へ消えつつあった。
「……よし。これなら師弟ものとして通る。あとは国を作って、平和に暮らして、今度こそ本当にハッピーエンドだろ?」
セシルは、ほとんど祈るような眼差しでカノンを見つめた。
「頼む。もう終わりと言ってくれ」
「はい。いよいよ感動のグランドフィナーレです」
その言葉を聞いた瞬間、セシルの全身から張り詰めていた力が抜けた。
神々の家庭内暴力を美化し、怪獣の暗殺を自己犠牲へ変換し、兄弟による殺人事件を邪悪な巨人の呪いへ改変し、とうとう師匠による殺人未遂まで美しい継承の物語に仕立て上げた。
ここまで来れば、もう終わっていい。
いや、終わってくれなければ困る。
しかし、その安堵を粉々にするには、カノンの次の一言だけで十分だった。
「苦難の末にオオクニヌシが完成させた地上の国を見た天界の最高神アマテラスが、『あの国、なかなか良い感じに発展しているので、うちの一族のものにしましょう』という方針を打ち出します」
セシルの顔から、安堵が消えた。
「……待て」
「その後、天界から何度か使者を派遣しますが、途中で現地側へ寝返る者も出たため、最終的にはかなり強そうな軍神を送り込み、事実上の圧力交渉へ移行します」
ほんの数秒前まで「感動のグランドフィナーレ」という言葉から、平和な国、笑顔の民衆、穏やかに空を見上げる英雄といった美しい終幕を想像していたセシルの脳内へ、なぜか武装した神々がずらりと並び始めた。
「……それ、交渉というより、武力を背景にした国家単位の恫喝じゃないのか?」
「現代的に要約すれば、合法的カツアゲに近い構造ですね」
深夜の事務室へ、完全な沈黙が落ちた。
セシルは何も言えず、ただ目の前の原稿用紙を見つめていた。
一晩かけてここまで聞かされ続けた結果、セシルの中にあった「神とは高潔で崇高な存在である」というイメージは、もはや跡形もなく粉砕されていた。
彼はゆっくりと天井を仰いだ。
「……この神話、誰か一人くらい普通の奴はいないのか?」
「因幡の白兎は比較的まともです」
「神じゃなくて兎しか残ってないじゃねえか!!」
限界を迎えた絶叫が、深夜の編纂局へ盛大に響き渡った。
しかし、悲劇はまだ終わらない。
「国譲りの最終局面において、オオクニヌシは国を譲ることへ同意します。その代わり、自身を祀る壮大な神殿の建立を求め、物語としては国譲りが成立する形で決着します」
カノンの説明を聞きながら、セシルは力なく机へ肘をついた。
「全面降伏じゃねえか……」
「比較的流血の少ない形で決着した点は評価できます」
「軍神送り込んだ後に言う台詞じゃないだろ!」
カノンはそこで、何事もなかったかのように懐中時計へ視線を落とした。
針は、当然ながらセシルの絶望など待ってはくれない。
「セシル様。納期まで、残り数時間です。早急にこの『武力を背景とした全面降伏型国家乗っ取りエンド』を、全読者が涙する感動のグランドフィナーレへ美化してください。あなたが明日の朝から『噛ませ犬の青年その一』へ配属されずに済むルートは、それしかありません」
「どいつもこいつも理不尽すぎるわぁぁぁ!! アマテラスもスサノオもオオクニヌシも、少しは王道勇者である俺様の爪の垢を煎じて飲めぇぇぇ!!」
悲鳴を上げながらも、セシルの右手は止まらなかった。
国譲りは、『地上の王が、天と地の永遠の平和を願い、自ら築き上げた王国を次代の神々へ託す』という、全読者の涙腺を狙い撃ちする自己犠牲の決断へ。
巨大な神殿の建立もまた、『偉大なる王がこの世を去った後も、その魂と功績を永遠に称え続けるために築かれた聖域』へと姿を変えていった。
軍事圧力も、国家譲渡も、全面降伏も消えた。
残ったのは、世界の未来を想い、自ら王座を手放した孤高の英雄だけである。
「……よし。これなら奪われたんじゃない。自分の意志で未来へ託したんだ……。美しい……完璧だ……!」
もはや歴史を改変しているという罪悪感すらない。
そんなセシルの横から、カノンが完成した原稿を静かに覗き込んだ。
「すでに歴史改竄への心理的抵抗が消失していますね」
「成長みたいに言うな!!」
こうして、手取り十五万の元勇者による『神話デスマーチ』は、ようやく本当の最終局面へ突入した。
***
やがて、窓の外がゆっくりと白み始めた。
濃紺の夜闇が少しずつ淡い灰色へ変わり、その向こうから朝の気配が滲み始める頃、セシルはようやく最後の一行を書き終えた。
これまで何時間も握り締め続けていた羽根ペンが、力の抜けた指先から滑り落ち、乾いた音を立てて机の上へ転がる。
「…………終わった」
それ以上の言葉は出なかった。
セシルは糸の切れた人形のように椅子の背もたれへ身体を預け、しばらく天井を見つめ続けた。
「う、うう……。俺の胃が……。あと俺様の顔面の黄金比が、一晩で三パーセントくらい崩れた気がする……」
もはや誰に訴えるでもない弱々しい呻き声が、静かな事務室へ落ちた。
その時だった。
トン、と、机の上で小さな音がした。
セシルが重い瞼を持ち上げると、目の前には湯気の立つ温かな湯呑が置かれている。
琥珀色の液面から立ち上る香ばしい茶葉の匂いが、インクと紙と徹夜の空気に満たされていた鼻腔を、思いがけないほど優しくくすぐった。
「……なんだ、これ」
「ほうじ茶です。異国の神話を一晩かけて好き放題改竄した記念に、せめて現地文化へ最低限の敬意を払おうかと思いまして」
「その言い方だと俺たち、完全に文化破壊者じゃねぇか……」
「事実です」
「そこは否定してくれよ」
いつもならもう一言くらい言い返していたかもしれないが、今のセシルにはその体力すら残っていなかった。
彼は差し出された湯呑を素直に両手で受け取り、恐る恐る口元へ運ぶ。
一口含むと、香ばしい風味と柔らかな苦味が舌に広がり、熱い茶が荒れ切った喉をゆっくりと通り抜けていった。その温度が、夜通し胃痛と緊張で冷えきっていた身体の内側へ染み込んでいくにつれて、何時間も張り詰めていた神経が、ようやく少しだけ緩んでいく。
「……うまいな」
「それは何よりです」
それだけの短いやり取りだった。
だが、一晩中ずっと続いていた怒号とツッコミと羽根ペンの音が止んだ今、二人の間を流れる沈黙は、不思議と居心地の悪いものではなかった。
セシルは湯呑を両手で包み込んだまま、対面に座るカノンをぼんやりと眺める。
眠そうな顔ひとつ見せず、愚痴ひとつ零さず、セシルが原稿に詰まれば必要な情報を補い、絶望して手を止めれば現実を突きつけ、そして全てが終わった今になって、何も言わず温かい茶を置いた。
合理性だけで動く人間にしては、少しだけ妙な行動だった。
セシルは湯呑越しに、銀縁眼鏡の向こうにあるサファイア色の瞳を見つめた。
「……なあ、カノン」
「何でしょう」
「あんたも、ここへ来る前は何かの物語にいたんだろ?」
問いかけた瞬間、湯呑へ伸びかけていたカノンの指先が、ほんのわずかに止まった。
それは注意していなければ見落としてしまうほど小さな変化だった。
セシルはそれに気づいたが、あえて触れずに言葉を続ける。
「それだけの能力があるなら、どこかの世界で大賢者だの、主人公を導く聖なる巫女だの、もっと派手な役をやっていてもおかしくないだろ。少なくとも、俺みたいな元勇者を徹夜で追い詰める特務秘書よりは、よっぽど似合ってそうだ」
冗談めかした言い方ではあった。
だが、問いそのものは本気だった。
自分が「勇者候補」という役割から転落してここへ来たように、彼女にもきっと、この局へ辿り着くまでの物語がある。
一晩を共にして初めて、セシルはそのことを少しだけ知りたいと思った。




