Record: 04 「英雄スサノオの卑劣な生存戦略」
窓の外は、ちょうど燃えるような夕暮れの光に包まれていた。
オレンジ色から濁った紫へとゆっくり移り変わっていく空の下、世界構築編纂局の広大な事務室は、日中の喧騒が嘘だったかのように静まり返っている。
定時である午後六時の鐘が鳴ると同時に、他の職員たちは軽やかに挨拶を交わし、机の上に翌日の仕事を残したまま、何の未練もなく一斉に退勤していった。
やがて事務室に残された明かりは、片隅にあるセシルのデスク周辺だけとなった。
机の上では、魔導ランプの鈍い琥珀色の光が、うず高く積み上げられた羊皮紙の山をぼんやりと照らしている。その向こうでは、暖炉の上に置かれた古めかしい時計が、カチ、カチ、と一定の間隔で針を進めていた。
一秒ごとに、明日の納期が近づいてくる。
同時に、セシルの残された体力と精神力と胃粘膜が、少しずつ削り取られていく。
「ぐっ、うう……!」
セシルは奥歯を噛み締め、額から滝のような冷汗を流しながら、猛烈な勢いで羽根ペンを走らせていた。
対面に座るカノンは、作業を始めてから何時間が経過しようとも姿勢ひとつ崩さない。
銀縁眼鏡の奥からサファイア色の瞳を静かに光らせ、まるで国家機密を吐かせる尋問官のように、次から次へと異国の神話データを脳内から出力してくる。その一切の情緒を排除した情報射撃を真正面から浴びせられ、セシルは何度も心を折られそうになりながら、それでも死に物狂いで食らいついていた。
すでにインク壺の周囲には、大量の原稿用紙が散乱している。
つい先ほども、スサノオによる前代未聞の家庭内暴力事件を、『闇の魔術によって世界の光が奪われ、若き太陽の乙女が試練の祭壇へと身を隠した』という、原型が完全に消息不明になるほど神々しい王道ファンタジーへと美化し終えたところだった。
羽根ペンを握る右手の感覚など、とっくに麻痺している。
それでも止まるわけにはいかない。
比喩でもなんでもなく、ここで仕事を投げ出せば、次の配属先が「第一話三ページ目でゴブリンに撲殺される青年その一」になる可能性があるのだ。
セシルは乾いた唇を舐めながら、せめて次のくだりくらいは、自分にも理解できるまともな英雄譚であってくれと願うように、対面のカノンへ希望の眼差しを向けた。
「……よし。そろそろ欲しいな」
「何がでしょう」
「戦いだよ、戦い!」
セシルは羽根ペンを握ったまま、久方ぶりに碧眼を輝かせた。
「主人公が圧倒的な強敵と剣を交えて、命を削りながら最後の勝利を掴み取る熱いクライマックスだ! スサノオとかいうサイコヤンキーも、ここまで散々好き放題やってきたんだから、さすがにこの辺りから数々の試練を乗り越えて立派な英雄になるんだろ?」
冒険する側の主人公として生まれたセシルにとって、やはり戦いこそ物語の華だった。
そんな期待が、疲れ切っていたセシルの中へ久しぶりに熱を戻していた。
だが、対面に座るカノンは微塵も表情を変えなかった。
むしろほんの一瞬だけ、夢を語る子供を現実へ送り返さなければならない大人のような、微妙に哀れむ色がその瞳をよぎったような気さえした。
「英雄、ですか」
「なんだよ、その間は」
「非常に残念ながら、まずセシル様の甘い期待を徹底的に粉砕する処罰データからご説明する必要があります」
「いきなり嫌な予感しかしない」
「姉であるアマテラスを引きこもりへ追い込み、結果的に世界を暗闇へ陥れたスサノオは、当然ながら神々の怒りを買いました。そのため財産を大量に没収され、神々の国から強制追放されます」
「まあ、そりゃそうだ」
セシルは珍しく納得して頷いた。
あれだけ好き放題やらかした末に無罪放免となれば、それこそ神々の法体系そのものを疑わなければならない。ここで相応の罰を受け、自分の犯した罪の重さを知り、何もかも失った状態から一人の英雄として再出発するのであれば、それはむしろ王道の成長物語として扱いやすい。
「ここから罪を償い、下界で心を入れ替えて──」
「なお、伝承によって処罰内容には差異がありますが、今回は最も絵面が酷いデータを採用します」
「なんでわざわざ一番酷い版を選ぶんだよ!!」
カノンは抗議など聞こえなかったかのように、事務報告を読み上げるのと何ら変わらない調子で説明を続ける。
「神々の怒りを買ったスサノオは、財産を毟られ、爪まで失うという非常にゴア表現のきついハードな拷問刑を受け、さらに伝承によっては髪まで取り除かれた状態で、下界へ追放されます」
「英雄になる前にビジュアルが死んでるじゃねえか!!」
セシルは思わず頭を抱えた。
「なんだその処刑寸前みたいな主人公! 手足ボロボロ、金なし、髪なし、前科ありって、勇者どころか人生ハードモードを限界突破してるじゃねえか!」
「逆境型主人公としては高得点です」
「そういう問題じゃねぇ!!」
叫んだところで原典は変わらない。
セシルは肩で大きく息をしながら、それでも必死に気持ちを立て直した。
「……いい。まだいける」
半ば自分自身へ言い聞かせるように呟き、セシルは羽根ペンを握り直した。
「出雲に流れ着いてからは、さすがに改心するんだよな? そこで苦しむ民衆のために、いよいよ凶悪な怪物退治に乗り出す。そうだろ?」
「はい。出雲の川上にて、スサノオは巨大怪獣ヤマタノオロチに遭遇します。頭が八つ、尾が八つ。目は赤く、巨大な身体には苔や杉が生い茂り、腹部は常に血で爛れている、歩く天然災害のような怪物です」
「キタキタキタァァァーーーッ!!」
その瞬間、セシルは椅子を蹴る勢いで立ち上がった。
背後で椅子がガタンと大きな音を立てる。
数時間に及ぶ神話地獄によって死んだ魚のようになっていた碧眼には、かつて王道勇者候補だった頃の眩しいほどの輝きが戻っていた。
「これだよ! こういうのを待ってたんだよ!! 年に一度、生贄の娘を喰らう邪悪な多頭竜! 巨大怪獣! 絶望的な戦力差! そして、その前にたった一人で立ちはだかる傷だらけの英雄!!」
何もかもを失った問題児が、守るべきものを見つけ、己より遥かに強大な怪物へ挑む。それこそ失墜と贖罪を経て英雄へ至る、誰もが胸を熱くする王道の再生物語である。
セシルは完全に元気を取り戻し、羽根ペンを聖剣のように構えた。
「さあ、どう戦う!? 伝説の剣を抜いて真正面から八つの首を同時に斬るのか!? 大魔術で大地ごと吹き飛ばすのか!? それとも傷だらけになりながら最後の一撃を──」
「酒を飲ませます」
「…………え?」
セシルの動きが、その姿勢のまま完全に停止した。
聞き間違いだろうか。
そう自分へ言い聞かせようとするセシルの淡い希望を、カノンは無表情のまま丁寧に破壊していった。
「オロチが酒好きであることを把握したスサノオは、極めて強い酒を大量に用意し、八つの頭それぞれが飲めるように設置しました」
「……それで?」
「飲ませます」
「うん」
「さらに飲ませます」
「……うん」
「ベロベロになるまで飲ませ、やがて泥酔したオロチは、その場で爆睡します」
セシルの眉間へ、ゆっくり深い皺が寄っていった。
頭の中では、つい先ほどまで燃え盛っていた英雄と巨大怪獣の壮絶な剣戟が、少しずつ酒樽の山へ置き換わり始めている。
カノンは眼鏡のブリッジへ指を添えた。
「完全に意識を失って無抵抗になったところを、スサノオが十拳剣で切り刻みます」
時が止まった。
セシルの脳内で展開されていた、八つの首から炎が吹き荒れ、それを掻い潜りながら英雄が血まみれで突撃し、最後には己の命すら賭けて巨大怪獣を討ち果たす壮絶な決戦が、何の前触れもなく崩れ落ちていく。
「……戦わないの?」
「ほぼ戦いません」
「火花とか」
「散りません。血の華であれば満開です」
「そうじゃない!互いに死力を尽くした攻防は!?」
「泥酔していますので」
しばらくの間、セシルは羽根ペンを構えた姿勢のまま固まっていた。
窓の外では、いつの間にか夕暮れの赤もほとんど消えかけ、一日の終わりを告げるカラスが、絶妙に間の悪い声で鳴いている。
そして、その最後の一線が切れた。
「不意打ちの暗殺じゃねえかァァァァァ!!! どこが英雄だチクショウ!!!」
セシルの魂から絞り出された絶叫が、すでに誰も残っていない広大な事務室へ虚しく木霊した。
「やってることが英雄どころか、ただの卑劣極まりない『一方的な暴行』だろ!! 少年漫画なら一発で打ち切られるぞ、そんな戦法! 騎士道精神はどこへ置いてきたんだよ!」
「非常に合理的な戦術です」
「勇者は合理性だけで戦ってんじゃねぇんだよ!!」
王道ファンタジーの主人公として設計され、真正面から悪へ立ち向かうことを当然の美徳として叩き込まれてきたセシルにとって、スサノオの「真正面から戦う必要がないなら、わざわざ戦わない」という極めて現実的な生存戦略は、もはや異文化どころか別宇宙の倫理観に近かった。
「なお、オロチを切り刻んでいた際、その尾へ剣を入れたところ、スサノオの持っていた剣の刃が欠けました。不審に思って尾をさらに切り開くと、中から非常に強力な剣が発見されます」
机へ崩れ落ちかけていたセシルが、ゆっくりと顔を上げた。
「……剣?」
「後に草薙剣と呼ばれる、極めて重要な神剣です」
「怪獣の尻尾からレアドロップしたの!?」
「結果だけを現代的に表現すれば、その認識でも大きな支障はありません」
「ゲームみたいに処理するな!」
カノンは当然ながら微塵も笑わない。
「そしてスサノオは、その剣を自分のものにはせず、姉であるアマテラスへ献上します」
セシルの目が細くなった。
ここまで何時間も彼女の説明を聞き続けたことで、何となく次に飛んでくる悪意ある現代語訳の形が分かり始めている。
そして、その予感は見事に的中した。
「現代的に申し上げますと、『姉ちゃん、この前はいろいろゴメン。めちゃくちゃいい剣拾ったからあげる』です」
「贈答品で家族関係を修復しようとするな!!」
とうとうセシルは再び机へ突っ伏した。
しばらくの間、セシルは額を机へ押しつけたまま動かなかった。
自分が信じてきた英雄像とは、一体何だったのだろう。
勇者とは、巨大な悪を前にしても逃げず、正面から剣を抜き、己の命を賭けて勝利を掴む者ではなかったのか。
強い。
間違いなく強い。
だが、自分の知っている「勇者」とは何かが決定的に違う。
「これが……日出る黄金の国の、由緒正しい神話なのか……」
長い時間をかけてようやく絞り出された放心状態の呟きに、カノンは何の感慨も示さず懐中時計を取り出した。
「セシル様。現実逃避の時間は終了です」
「もう少しだけ俺に世界観を受け入れる時間をくれ」
「却下します。納期である明日の午前九時まで、残り十三時間です」
容赦なく告げられた数字に、セシルの肩がぴくりと跳ねる。
カノンはサファイア色の瞳で彼を見つめながら、いつものように冷静な手つきで眼鏡の位置を直した。
「万が一納期を落とした場合、明日の朝からセシル様は例の『無双おじさん』について歩き、ゴブリンに鈍器で頭を殴られて即死する『噛ませ犬の青年その一』へ配属されます」
「分かってるよ……」
「一生、その一です」
「なんで追い打ちかけた!?」
もはや怒鳴る気力すら尽きかけながら、セシルは目元に悔し涙を浮かべ、再び羽根ペンを握りしめた。
「スサノオ……お前って奴は、少しくらい勇者らしく正々堂々と戦えよぉぉぉ!!」
だが、どれほど嘆いたところで原稿は完成しない。
セシルは荒く息を吐きながら、まず寝込みを襲われただけの哀れなオロチへ、『世界の破滅を目論み、幾千の国を焼き滅ぼしてきた八首の邪竜王』という、本人が聞いたら首を八つとも傾げそうな超弩級のラスボス設定を上書きした。
次に、酒で眠らせてから切り刻んだという身も蓋もない討伐方法を、『邪竜の無限再生能力を封じるため、英雄は己の名誉すら捨てて闇へ潜み、ただ一度だけ訪れる刹那の隙へ全生命を懸けた神速の一撃を叩き込んだ』という、原典を百回ほど洗濯した末に別物へ染め直したような自己犠牲の英雄譚へと美化していく。
「……よし。これなら卑怯じゃない。むしろ己の名誉を捨てて勝利を選んだ自己犠牲だ。完璧だ……!」
もはや王道ファンタジーへの愛ゆえに、大切な何かを少しずつ失い始めている。
そんなセシルの横から、カノンが完成した原稿を静かに覗き込んだ。
「非常に美しい歴史改竄ですね」
「美化って言え!!」
セシルの悲鳴が響く頃には、窓の外に残っていた夕暮れの色もすっかり消え、世界構築編纂局は深い夜の闇へ沈んでいた。
広大な事務室の片隅で、魔導ランプだけが二人の姿を照らしている。
そして静寂の中、セシルの怨念と胃痛と王道ファンタジーへの執着をたっぷり吸い込んだ羽根ペンの音だけが、まるで呪詛のように、いつまでも激しく響き続けていた。




