Record: 10「配属先は、未定」
翌朝。
世界構築編纂局の局長室には、いつもと変わらぬ優雅な紅茶の香りが満ちていた。
大きな窓の向こうには雲ひとつない青空が広がり、レオンハルトは最高級の革張りソファへ深く腰掛けながら、まるでこの世に締切も残業も存在しないかのような穏やかな表情で朝刊へ目を通している。
そんな腹立たしいほど平和な空間へ、セシルは一枚の書類を手に乗り込んだ。
「局長」
「やあ、セシル君。昨日の勇者案件について、返事は決まったかね?」
「はい」
セシルは短く答えると、朝刊から顔を上げたレオンハルトの前へ書類を差し出した。
そこに記されていたのは、勇者募集要項への署名ではなく、『退職届』の三文字だった。
「……ほう」
もっと驚くかと思っていたが、その反応もほんの一瞬だった。レオンハルトはすぐにいつもの穏やかな笑みへ戻ると、退職届を指先で持ち上げ、新しい企画書でも渡されたかのような気軽さで内容を読み始める。
「理由欄には、『自分の物語を自分で作るため』……ずいぶん抽象的だね」
「自分で自分の物語を書いてみたら、一行目で勇者を旅立たせた直後に、どこへ行けばいいのか分からなくなりまして」
セシルはそこまで言うと、昨日自分で書いた退職届へ一度だけ目を落とした。
こうして局長の机に置かれてしまうと、夜まであれほど悩んで出した結論とは思えないほど、ただの紙切れに見える。
「ずいぶん早い打ち切りだね」
「まだ打ち切ってませんよ」
早速茶化されて眉間に皺を寄せたものの、セシルはそのまま続けた。
「一回外に出ようと思います。知らない場所へ行って、知らないものを見て、自分で行き先を決めて、それから考えますよ。俺がどんな物語を書きたいのか」
レオンハルトは口を挟まずに聞いていたが、やがて退職届を机へ戻すと、整えられた髭をゆっくり撫でながら口元を緩めた。
「なるほど。つまり、せっかく用意した理想の勇者枠を蹴って、無職になると」
「言い方!! そこはもう少しこう、『自らの運命を探す旅へ』とかあるでしょう!?」
朝の静かな局長室へ怒鳴り声が響いても、レオンハルトはまるで動じず、むしろ期待通りの反応に満足したらしく優雅に紅茶を一口飲んだ。
「まあ、君らしい結論ではあるね」
「……止めないんですか?」
「ここはキャラクターを物語へ送り出す場所だ。自分から外へ出て、自分の物語を探すと言う者を、わざわざ引き止める理由もないだろう。それに、前例がないなら作ればいい。編纂局としても、その方が面白い」
「最後まで観察対象みたいに言いますね」
「職業病だよ。ただし、戻ってきた時に君の席が残っている保証はないからね。無双おじさんの設定資料を裁断する仕事なら、慢性的に人手不足だが」
「絶対戻らねぇ!!」
反射的に叫んだところで、セシルは思わず吹き出した。
思い返してみれば碌な職場ではなかったし、できることなら二度と同じ仕事はしたくない。
それでも、ここへ来なければ経験しなかったことばかりだった。
「……短い間でしたが、お世話になりました」
今度は茶化さずに頭を下げると、レオンハルトも珍しく何も言わず、その姿を見ていた。
「餞別代わりに、未払い残業代でも出そうか?」
「あるなら最初から払えよ!!」
最後まで胃に悪い上司だった。
***
局長室を出たセシルは、そのまま第七窓口へ戻り、長く使った机の引き出しを片っ端から開けていった。
退職するとなれば、それなりの量の私物が出てくるものだと思っていた。ところが、実際に箱へ収まったのは鏡とプロテイン用のシェイカー、何種類かの胃薬に、クラウディアから貰った高級胃薬、そして数冊の王道ファンタジー小説くらいのものである。
「……こうして見ると、俺の私生活って薄いな」
「顔に全振りされた結果では?」
「最後の日くらい優しくしろよ」
向かいの席では、カノンがいつもと変わらぬ手つきで書類を整理していた。セシルは高級胃薬を箱の隙間へ押し込みながら、何となく彼女へ声をかける。
「局長に退職届、出してきた」
「そうですか」
「反応薄くない?」
「昨日の時点で、退職届を書かれていたことは存じておりますので」
相変わらずの調子に苦笑しながら、セシルは箱の蓋を閉じた。
「じゃあ、俺は行くよ」
「はい」
カノンは書類から顔を上げ、静かに頷いた。
セシルは何となく次の言葉を待ったが、彼女はすでに視線を書類へ戻している。少しくらい惜しまれるかと思っていた自分が恥ずかしくなり、抱えた箱の位置を直して、そのまま第七窓口を後にした。
編纂局の巨大な玄関ホールには、これから新しい物語へ向かうキャラクターたちが行き交い、その間を申請書類の束を抱えた職員たちが忙しそうに駆け回っている。
物語を失ってこの場所へ流れ着いた頃は、いつか必ず主人公としてこの扉を出てやると思っていた。それが実際には、念願の主人公枠を自分から断り、退職した無職として出ていくのだから、人生とは分からないものである。
セシルが正面の巨大な扉へ手をかけた、その時だった。
「セシル様」
背後から聞き慣れた声がして振り返ると、つい先ほどまで第七窓口で仕事をしていたはずのカノンが、いつもの仕事着ではなく旅装に身を包み、小さな鞄を肩に提げて立っていた。
「……なんでその格好してんの?」
「旅装です」
「それは見れば分かるよ。仕事は?」
「辞めました」
「早っ!!」
あまりにも平然と告げられたせいで、セシルの声が玄関ホールいっぱいに反響した。
「私も、少し外の世界を見てみようと思いました。これまで私は、与えられた物語の中しか知りませんでしたので」
その言葉を聞いて、セシルはそれまで浮かべていた呆れ顔を少しだけ緩めた。
それ以上は聞かなかった。鼻の頭を軽く掻きながら視線を逸らすと、カノンも何も付け足さないまま、その隣へ並ぶ。
「……まあいいよ。お前が来るなら、道中の知識担当としては便利だしな」
「その言い方ですと、私を便利なデータベース扱いしている点で、昨日までの反省が一切活かされておりませんが」
「友達として便利って意味だよ!」
勢いのまま飛び出した言葉に、カノンの指が眼鏡の縁へ触れたところで止まった。セシルも言ってから気づいたらしく、少しだけ視線を逸らす。
「……では、許容します」
「そこは普通に喜べよ」
結局いつもの調子へ戻ってしまったが、一人で出るつもりだった旅に同行者が増えたことを、セシルはそれほど悪く思わなかった。
そうして二人で扉へ向き直ろうとした、その時。
「オーーーッホッホッホッホ!!」
玄関ホールの奥から、聞き間違えようのない高笑いが響いてきた。
「待ちなさーーーい! あたしを置いていく気!?」
「やっぱりか!!」
深紅と漆黒の悪役令嬢ドレスを翻しながら、クラウディアが巨大な旅行鞄を二つ引きずってこちらへやって来る。
「……なんであんたまで旅行鞄持ってんですか」
「あたしも行くからよ!」
「悪役令嬢は!?」
「落ちちゃった。あたしのスペックじゃヒロインを食うからって」
当の本人はまるで気にしておらず、どうせなら旅へ出て、次の役に使えそうな経験を積むのだと胸を張った。
「でね。旅に出るなら『クラウディア・フォン・ローゼンベルク』とかどう? なんか冒険者ヒロインっぽくない? 森の奥に古城とか持ってそうだし」
昨日誕生したばかりのフォンティーヌ家が、わずか一日にして断絶の危機を迎えている。
「……もうフォンティーヌ捨てたの?」
「だって今は悪役令嬢じゃないし」
「昨日作ったばっかだろ!! 家名を衣装感覚で着替えるな! あんた本当、節操ないな!!」
「えー? でもクラウディアはクラウディアでしょ。苗字なんて、その時一番しっくりくるやつでいいじゃない」
昨日作った家名を今日には捨てようとしているくせに、本人は何の迷いもなく、昨日とまったく同じ顔でそこにいた。
セシルはしばらく黙っていたが、やがて眉間を押さえながら深いため息を吐いた。
「……なんか腹立つな」
「なんでよ!?」
「こっちは九話かけて悩んできたようなことを、あんた何も考えずに実践してるからですよ!」
「知らないわよ、そんなの!」
クラウディアは心底理不尽そうに頬を膨らませると、巨大な旅行鞄へどっかり腰を下ろした。
「それより、宿代よろしく」
「……カノン。こいつの金、管理してやって」
「お断りします。現在の支出傾向から算出すると、クラウディア様が旅費を全額失う確率は八十七パーセントですので、責任を負いかねます」
「えー! じゃあ誰が管理するのよ!」
三人の声が、朝の玄関ホールへ盛大に響き渡った。
セシルは、もう好きにしろとばかりに大きく息を吐き、巨大な扉へ手をかけた。開きかけた扉の向こうから吹き込んだ朝の風を受けながら、一度だけ背後を振り返る。
遠くでは受付嬢が新しいキャラクターの申請書を受け取り、その横を大量の書類を抱えた職員が走り抜けていく。
少し前まで、自分もあの中にいた。
「……よし」
セシルは前へ向き直ると、荷物を肩へ担ぎ直した。
「どうせ作るなら、俺自身の経験を伝説にしてやる!」
「相変わらず言うことだけはデカいわね」
「その自信を裏付ける根拠は確認できません」
「お前ら、旅立ちくらい気持ちよく送り出せないの!?」
結局、最後まで格好はつかなかった。
それでもセシルは笑いながら扉を押し開け、カノンとクラウディアもその後に続いた。
外へ出ると、一本の街道が青空の下を遠くまで伸びていた。
行き先も決めないまま歩き始めてしばらくすると、セシルが何かを思い出したように顎へ手を当てる。
「……そういや、パーティーどうする?」
「パーティー?」
「ほら、王道ファンタジーなら四人だろ。次の街であと一人、仲間探そうぜ」
結局そこだけは王道から離れる気がないらしい。
クラウディアは巨大な旅行鞄を引きずりながら露骨に嫌そうな顔をすると、人数が増えれば宿代が高くなるから三人でいい、自分は一人部屋が欲しいと言い出した。
「宿代払う気ない奴が宿泊条件に口出すな!」
当然のようにセシルが噛みつき、旅立って早々、街道の真ん中で口論が始まる。
そんな二人を横目に、カノンは現在の戦力構成を確認するように指を折っていった。
「セシル様が前衛物理攻撃、クラウディア様が神聖系補助、私が後衛魔術及び情報解析を担当できますので、追加するのであれば盾役、もしくは専門的な回復役が合理的かと。ただし、現時点ですでに一般的な冒険者パーティーと比較して、戦力値は著しく過剰ですが」
「……ん?」
つい先日まで第七窓口で、似たような連中を「属性過積載」だの「設定渋滞」だのと散々こき下ろしていた記憶が、今になって盛大なブーメランとなって返ってくる。
「……いや、ちょっと待て。俺たち、勇者に女神に賢者だろ? すでにチートすぎないか?」
ようやく自分たちの構成のおかしさに気づいたセシルとは対照的に、クラウディアはそんなことを今さら気にする理由が分からないらしく、きょとんと首を傾げた。
「じゃあ、それをネタにセシルがプロット作れば?」
「俺はそんな流行りに迎合したくねえんだよ!!」
旅立って早々、自分の物語を作ると大見得を切った元勇者の絶叫が、雲ひとつない青空へ吸い込まれていった。
三人の騒がしい声は、どこまでも続く街道の向こうへ少しずつ遠ざかっていく。
まだ誰にも役割を決められていない、配属先未定の物語の、その最初の一ページへ向かって。
【──完──】




