Record: 02 「国家プロジェクト級神話(※ただし納期は明日の朝一厳守)」
「……不憫だ。あまりにも不憫すぎる。創作神よ、あんたの目は節穴か?」
第七窓口へ戻ったセシルは、作者の身勝手な未完放置──俗に言う『エタる』という無慈悲な神の気まぐれによって、世界を救うはずの王道勇者候補から窓際事務員へと転落した己の境遇を嘆き、咽び泣くように頭を抱えていた。
目の前には、先ほど処理したばかりの、設定という名の過積載貨物を限界まで積み込んだ無双おじさんの申請書類が残されている。
その隣には、不要設定を処分するための業務用シュレッダー。
さらに机の引き出しには、つい先ほどギャンブル狂いの元・最高位女神クラウディアへ貸したせいで、確実に薄くなった自分の財布。
考えれば考えるほど、自分の人生そのものが壮大な悪意によって構成されたブラックコメディに思えてくる。
「……くっ、またこの痛み……! まさか暗黒世界の魔王が、ついにこちら側への侵食を始めたのか……!?」
否。
ただの胃潰瘍一歩手前である。
「……俺様の身体が、こんな安っぽい現実に負けるわけがない……!」
襲い来る強烈な胃痛に耐えかね、セシルはよろめきながら席を立つと、給湯室の棚から救命道具を取り出した。
それは伝説の霊薬でも、万病を癒やす聖女の涙でもない。
薬局で普通に購入した、市販の激苦な漢方胃腸薬だった。
紙包みを破り、中身を口へ放り込む。
「ぐっ……にっが……!」
あまりの苦味に麗しい顔を歪めながら、セシルは水道水を豪快に流し込んだ。
「ゴフッ……! 俺様は……この完璧な顔面と選ばれしスペックを持つセシル様は、こんなところで生涯を終える男じゃない……! 俺が真に向き合うべきは、世界の命運を賭けた最終決戦であって、加齢臭のする設定過多なおじさんたちの履歴書では、断じてないはずだろぉぉ!!」
給湯室の天井を仰ぎながら、セシルは魂の底から咆哮した。
遠くのデスクで仕事をしていた職員たちが一斉にこちらを見る。
だが、すぐに全員が何事もなかったように視線を戻した。
「……誰も止めてくれないのも、それはそれで傷つくな」
そんな虚しい独り言を漏らした、その時だった。
給湯室の入口から、実に控えめなノック音が響いた。
「セシル様。局長がお呼びです。至急、局長室へお越しください」
局長付きの事務員だった。
「…………はい」
局長からの呼び出しと悟った瞬間、セシルの顔から一切の感情が蒸発した。
この職場において、局長が部下をわざわざ個別に呼び出す時は、ろくなことがない。
「……ちなみに、用件は?」
「局長より直接お話があるとのことです」
「ですよね。知ってました」
──逃げ道など、なかった。
***
局長室は、優雅なクラシック音楽が鼓膜を癒やし、高価な花の香りと柔らかな朝の光に包まれた、世界構築編纂局で唯一と言っていいほど人間らしい安寧を保った空間だった。
部屋の中央には、明らかに第七窓口の備品数年分より高そうな革張りソファが鎮座している。
その上で悠然と煙を吐き出している男こそ、世界構築編纂局局長──レオンハルトだった。
艶やかに整えられた髭を撫でながら、高級葉巻を優雅に燻らせる姿には、王道ファンタジーであれば全知全能の最高神官として神殿の頂点に君臨していそうな神々しい風格がある。
ただし、その実態は、部下に国家規模の仕事を平然と投げつけても眉一つ動かさない、世界構築編纂局という巨大組織の首領。
外見だけなら完全に詐欺だった。
「やあ、セシル君。来てくれたか」
「呼ばれましたので……」
「そんなに警戒しなくてもいいじゃないか。今日は君の溢れんばかりの有能さを見込んで、ひとつ、とっても小さな、実にささやかなお願いがあるだけだよ」
「その前置きを聞いた時点で、もう帰りたいんですが」
セシルは露骨に眉をひそめた。
職を失った自分を拾い上げ、日々の糧──手取り十五万──を与えてくれた恩人ではある。
あるのだが、最高級のソファで葉巻を燻らせながら「小さなお願い」と口にするこの男を見るたび、感謝とほぼ同量の殺意が胸の奥ですくすくと育っていくのもまた事実だった。
「いやぁ、近年の『チート・無双・異世界』トレンドの乱獲によって、キャラクターの過剰在庫が深刻でね。第七窓口も、ご覧の通り現実の見えないおじさんで飽和しているだろう?」
「ええ。嫌というほど」
レオンハルトは愉快そうに笑いながら葉巻を灰皿へ置き、創作世界の未来を憂う聖人のような表情で両手を広げた。
「そこでだ。小説界隈のド肝を抜くような、超ド級の『王道ファンタジー』を一本作りたい」
セシルの眉が、ほんのわずかに動いた。
王道ファンタジー。
その言葉だけなら、悪くない。
むしろ、久しぶりに胸の奥へ懐かしい熱が灯るような感覚すらあった。
「王道ファンタジーの主人公候補だった君なら、何が読者の心を熱くするのか、誰よりよく分かっているはずだ。聖剣、仲間、試練、喪失、そして最後には世界を救う壮大な物語。そういうものを、今だからこそ真正面から作る価値があると思わないかね?」
「……まあ、それは」
思わず身を乗り出しかけてから、セシルは慌てて平静を装った。
世界を救う側ではないにせよ、自分の王道ファンタジーへの造詣を買われた仕事である。
正直なところ、少しだけ悪い気はしない。
少なくとも、無双おじさんの猫好き設定がギャップ萌えとして有効かどうかを査定するよりは、遥かに自分らしい仕事だと思えた。
「そこで君には、国家プロジェクト級の壮大な神話を一本、プロットからシュシュっと構築してもらいたいと思ってね」
「……随分と簡単に言いますね。いや、しかし」
セシルは腕を組んだ。
規模は大きい。
だが、王道ファンタジーという題材ならば、自分にも勝機はある。
むしろ、ここで成果を出せば、いずれ本当に主人公枠へ復帰するための実績になるかもしれない。
そんな希望が、ほんの少しだけ胸の内に芽生えた。
そして次の瞬間。
「納期は明日の朝一だ」
「……は?」
セシルは数秒間、完全に停止した。
脳が現実を受け入れることを拒否している。
「……局長」
「何かね?」
「これ、普通にブラック案件ですよね?」
「急がせて本当にすまない。だが安心したまえ。ここは現実世界に蔓延るようなブラック企業ではないからね。君一人に全てを背負わせるつもりはない」
「いや、納期設定だけで十分ブラックなんですが」
「超絶ハイスペックなサポート助手も用意した」
セシルの抗議など聞こえていないらしい。
レオンハルトは穏やかな笑みを崩さぬまま、扉の向こうへ声をかけた。
「カノン君、入りたまえ」
「いや待て、国家プロジェクト級を一晩って時点で、どう考えたって純度百パーセントのブラック──」
魂からのツッコミを遮るように、扉が静かに開いた。
「失礼いたします」
入室してきたのは、一人の少女だった。
腰まで届く淡いピンク色の髪に、丸い銀縁眼鏡。
華奢な体格とは裏腹に、その立ち姿には一分の隙もなく、眼鏡の奥にある深い青色の瞳は、大自然の岩石のような冷ややかさを湛えている。
肩から指先に至るまで無駄な動きがなく、部屋へ入って扉を閉める一連の所作すら、あらかじめ決められた最適手順を実行しているかのようだった。
「紹介しよう。カノン・メルキオール君だ。一度見聞きした情報はほぼ完全に記憶し、古今東西の物語や神話に関する膨大なデータを頭の中に蓄積している。私の特務秘書を務める、非常に優秀な職員だよ」
カノンはセシルの前で足を止めると、端正な所作で深々と頭を下げた。
「初めまして、セシル様。カノン・メルキオールと申します。今回の編纂業務において、資料整理および情報提供を担当いたします」
(……眼鏡っ子の有能秘書か)
セシルは思わず彼女を観察した。
整った容貌。
隙のない仕事ぶり。
知的な銀縁眼鏡。
(ここにドジっ子属性まで加えたら、かなり人気が出そうだな)
第一話で無双おじさんを散々笑った男とは思えない発想だった。
そんなセシルの脳内など知る由もなく、カノンは静かに顔を上げる。
「セシル様。あなたが例の、物語がエタったことで居場所を失い、現在はおじさま方の設定資料を裁断する業務に従事されている、元・王道勇者候補様ですね」
「……挨拶の切れ味が鋭すぎて、俺のMPがマッハで削れてるんだが」
セシルの顔から生気が抜けていく。
「普通に『よろしくお願いします』くらいから始めるもんだろ、こういう場面では」
「失礼いたしました。なにぶん、データと事実を優先してしまう不器用な性分でして」
「いや、それ全然フォローになってないし、ただの合法的な悪口だからな?」
心を軽く蜂の巣にされたセシルをよそに、レオンハルトは「若者同士、早くも打ち解けたようだね」とでも言いたげな満足そうな笑顔で頷いている。
「というわけで、後はよろしく頼んだよ。ストーリー構築に必要な参考データは、ほぼ全てカノン君の頭の中に入っている。最高の相棒だと思って、存分に創作へ集中してくれたまえ」
「この会話のどこに相棒感があったんですか」
「今後育てていけばいい」
「期限、明日の朝ですよね!?」
レオンハルトは聞こえなかったことにした。
葉巻の煙をゆっくりと吐き出しながら、仏のような笑顔で最後の念押しをする。
「なお、納期は絶対だ。文字通り『死守』したまえ。万が一落とした場合、次の配属先は例の『無双おじさん』について歩き、第一話の三ページ目あたりで敵にやられる『噛ませ犬の青年その一』だからね」
「…………」
笑顔で実質的な死刑宣告を下すブラック上司。
そして横には、自分のこれまでの人生を数秒で要約し、心へ刃物のように突き刺してきた無表情の天才秘書。
セシルは静かに、しかし確実に何かが終わった顔をしていた。
***
局長室を出た二人は、お通夜のような空気を引きずったまま第七窓口へ戻った。
正確には、お通夜のような顔をしているのはセシルだけで、カノンは最初から最後まで同じ無表情だった。
自席へ着くなり、セシルはデスクへ拳を叩きつける。
「……陰謀だ。これは全て、この俺様の完璧な顔面と選ばれしスペックに嫉妬し、俺が王道勇者として華々しく返り咲くことを恐れた闇の組織──主にあの髭局長──が仕組んだ卑劣極まりない陰謀に違いない!!」
無茶苦茶な理屈で世界のせいにすることにより、どうにか絶望から這い上がろうとするセシル。
その往生際の悪い横顔を、カノンは銀縁眼鏡の奥から静かに見つめていた。
「セシル様。どれほど喚こうとも嘆こうとも、納期までの時間は一秒ずつ確実に減っています。壮大な陰謀論へ現実逃避しても、課せられたサービス残業の使命は変わりません」
そこには同調も共感も、一ミリの慈悲すら存在しなかった。
ただ事実だけが、恐ろしく正確に突きつけられる。
「……くっ。かつて世界を救うはずだった勇者のこの俺が、なんで一晩で世界をイチから作る徹夜作業なんか……」
「過ぎ去った過去の栄光──正確には未完放置作ですが──に縋り、目の前の仕事から逃げ続ける人間は、たとえ『勇者候補のフルスペック美男子』という肩書きが事実であったとしても、私のデータ上、尊敬の対象には値しません。今を泥臭く生きてみてはいかがでしょうか、セシル様」
あまりにも鋭く、重く、そして反論の余地がない。
セシルの頬が引きつった。
無双おじさん相手ならいくらでも言えた「設定を盛りすぎだ」「現実を見ろ」という言葉が、そのまま自分自身へ巨大なブーメランとなって帰ってきたような気分だった。
しばらく黙り込んだ後、セシルは観念したように大きく息を吐いた。
「……分かったよ。やればいいんだろ、やりゃあいいんだろ」
勇者としてのプライドを粉々にへし折られながら、セシルはデスクの上に置かれた羽根ペンを握りしめた。
インク壺にペン先を浸し、真っ白な原稿用紙を睨みつける。
目の前には、世界創造のための白紙。
隣には、人間味よりデータを優先する超記憶型の天才秘書。
そして背後には、明日の朝一という絶対不可避の処刑時刻。
逃げ道は、完全に塞がれていた。
こうして、手取り十五万の元・王道勇者と、感情よりデータを優先する超記憶型の天才秘書による、一晩限りの『神話デスマーチ(※完全手書き)』が、強制的に幕を開けたのだった。




