Record: 01「トレンドという名の泥舟について」
そこは、あらゆる物語が産声を上げる前の、混沌たる舞台裏──「世界構築編纂局」。
クリエイターの脳内から産み落とされた、まだ名もなきキャラクターたちを精査し、設定や適性を見極めたうえで、ふさわしい役目を与えて物語へと強制配属する。
勇者、魔王、賢者、悪役令嬢。あるいは、村人Aや酒場の主人、第一話で主人公を庇って死ぬ名もなき兵士に至るまで、その役割は実に多岐にわたる。
昨日まで世界を救う最高神だった者が、作者の気紛れひとつで翌日には酒場の看板娘へ転職させられることもあれば、世界を滅ぼすはずだった魔王が、突然「今はスローライフが流行っているから」という理由だけで辺境の村へ飛ばされ、畑を耕すことさえある。
それこそが、この組織に課せられた絶対にして、あまりにも胃の痛む任務である。
その日、編纂局の朝の静寂を破ったのは、一人の青年が漏らした、あまりにも自己愛に満ちた呟きだった。
「……よし、間違いない。今日も完璧だ」
青年──セシル・ヴァレンタインは、鏡に映る自身の姿を凝視したまま、うっとりと満足げに口元を歪めていた。
セシルは顎に指先を添え、右、左、斜め四十五度と角度を変えながら、今日も自分の顔面に一点の曇りもないことを念入りに確認していく。
「今日も顔面の黄金比は神の領域。俺の笑顔が全人類を救い、俺のウインクが世界を平和に導く。これぞ王道ファンタジーの主人公、セシル様のあるべき姿……!」
その声には、いささかの迷いもなかった。
ただ純粋な、狂気にも似た自信だけが、そこに尊大に存在していた。
彼にとって「セシル・ヴァレンタインの顔面が美しい」という事実は、太陽が東から昇ることと同じくらい疑う余地のない世界法則なのである。
その陶酔を切り裂くように、容赦のない音が室内に響いた。
勢いよく開け放たれたドアの向こうから、局員が大量の書類を抱えて入室する。足音にも表情にも、一切の躊躇はない。
「セシル様、現実逃避してないでこちらの書類に署名と押印をお願いします。あと、昨日締切だった『無双おじさん』の配属データ、まだですか」
背後から突き刺さる、感情を完全に排したマシーンのような事務声。
鏡に添えていたセシルの麗しい指先が、ビクンと戦慄いた。
つい数秒前まで、己の笑顔ひとつで全人類を救っていたはずの青年は、夢の世界から現実のデスクワークへと強制送還された拒絶反応を必死に押し殺しながら、ゆっくりと振り返る。
「……はい」
蚊の鳴くような声だった。
──これは、トレンドという時代の荒波に流され、王道ファンタジーの勇者という絶対的ポジションから窓際事務員へと転落した青年が織りなす、血と涙とA4コピー用紙にまみれた世界構築の現場録である。
***
セシルの配属された「第七窓口」は、その日も朝から地獄の底のような騒ぎだった。
「おい! どうして俺が不採用なんだ! ネット小説のトレンドを全部詰め込んだ完璧な履歴書だぞ!?」
カウンターの向こうでは、加齢臭と誇大妄想を煮詰めたような男が、受付嬢に詰め寄っていた。
いわゆる「チート能力で無双したい」という現代の欲望の権化、アラフォーの無職男である。
窓口の職員は、死んだ魚の目で淡々と返した。
「お客様、落ち着いてください。履歴書を拝見しますと……『初期ステータスは全カンスト』『生まれながらに聖剣を所持』『全属性魔法を使用可能』『実は滅亡した王家の生き残り、ただし記憶喪失』。そのうえでアピールポイントが『実は大の猫好き(ギャップ萌え狙い)』……属性が渋滞を起こして大破しております。いくらトレンドとはいえ、さすがに設定を盛りすぎです」
どう見ても男の体躯は三頭身寄りのドラム缶体型だった。
聖剣どころか、百均のハサミすらまともに使えそうにない。
「うるせぇ! 書ききれなかったけど、実は古代竜の血も引いてるんだよ! 主人公は俺しかいねぇだろ!」
「増やさないでください」
その醜態を、セシルは自席から冷ややかな眼差しで眺めていた。
トレンドに狂わされ、自らのアイデンティティを見失い、属性を盛れば盛るほど主人公としての価値が高まると信じ込んでいく迷子のおじさんたち。
彼にとってそれは見慣れた光景であり、それだけに最高に滑稽なものでもあった。
「……哀れだな」
セシルは腕を組み、どこか人生の真理を知り尽くした賢者のような顔で小さく首を振った。
「属性を盛れば魅力が増すとでも思っているのか。ああいうのを、設定過積載型アイデンティティ崩壊と呼ぶんだ」
近くにいた同僚が、ちらりとセシルを見る。
金髪碧眼、古代竜の一族の末裔、伝説の聖剣に選ばれし勇者候補。
どう考えても、彼自身もなかなかの積載量である。
かつてセシルは、本当に王道ファンタジーにおける勇者候補の筆頭だった。
選ばれし血統を持ち、伝説の聖剣を手に、運命に導かれた仲間たちと旅をし、最後には邪悪なる魔王を討ち果たして世界を救う。
誰もが一度は思い描くような、絵に描いた王道。
──その主人公になるはずだった。
しかし、物語は途中で終わった。
魔王との決戦よりも先に。
仲間たちとの別れよりも先に。
張り巡らされた伏線が回収されるよりも先に。
作者が飽きたのである。
俗に言う、「エタる(未完放置)」。
創作世界において、それは魔王や天変地異よりも恐ろしい出来事だった。
こうして勇者候補セシル・ヴァレンタインは、世界を救うどころか、物語そのものを失い、一瞬にして無職となった。
自席へ戻ったセシルは、深いため息を吐きながら、こめかみを押さえた。
「……いつか、必ず王道の主役に返り咲いてみせる」
それは誰に向けるでもない、呪詛に近い誓いだった。
「金髪碧眼、本物の八頭身、そして失われた古の竜の一族の末裔──それがこの俺様だ。こんな編纂局の片隅で、おじさんたちのゴミみたいな設定資料をシュレッダーにかける機械として一生を終えるなど、神が許しても俺様の顔面が許さないッ!!」
ガガガガガガガ!!
その叫びを嘲笑うかのように、デスク脇のシュレッダーが唸りを上げる。
却下されたおじさんたちの『ボクの考えた最強のチート能力』が、次々と刃に巻き込まれ、細切れの紙片へと変わっていく。
セシルは、虚ろな目でそれらを見送った。
王道勇者として魔王を倒すはずだった青年が、今や他人の最強設定を裁断する係である。
人生とは、かくも無慈悲なものなのか。
その時、デスクの内線電話が爆音で鳴り響いた。
セシルの肩が跳ねる。
嫌な予感しかしなかった。
「……はい、セシルです」
『セシルさん! 助けてください、またあの例の方が来ていて……! セシルさんを出さないなら、今すぐこの世界を古代魔術で灰にするって大暴れしてて、もう窓口のガラスが割れそうです!!』
受付嬢の切羽詰まった声の向こうから、聞き覚えがありすぎる、いつもの嘘泣きが響いてくる。
『セシルぅぅぅぅ!! いるんでしょぉぉぉ!? 出てきなさいよぉぉぉ!!』
セシルは無言で受話器を置いた。
恐ろしいほどの胃痛が彼を襲う。
「……魔王より先に、俺の胃が滅びそうだ」
顔面を真っ青に染めながら、セシルは諸悪の根源が待つ「再就職窓口」へと向かった。
***
そこは、あらゆる理由で作品がエタり、あるいは企画そのものが立ち消えとなり、職を失った崖っぷちキャラクターたちが集う職業案内所である。
そして、その職業案内所の床で、一人の美女が盛大に転がっていた。
「あーーーん!! もうこんな世界、私の暗黒魔術で消滅させてやるんだからぁぁ!!」
息をのむほど美しい銀糸の髪に、透き通るような紫色の瞳。
天女のような神々しい装いを身に纏った女性──クラウディア。
黙って立っていれば、神殿の最奥で人々の祈りを受ける絶対的な女神にしか見えない。
「……クラウディアさん。いい大人が床で転がるの、やめませんか」
セシルの声を聞くなり、クラウディアはマスカラの落ちた真っ赤な目でガタッと起き上がった。
「セシルぅぅぅ!!」
勢いよく駆け寄ると、セシルの服の裾を掴み、上目遣いでウルウルと涙をためる。
本来であれば、男なら誰でも一瞬は心を奪われそうな仕草だった。
──だが、セシルは知っている。
「お金なら、もう一円も貸しませんよ」
クラウディアの動きが、ピキリと硬直した。
彼女もまた、作者の失踪によって職を失った被害者の一人である。
世界を救う鍵となる絶対の女神として主人公を導き、人々に奇跡を与え、最後には世界そのものを照らす存在となるはずだった。
しかし作品が消えれば、最高神も無職である。
「……作品がエタって失業したからといって、再就職資金を競馬でスるなど、女神の風上にも置けない愚行です。人生のルーレットに勝率を求めるのはやめてください。次のヒロイン枠が見つかるまで、大人しく『村の女A』として草むしりでもしていた方がよほど建設的です」
セシルの絶対零度の視線に、クラウディアは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
しかし、この女も往生際が悪かった。
彼女の脳内では今、『悪役令嬢』というトレンドのゴールドラッシュに乗っかり、かつての栄光を取り戻して再び大勢からチヤホヤされる未来が、実に都合よく上映されている。
「でもさぁ、考えてみてよ。私みたいな本物の女神が悪役令嬢に堕ちるんだよ? 神聖、没落、美貌、ギャップ。これだけ属性が揃ってたら、もうバズ確定じゃない?」
その言葉を聞いた瞬間、セシルの脳裏に、先ほど第七窓口で暴れていた無双おじさんの姿が浮かんだ。
「……属性を盛れば魅力が増すと思っている時点で、さっきの無双おじさんと大差ありませんよ」
「一緒にしないでよ! 私は美人だもん!」
「そこじゃないんですよ」
なおもクラウディアの妄想は止まらない。
悪役令嬢になった暁には、自分専属の有能な執事が必要だという。
そんな都合の良い人物像を楽しそうに並べた挙句、クラウディアは満面の笑みでセシルを指差した。
「なんならセシルは、そこで私を激しく愛しつつ裏で糸を引く『有能ドS執事』の枠をやらせてあげても……いいんだよ?」
セシルの魂が、口から半分ほど抜けかけた。
神聖のバーゲンセールを始めた元・女神が、今やトレンドに群がるイナゴと化し、あろうことか王道勇者たる自分まで『有能ドS執事』という属性の闇鍋へ放り込もうとしている。
そのあまりにも自己中心的な未来設計に、目眩すら覚えた。
「俺は、流行ってるから勇者になりたかったわけじゃありません」
思わず漏れた声は、自分でも意外なほど低かった。
クラウディアが、わずかに目を見開く。
「俺は最初から、王道ファンタジーの主人公として生まれたんです。聖剣を振るい、仲間と旅をし、魔王を倒して世界を救う。それが俺の物語だった。流行が変わったからって、悪役令嬢の執事だの、追放勇者だの、スローライフだのに、そんな簡単に乗り換えられるほど器用じゃない」
口にしてから、セシル自身もほんのわずかに黙った。
だが、その沈黙の意味を考える前に──
「じゃあ、お金貸して?」
「人の話聞いてました?」
すべてが台無しだった。
セシルは地球の裏側まで届きそうな深いため息と共に、胸元から生活感あふれるがま口財布を取り出した。
「……お金を貸すのは、これが本当に、地球がひっくり返っても最後ですからね。これでも俺は、ここの手取り十五万の薄給で泣く泣くプロテイン代を削って生きているんです。これでまずはパチンコ屋ではなく衣料品店に行き、村人Aにふさわしい『布の服(防御力一)』と『実家のお母さんがつけてそうなエプロン』でも買いなさい」
差し出された数枚の硬貨を見た瞬間、クラウディアの目がパチスロの確定演出ばりにキラキラと輝いた。
「さすがセシル! 話がわかるぅ! もしこれで私が悪役令嬢として転生できたら、セシルのことも『ちょっと顔が良いだけの通りすがりのモブ勇者枠』で出してあげるからねぇぇー!」
クラウディアは、セシルが差し出した硬貨を野生のハイエナのような速度で強奪すると、お礼もそこそこに出口へと颯爽と駆け出していった。
「……あの女、絶対にまたスるな」
再び胃の奥から襲い来るギリギリとした痛みに歯を食いしばりながら、セシルは重い足取りで第七窓口へ戻っていく。
「……誰か俺に、胃薬のヒールをくれ」
その願いだけが、今日も虚しく編纂局の天井へと消えていった。
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作者が泣いて喜びます。たぶんセシルの胃も少しだけ回復します。




