第85話:狂犬の帰還と、鏖殺の荒野
その振動を足の裏に感じたのは、スーからハーン国の情勢を聞き出していた最中だった。
「……来るぞ」
岩陰で警戒に当たっていたザラが、地平線の彼方を睨みつけながら低く唸った。
乾いた風に乗って、微かな土煙が上がっている。それはやがて明確な地鳴りへと変わり、赤茶けた渓谷を埋め尽くすような規模の集団が姿を現した。
「あれは……さっきの奴らと同じ装束だな」
俺は岩の隙間から目を細めた。
ヴェラキラプトルのような騎獣に跨がり、槍や弓で武装した男たち。その数はざっと見て三十を下らない。一個小隊規模の軍勢だ。彼らが進む軌道は、一直線に先ほどの戦闘跡地――俺たちが三人の斥候を殺した場所へと向かっていた。
「血の匂いを嗅ぎつけてきたのか、それとも定期連絡が途絶えた斥候を探しに来たのか……。どちらにせよ、すぐに見つかる」
ザラが背中の大剣に手を掛けた。
この遮蔽物の少ない荒野で逃げたところで、騎獣の機動力を持つ三十人の目から逃れきれるわけがない。いずれ捕捉され、背後から狩られるだけだ。ならば、地の利があるうちに迎え撃ち、機先を制するしかない。
戦術の基本だが、俺の腰の剣から手は動かなかった。数時間前、たった一人の見知らぬ賊を前にして金縛りに遭った記憶が、泥のように身体を重くしていた。
「……ケントはここでスーを守れ。あっちはアタシがやる」
ザラは俺の顔を一瞥することもなく、ただ静かにそう告げた。
「馬鹿言え。一人で一個小隊を相手にする気か? いくらお前でも――」
「アタシがやると言っているだろ?」
有無を言わさぬ強い口調だった。彼女は足元の死角に身を潜めるスーに「隠れていろ」と目配せすると、繋いでいた騎獣の一頭に跨がった。
「来い。……ここからは私の戦場だ」
ザラは騎獣の腹を蹴り、猛然と岩陰から飛び出していった。
砂塵を巻き上げながら、単騎で三十人の軍勢へと突撃する。その姿を、俺はただ安全な場所から見送ることしかできなかった。己の不甲斐なさに吐き気がした。
崖下で、衝突が起きた。
先頭を進んでいた敵の斥候がザラに気づき、槍を構えて向かってくる。ザラは騎獣を疾走させたまま、すれ違いざまに大剣を薙いだ。甲冑ごと胴体を両断された男が、悲鳴を上げる間もなく吹き飛ぶ。
「ハァッ!」
血飛沫をくぐり抜けながら、ザラは空いた左手を前に突き出した。
放たれたのは中級の火魔法。紅蓮の炎が散弾のように広がり、後続の騎獣数頭を焼き払う。パニックに陥った敵陣のど真ん中に飛び込むと、ザラは自らの騎獣から飛び降りた。
インナーバフによる魔力強化。地面を蹴るたびに岩盤が砕け、常人の目には捉えられない速度で彼女は敵の間を縫うように疾走した。
大剣の重い一撃が男たちの首を刎ね、左手から放たれる細かい火魔法が彼らの顔面を灼き潰す。
流れるような蹂躙。戦女神の異名に違わぬ、圧倒的で無慈悲な戦闘だった。このままザラが押し切る。そう思った矢先だった。
――ガンッ!!
鈍い音と共に、ザラの身体が空中で不自然に弾き飛ばされた。
「っ……!?」
ザラが苦悶の声を上げ、地面を転がる。彼女がいた空間には、魔法陣の光も、飛来する矢も見えなかった。だが、確実に何らかの強力な衝撃が彼女を襲ったのだ。
ザラはすぐさま身を起こし、近くに転がっていた騎獣の死骸の裏へと身を隠した。
直後、その死骸の肉が、まるで目に見えない巨大なやすりに掛けられたように、凄まじい勢いで削り取られ始めた。
見えない魔法攻撃。おそらく、風属性を極限まで圧縮したようなものだ。肉が削れる不気味な音が響き、ザラを庇う騎獣の盾はみるみるうちに小さくなっていく。
「くそっ……」
深手を負ったのか、ザラの息が上がっている。彼女は盾が消滅する前に別の岩陰へ移動しようと、地を蹴って飛び出した。
だが、見えない攻撃に足止めされていた数秒の間に、敵の包囲はすでに完了していた。
「ギョロオォッ!」
ヤーマン族の男たちが奇声を上げ、四方から一斉に金属の重りがついた『網』を投擲した。
空中で回避する術を持たないザラは、網に絡め取られ、無惨に赤土の大地へと引き倒された。もがけばもがくほど、網に仕込まれた返しが肉に食い込む。
「ザラ……!」
俺は岩陰から飛び出そうと、腰の剣を掴んで腰を浮かせた。
だが、地面に押さえつけられたザラが、鋭い視線で俺を睨みつけた。
『動くな』。その目が、明確にそう告げていた。
今出てくれば、人を斬れない俺まで無駄死にする。彼女は自分が捕らえられる状況になってもなお、俺の命を優先しようとしていた。
網に絡まり身動きが取れないザラを、ヤーマン族の男たちが取り囲んだ。
彼らは武器を下ろし、品定めするようにザラを見下ろしている。異国の彫りの深い顔立ちと、戦士としての引き締まった身体。男たちの口から、下劣で好色な笑い声が漏れ始めた。一人がザラの胸元に手を伸ばし、革鎧を乱暴に剥ぎ取ろうとする。
その時、群れを割って一人の男が前に出た。
他の者よりも豪奢な羽飾りを身につけ、顔に複雑な刺青を刻んだ大柄な男だ。指揮官なのだろう。彼が低く何かを命じると、手を出そうとしていた男たちが一歩下がった。
指揮官の男はザラの顔を覗き込み、ニヤリと笑って、ヴェレツケール語ではない彼らの言語で何かを囁きかけた。
「……ペッ」
ザラは顔色一つ変えず、男の顔に唾を吐き捨てた。そして、侮蔑を含んだ冷たい目で嗤った。
男の顔から笑みが消えた。
次の瞬間、振り上げられた丸太のような拳が、容赦なくザラの頬を殴りつけた。
ゴッ、という重い音が響き、ザラの口から鮮血が飛んだ。網に包まれた身体が地面を転がる。男はなおも怒りに任せ、彼女の腹を蹴り上げようと足を振り上げた。
――その光景を見た瞬間だった。
ぷつんと切れるようなこともなく、怒りで視界が真っ赤に染まるような、そんな熱い感情でもなかった。
もっと冷たく、暗く、重たいものがせり上がってくる。
俺は、岩陰に隠れたまま、自分の手を見る。
震えは止まっていた。
コーレルに呪いを掛けられてからずっと、俺は「相手にも事情があるんじゃないか」「命を奪う権利が俺にあるのか」と、偉そうに他人の命の重さを慮っていた。善人ぶって、高尚な悩みを抱え込んでいた。
……馬鹿馬鹿しい。
なんだ、俺そんな立派な人間だったか?
俺は元々はあのクズのガルドの下で、自分とニナが生き残るためだけに生きてきたはず。
自分の愛する身内さえ笑って無事なら、知らない奴なんてどう死のうが、どれだけ理不尽に消し飛ぼうが、本当にどうでもよかったはずだ。
俺がムカついたから殺す。俺の居場所を脅かすから殺す。
それ以上の理由なんて、一度だって必要としたことはなかったじゃないか。
「……あァ、そうか」
俺の口から、冷たい吐息が漏れた。
コーレルに掛けられた呪いが、ボロボロと音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
「何、悩んでたんだろ」
剣は抜かなかった。そんな面倒なものを使う必要すらない。
魔力回路を全開にする。全身の細胞にインナーバフの魔力が駆け巡り、心臓が爆発的な鼓動を打つ。
ドンッ!!
岩が砕ける轟音と共に、俺は崖下へと跳躍した。
重力とインナーバフの加速を乗せた俺の身体は、砲弾のような速度で敵の集団の中心――ザラを蹴り上げようとしていた指揮官の目の前へと着地した。
「なっ!?」
指揮官が驚愕の声を上げる間すら与えない。
俺は無造作に右腕を伸ばし、掌底の要領で男の顔面に掌を叩きつけた。同時に、極限まで圧縮した『指向性爆鳴気』を掌から解放する。
ドムッ!!
くぐもった破裂音。
指揮官の頭部が、まるで熟れた果実のように吹き飛んだ。血と骨の破片が後方の男たちに降り注ぎ、首なしの死体がドサリと崩れ落ちる。
「アァァァッ!?」
突然の仲間の死に、周囲の男たちが悲鳴を上げて武器を構えた。
「うるせえよ」
俺は振り返りざまに、左の掌を別の男の胴体に押し当てた。爆鳴気。上半身と下半身が泣き別れになり、男の臓物が宙を舞う。
二人、三人、四人。
呼吸をするように、ただ歩きながら掌を突き出すだけで、人が弾け飛んでいく。
数人が俺から距離を取り、詠唱のようなものを始めた。先ほどザラを削った、あの不可視の魔法攻撃だ。
俺は彼らの方へ右手をかざし、出し惜しみなく魔力を注ぎ込んだ。
「【広域爆鳴気】」
空気が軋むほどの圧縮。そして、点火。
大気を震わせる巨大な爆発が起こり、詠唱していた魔法使いたちが、岩盤ごと塵となって吹き飛んだ。熱波が周囲の騎獣たちをパニックに陥らせ、隊列は完全に崩壊した。
圧倒的な蹂躙。
俺は残る男たちを見渡し、首をボキリと鳴らした。
「てめえら、ムカついたから皆殺しだ」
そこからは、戦闘ですらなかった。ただの『処理』だ。
俺はインナーバフの速度で敵の間を駆け抜け、ただ掌を触れては爆発させるという単純作業を繰り返した。慈悲も躊躇いもない。俺の女を殴った。その事実だけで、こいつらが生きている理由を奪うには十分すぎる。
数分後。
赤茶けた渓谷は、血の池と黒焦げの肉片で覆い尽くされていた。
生き残っているのは、俺が意図的に『処理』を後回しにした一人だけだ。副官らしき男が、腰を抜かして這いずって逃げようとしていた。俺は男の背中に足を乗せて踏みつけ、その頭部に手をかざした。
「情報を吐く口は一つでいい。だが、面倒な反抗をされても困る」
俺は男の頭部周辺の空気を『風魔法』で操作し、一瞬にして真空状態を作り出した。
男は目を剥き、声にならない悲鳴を上げながら喉を掻きむしり、数秒で白目を剥いて気絶した。これで情報源の確保は完了だ。
俺は血に染まった手を払い、網に絡まったままのザラの元へと歩み寄った。
短剣で網を切り裂き、彼女を抱き起こす。
「……遅えぞ、ケント」
ザラは口元の血を拭いながら、俺を見上げてフッと笑った。
その顔は殴られて腫れ上がっていたが、瞳には俺に対する恐怖も、過剰な暴力を責める色もなかった。
「悪かった。ちょっと、自分の馬鹿さに呆れてた」
俺は短く謝罪し、ザラの怪我の具合を確認した。打撲だけでなく、あの見えない魔法で削られた箇所や網の鉤で深く抉れている。持っているポーションでは足りなくて完全に塞ぎきれない。
「私が治すわよ!」
その時、岩陰に隠れていたスーが、パタパタと少し羽ばたきながら小走りで駆け寄ってきた。
「スー……お前、治癒魔法が使えるのか?」
「当たり前じゃない! 妖精は生命の魔力に長けてるのよ。だからあのヤーマン族の連中は、怪我を治すための『便利な携帯医療器具』として私を鳥かごに入れて持ち歩いてたのよ」
スーはむすっとした顔で言いながらも、小さな両手をザラの傷口にかざした。
淡い緑色の光が溢れ、削られた肉が目に見えて再生し、腫れ上がっていた頬も元通りになっていく。ポーションとは比べ物にならない、超高位の治癒魔法だった。
「これで、お互いの貸し借りはなしね」
ふう、と息をつくスーに、俺は素直に頭を下げた。
「助かった。……さて」
ザラが立ち上がり、俺の隣に並ぶ。
俺たちは、足元で気絶している副官の男を見下ろした。
「言葉が通じるなら話は早い。スー、こいつを起こしてくれ。尋問の時間だ」
俺とザラの異郷での冒険が、ここから始まる。




