第82話:未踏の境界
王都魔法学園の初級ダンジョンは、かつて俺とシャルが帝国の罠によって死にかけた因縁の場所だ。
だが、今のそこには、あの時の張り詰めた空気など微塵も残っていなかった。
冷たく湿った石造りの通路を進む。
時折、前方の闇からぶよぶよとした半透明の塊――低級モンスターであるスライムが這い出てくるが、俺が指を鳴らすまでもない。腰の剣を抜くことすらなく、インナーバフで強化した脚で無造作に踏み潰すだけで、スライムはただの粘液となって床に散り、ゴブリンも蹴りで処理していく。
俺の後ろを歩くザラも、ゴブリンが出た時以外は、大剣を背負ったまま、淡々と周囲の警戒を続けている。
道中、魔物の処理や進路の確認といった最低限の言葉は交わすものの、それ以上の会話は一切なかった。馬車の中での静けさが、そのままこの薄暗い地下迷宮の中まで引き継がれている。
安全な退屈な作業だからこそ、かえって二人の間にある気まずい距離感が際立っていたのだが、ザラの様子がおかしい。
いくつかの角を曲がり、俺たちは第五階層の行き止まり、すなわちこのダンジョンの最奥とされる小部屋へと辿り着いた。
部屋の壁面は、かつて俺達が罠に落ちた時に、手掛かりを探すために軍の手によって調査された痕跡が残っている。
「……よし。第五階層の最奥まで異常なし、だな」
俺は懐から記録用の羊皮紙を取り出し、炭ペンで短くチェックを入れた。
「罠の残骸も完全に処理されているし、魔物の湧きも正常だ。これで調査は終了だな。地上に戻ろう、ザラ」
そう言って俺が踵を返そうとした、その時だった。
ザラが部屋の入り口付近で足を止め、じっと正面の壁面を見つめたまま動かなくなった。
「どうした?」
「……少し待ってくれ。このダンジョンはやはりおかしい。それに、この部屋の突き当たりの壁が引っかかる」
「壁が?」
ザラは背中から使い込まれた大剣を引き抜き、その先端で突き当たりの分厚い岩盤を軽く小突いた。コン、コン、と硬い石の音が室内に響く。
彼女は鋭い目で壁面の凹凸や、岩の合わせ目を凝視していた。
「何が気になるんだ? ここは最初から行き止まりの部屋として記録されているはずだが」
「そこだ。元冒険者としての直感だが、普通のダンジョンの突き当たりは、ボスクラスの魔物がいる小部屋か、あるいは明確な宝箱の設置場所になっていることがほとんどだ。だが、この部屋はただ通路が唐突に途切れたような、不自然な形状をしている」
ザラは壁に手のひらを当て、じっと目を閉じて感覚を研ぎ澄ませた。
「それに、もう一つ決定的な違和感がある。……このダンジョンは、とうの昔に『ダンジョン核(魔石)』が抜き取られ、学園の産業として管理されている、いわば枯れた迷宮だろう?」
「ああ。核がないから強力な魔物は生まれず、学園生が安全に訓練できるように調整されているはずだ」
「なら、なぜ道中にゴブリンが出たんだ?」
「……ゴブリンがどうかしたのか?」
「スライムのような、環境の澱みから自然発生するような低級の魔物なら分かる。だが、ゴブリンのような亜人種の魔物は、ダンジョン核の魔力供給による個体の『ポップ』がなければ、この閉鎖された空間に存在するはずがない。外から侵入した形跡がない以上、この奥に、私たちが知らない『未だ生きているダンジョン核』が存在しているとしか思えない」
俺はザラの言葉を頭の中で素早く組み立てた。
ダンジョンに核がないのにゴブリンがポップする。なぜ今までその違和感に気づかなかったのか。理由はすぐに思い至った。
「……組織の盲点、か」
俺はぽつりと呟いた。
このダンジョンをこれまで利用してきたのは、主に王都魔法学園の生徒たちだ。彼らはそのほとんどが貴族の嫡男や令嬢であり、卒業後に命を懸ける冒険者になる者など滅多にいない。仮に冒険者になった人間がいたとしても、ダンジョンを踏破するような最前線に立つ前に引退するか、あるいは踏破を経験した頃には学園を卒業して何年も経っている。そのため、実戦のプロとしての知識を持った状態でこの場所を訪れ、違和感を抱く人間が物理的に存在しなかったのだ。俺にしても、学園の教科書通り、このダンジョンは『最初から五階層までしかない枯れた迷宮』だと完全に誤認し、それを疑うことすらしなかった。
そして、前回の事件。
シャルが行方不明になったという情報の秘匿の為に、調査を任されたのは、冒険者ギルドではなく『正規軍』が主体だった。
軍とはあくまで「敵軍の排除」の為の組織だ。彼らは魔法陣の痕跡を探す程度の任務には秀でていたが、ダンジョンの生態系や構造的な不自然さを探るような、冒険者のプロとしての目を持っていなかった。
つまり、この魔法学園の初級ダンジョンは、誰も全容を掴んでいない『未踏破迷宮』だったのだ。
「……ケント、下がってくれ。一度、確かめる」
ザラは大剣を両手で構え、腰を深く落とした。
インナーバフの魔力が彼女の身体を巡り、大剣の刃が微かに鳴動する。
「フンッ!!」
凄まじい風切り音と共に、ザラの大剣が突き当たりの分厚い岩壁へと叩きつけられた。
硬質な石と鋼が激突する轟音が狭い小部屋に爆発的に響き渡る。並の岩であれば一撃で粉砕するはずのザラの一撃だったが、壁面には数本の亀裂が走っただけだった。
だが、その直後。
――ゴォォォ、ン……。
岩盤の遥か奥深くから、低く、鈍い反響音が伝わってきた。
間違いない。この極厚の岩壁の向こう側には、明らかに広大な『空洞』が存在している。
「やはりな。この奥に、まだ続きがある」
ザラは大剣を引き、ふぅと息を吐いた。
「……ケント。安全確認の調査としては、ここまでだ。この事実は一度地上に戻り、シャルム陛下と学園側に報告すべきだろう。未踏破のエリアが存在するとなれば、初級としての再開放は見送らざるを得ない」
それが、ベテラン冒険者としての、そして俺の護衛としての正しく、理性的な判断だった。
普段の俺であれば、「そうだな。面倒な仕事は大人に任せよう」と即座に同意して引き返していただろう。
だが、俺の口から出たのは、自分でも驚くほどバカな言葉だった。
「……いや。少しだけ、壁を壊してみないか?」
「何?」
ザラが驚いたように目を丸くした。
「報告すれば、当然このダンジョンは完全に封鎖され、軍や高ランクの冒険者ギルドによる大規模な調査団が組織される。そうなれば、俺たちがここに入る機会は二度とない。……それに」
俺は言葉を切り詰め、首筋の塞がった傷跡に視線を落とした。
「地上に戻れば、またあの息の詰まるような日常が待っている。……これが終わったら、お前は俺の前から消えるつもりなんだろ?」
「っ……!」
ザラが息を呑み、身体を硬直させた。
俺が無意識に首筋を触る癖を見るたびに、彼女がどれほど深い自責の念に駆られていたか。そして、この任務が終わったら俺の元を去ろうと決意していたか。
俺は、分かっていた。言葉にしなくとも、彼女の静かすぎる佇まいがすべてを物語っていた。
俺自身、彼女との距離感をどう掴めばいいか分からず、コーレルの呪いに巻き込まれたままだ。だが、だからといって、彼女が俺の傍からいなくなることを、俺のエゴが、どうしても受け入れようとしなかった。
「これが最後になるかもしれないなら、なるべく、この時間を引き延ばしたい」
俺の本音だった。ただの、往生際の悪い男の我が儘だ。
ザラはじっと俺の目を見つめていたが、やがて、困ったように、それでいてどこか愛おしそうな、かつての彼女らしい苦笑を浮かべた。
「……本当にお前は、時折とんでもない我が儘を言うな、ケント」
「嫌か?」
「まさか。お前がそう言うなら、付き合うに決まっている。私も……もう少しだけ、お前の傍にいたいと思っていたところだ」
ザラが大剣を背中に戻し、一歩下がって空間を空けた。
二人の間にあった気まずい空気は消えていない。コーレルの呪いはまだそこにある。だが、「終わりを伸ばしたい」という一点において、俺たちの利害は完全に一致していた。
「よし、やるか」
俺は壁の前に立ち、両手を突き出した。
魔力3000の出力を、体内で精密にコントロールする。
使うのは、断熱圧縮による『爆鳴気』。だが、ここでただ爆発させれば部屋ごと崩落して俺たちが生き埋めになる。
俺は壁面の亀裂に向けて、魔力の指向性を極限まで絞り込んだ。
「【指向性爆鳴気】、および――【浸透性爆鳴気】」
指を鳴らす。
ドッ、という、鼓膜を圧迫するような低い振動波が放たれた。
爆発のエネルギーは前方のみへと指向され、さらにザラの一撃によって生じた岩の隙間から、気体分子の運動となって岩盤の『奥』へと急速に浸透していく。
岩の内部で急激に高まった圧力と熱が、内側から岩石の結合を強引に破壊していく。
メリメリ、と不快な地鳴りが響き、直後、ズゥンという重い音と共に、数メートルの厚さがあった岩壁が、目の前でボロ雑巾のように崩れ落ちた。
立ち込める濃い土埃の向こう側から、ひんやりとした、しかし完全に乾燥した空気が流れ込んでくる。
俺とザラは、警戒を怠らずにその穴の向こうへと足を踏み入れた。
「……これは、何だ?」
ザラが呆然とした声を上げた。
そこは、先ほどまでの学園のダンジョンとは、明らかに異質な空間だった。
通路の壁面は滑らかな未知の金属で覆われ、天井には魔力によって淡く発光する幾何学的な紋様が描かれている。ノキア王国でも、あるいはウル帝国でも見たことがない、高度で滅び去っただろう過去の文明の意匠。
古代の遺跡。それが、初級ダンジョンの最奥に隠されていたものの正体だった。
俺とザラは、その圧倒的な光景に目を奪われ、引き込まれるように中へと進んだ。
壁面に刻まれた、奇妙な文字のような浮き彫り。俺が何気なく、その冷たい金属の表面に触れ、指先でなぞった、その瞬間だった。
ガガガガガッ!!
背後から、凄まじい金属摩擦音が響き渡った。
驚いて振り返ると、今しがた俺たちが爆破して潜り込んできたはずの破壊跡に、天井から厚厚とした金属製の隔壁が急速に降りてきていた。
「しまっ……! 罠か!」
「ケント、戻れ!」
ザラが手を伸ばしたが、隔壁が閉じる速度の方が圧倒的に早かった。完全に退路を断たれる。
だが、俺は懐へと手を突っ込み、一秒の猶予もない中で、ある『代物』を取り出した。
学園の変態技術者、オリヴィア先生が手慰みに作った『警報発令装置』。
魔力を流して設置すれば、特定の周波数の魔力波を周囲に撒き散らし、異常を知らせるためだけの試作品だ。万が一の保険として持ってきていたそれを、俺は起動させる。
「シャル、セリーナ……気づけよ!」
俺は装置に自身の魔力を一気に流し込み、完全に閉じきる直前の、わずか数センチの隔壁の隙間へと、力任せに放り投げた。
カラン、と装置が向こう側の床に転がる音が聞こえ、直後にガキン、と重苦しい音がして、隔壁は完全に噛み合い、密閉された。
だが、部屋の異変はそれだけでは終わらなかった。
俺が装置を起動するために流した魔力――それが、この遺跡のシステムに『起動コード』として機能してしまったらしい。
キィィィィン……!
耳鳴りを誘発するような高い駆動音と共に、金属の壁面に描かれていた幾何学模様が、目も眩むような鮮やかな青色の光を放ち始めた。
「周囲の魔力濃度が急上昇している! ケント、私の後ろへ!」
ザラが大剣を構え、俺を背中に庇う。
しかし、敵が襲ってくる気配はなかった。代わりに、俺たちの足元から、奇妙な感覚が突き上げてきた。
「……浮いているのか?」
「いや、これは……」
胃袋がふわりと持ち上がるような、強烈な浮遊感。
凄まじい速度で上昇しているのか、あるいは落下しているのか、上下の感覚すら曖昧になるほどの空間の歪み。壁面の青い光が引き伸ばされ、視界が完全に光の渦で塗りつぶされていく。
転移の罠。それも、かつて帝国が仕掛けたような稚拙なものではない。この遺跡そのものが、巨大な移動装置として機能しているのだ。
俺はザラの腰を強く抱き寄せ、インナーバフを最大に展開して衝撃に備えた。
ザラもまた、俺の身体を強く抱き返す。フェナブでの一件以来、これほど互いの体温を近くに感じたのは初めてだった。
どれほどの時間が経っただろうか。
不意に、すべての浮遊感が消失し、足元にどっしりとした床の感触が戻ってきた。
それと同時に、周囲を包んでいた眩い青い光が霧散し、正面にあった金属の隔壁が、プシューという空気の抜けるような音と共に、ゆっくりと左右に開き始めた。
「……終わった、のか?」
ザラが警戒を解かないまま、低い声で呟く。
「分からない。だが、警戒は解くなよ」
俺たちは剣を構えたまま、開かれた扉の向こう側へと、慎重に歩みを進めた。
遺跡の通路と思われる、長い金属の回廊が前方へと伸びている。その先から、遮るもののない、強烈な太陽の光が差し込んでいるのが見えた。
さっきまで、俺たちは陽の光の届かない地下深くにいたはずだ。
通路を抜け、外へと出た瞬間。
俺とザラは、完全に言葉を失ってその場に立ち尽くした。
「……な、んだ。ここは……」
ザラの口から、呆然とした呟きが漏れる。
眼前に広がっていたのは、ノキア王国のどこを探しても存在しない、圧倒的な大自然の驚景だった。
果てしなく続く、赤茶けた岩肌の断崖絶壁。
何万年もの歳月をかけて大地の侵食によって削り取られたのだろう、幾重にも層を成した巨大な渓谷が、地平線の彼方まで延々と広がっている。
遥か遥か下方には、濁った大河が蛇行しながら流れており、吹き抜ける乾燥した強風が、乾いた砂の匂いを俺たちの鼻腔へと運んできた。
それは、前世の記憶にある『グランドキャニオン』を思わせる、世界の果てのような荒野だった。
学園の初級ダンジョンからは、完全に隔離された未知の土地。
俺とザラは、抜けるような青空と、牙を剥くような大渓谷の狭間で、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
ここから始まる、言葉も通じない異郷での、狂犬と戦女神の冒険の幕開けを、この時の俺たちはまだ知らなかったのだ。
【おしらせ:唐突に新連載始めました!】
いつも本作を応援いただき、本当にありがとうございます!
このたび、箸休めな新作を立ち上げてしまいました!
『おっさん、異世界で魔法を覚える。そして嫁連れて帰ってきちゃった。昭和に…』
https://ncode.syosetu.com/n5921mi/
100年分の魔法と最愛の嫁を抱えたおっさんが、1980年代の日本や世界をのんびり(時に過激に)謳歌する、気ままな逆転帰還ファンタジーです!
本作の更新の合間に、ぜひこちらの夫婦漫才も覗きに来てやってください!




