第81話:呪いの残響と、俺とザラの迷宮
フェナブの港町から王都のヴォルガン伯爵邸へ帰還して数日が経過しても、俺の首筋に張り付いたひんやりとした感触は、一向に消える気配がなかった。
物理的な傷は、すでにポーションによって完全に塞がっている。鏡を見ても、うっすらとした白い線が残っているだけで、他人が見ればただの古傷だ。
だが、ふとした瞬間に、あの時の生温かい唇の感触がフラッシュバックする。
「……はぁ」
執務室の机で、領地からの報告書に目を通しながら、俺は無意識のうちに首筋の傷跡を指でなぞっていた。
考え事をしている時や、少し疲労を感じた時、気づけば右手が首元に伸びている。完全に悪い癖になっていた。
コン、と短いノックの音が響き、執務室の扉が開いた。
「ケント。今月の王都近郊の治安維持に関する報告書を持ってきた」
入ってきたのはザラだった。手にした羊皮紙の束を携え、静かな足取りで机へと近づいてくる。
「ああ、ご苦労さん。……そこへ置いておいてくれ」
「分かった」
ザラが報告書を机の端に置く。その短いやり取りの間、彼女の視線がふと、俺の首元――傷跡をなぞったままになっていた俺の右手に向けられた。
ザラの瞳が、ほんのわずかに揺れる。
俺はハッとして手を下ろしたが、ザラはすでに視線を外し、床へと目を伏せていた。
「ほかに何か急ぎの案件はあるか?」
「いや。……ケント、少し休んだ方がいい。顔色が悪いぞ」
「そうだな。この書類が終わったら少し横になるよ」
「……じゃあ何かあったら呼んでくれ」
それ以上言葉を交わすことなく、ザラは踵を返し、静かに執務室から出て行った。
扉が閉まる音を聞きながら、俺は深々とため息をついた。
ザラとの間に、まるで見えない薄いガラスが一枚挟まっているような、そんな気まずい距離感がずっと続いている。彼女が俺を避けているわけではないが、以前のような軽口や、密着してくるようなスキンシップはぱったりと消えていた。
「……最近、ケント様もザラさんもなんだか変ですぅ」
後から紅茶を淹れに来たレナが、カップを置きながら少し膨れた顔で文句を言ってきた。
「お茶を出してもずっと気まずそうに黙ってますし、ザラさんに至っては、夜の警護の交代も私に押し付けてきたりして……。ケント様、ザラさんと喧嘩でもしたんですか?」
「喧嘩なんてしてないさ。ただ……少し、お互いに考え事が多いだけだ」
俺が曖昧に言葉を濁していると、開け放たれた扉からセリーナが優雅な足取りで入ってきた。その手には、王家の蝋印が押された一通の書状が握られている。
「あらあら、レナ。あまりケント君を困らせては駄目よ。彼には今、王宮から新しいお仕事が舞い込んできたところなのだから」
「王宮から?」
「ええ。シャルム陛下からの親書よ」
セリーナから書状を受け取り、封を切って目を通す。
そこには、俺の悪友である若き王からの『依頼』が記されていた。
『王都魔法学園が管理する初級ダンジョンの、安全確認調査を頼みたい』
学園の初級ダンジョン。
それはかつて、俺とシャルが帝国の差し金によって起動した転移の罠に掛けられ、死にかけた因縁の場所だった。
あの事件以降、安全上の理由からダンジョンは長期にわたって閉鎖されていたのだが、学園側から「生徒の実技訓練の場として再開放したい」という強い要望が出ているらしい。
再開放にあたって最終的な安全確認を行いたいが、学園は自治権を持つ特区であり、正規軍や冒険者ギルドの人間を大々的に入れるのは政治的な調整が面倒だ。
そこで白羽の矢が立ったのが俺だった。ノキアの最高戦力の一人であり、爵位を持つ貴族であり、何より(留年しているとはいえ)学園に籍を置く生徒である。自治権の兼ね合いをクリアしつつ、確実な調査ができる人材として、これ以上ない適任というわけだ。
「……なるほどな。シャルの奴、相変わらず人使いが荒い」
俺は親書を机に放り投げた。
だが、今の気詰まりな屋敷の空気から逃れる口実としては、悪くない話だった。
その日の夜。俺は客間にセリーナとザラを呼び、シャルからの依頼について説明した。
「というわけで、学園のダンジョンに潜ることになった。シャルが飛ばされた時に軍が散々底まで調査して、帝国の罠も排除済みだ。危険はないただの形式的な安全確認だが、一応元冒険者の二人にも同行してもらいたい」
俺の言葉に対し、部屋の壁際に立っていたザラが、すかさず首を横に振った。
「……アタシは、屋敷の警護に残ろう。ダンジョンの調査なら、セリーナがいれば十分だろ?」
「ザラ?」
「今のアタシじゃ足手まといになるかもしれないからな。ケントとセリーナの二人で行ってくれ」
視線を逸らし、同行を辞退するザラ。その声には、明らかな自己否定の色が滲んでいた。
俺がどう言葉を返すべきか迷っていると、ソファーに腰掛けていたセリーナが、わざとらしく「あら」とため息をついた。
「それは困ったわね。私、ちょうどケント君にお休みを貰おうと思っていたところなのよ」
「休み? セリーナさんがですか?」
「ええ。フェナブの視察でバタバタしていたけれど、元々は私が管理していたバロッサ子爵領の商会の引き継ぎ業務が残っているの。書類のサインや向こうの商人との顔合わせで、どうしても数日は王都を空けなければならないわ」
セリーナは手にした扇子をパチンと閉じ、立ち上がってザラの肩にそっと手を置いた。
「だから、悪いけれどダンジョンの同行はザラにお願いするわね。ケント君も最近はずっと執務室に籠もりきりで体が鈍っているでしょう? 形式的な調査とはいえ、二人で少し身体を動かして、外の空気を吸っていらっしゃい」
ニコリと微笑むセリーナの瞳には、有無を言わさぬ大人の凄みがあった。
商会の引き継ぎなど、有能な彼女のことだからとうの昔に終わらせているはずだ。これは明らかに、俺とザラの二人が向き合う時間を作るための、彼女なりの気遣いだろう。
俺たち二人の間のどうしようもない距離感を察知し、「よりを戻すにせよ、決別するにせよ、ちゃんと二人で話し合ってきなさい」という、年長者としての強烈な後押し。
ザラもそれに気づいたのか、微かに唇を噛み締めた後、観念したように小さく息を吐いた。
「……分かった。アタシが行くよ」
数日後。王都魔法学園の敷地内にある初級ダンジョンへ向かう馬車の中。
向かい合わせの席に座るケントは、流れる窓の外の景色をぼんやりと眺めていた。その首元には、うっすらと白い傷跡が残っている。
ザラは、誰にも気づかれないように深く息を吸い込み、視線を膝の上に落とした。
(アタシは剣だ。好きな男の命を守り、立ちはだかる敵を斬り伏せるための刃だと思っていた)
フェナブの迎賓館での出来事が、彼女の脳裏に重くのしかかっている。
コーレルの背中を貫いた時の、あの生々しい肉の感触。
あの判断は間違っていなかったと、今でも思っている。もし自分が刺さなければ、ケントは確実に死んでいた。
だが、自分が刺したからこそ、コーレルは最後の力でケントに近づき、あの忌まわしい呪いの口づけを残すことができたのだ。
(ケントのことは愛している。……だけど、私を見るたびにあの女を思い出し、無意識に首筋の傷に触れる姿を、これ以上見てはいられない。アタシが傍にいることが、ケントを苦しめている)
ケントが書類仕事の合間に見せる、無意識の仕草。その度に、ザラの胸は刃で抉られるように痛んだ。
自分がケントの傍にいる限り、彼はコーレルの呪縛から逃れられないのではないか。そんな強烈な自責の念が、彼女の心を蝕んでいた。
(このダンジョン調査が終わったら、ケントの元を去ろう)
揺れる馬車の中で、ザラは密かに決意を固めた。
屋敷から荷物をまとめ、またかつてのように冒険者に戻るか、誰も知らない遠い国へ行こう。それが、不完全な剣であった自分が彼にしてやれる唯一の贖罪だ。
ケントへの想いを断ち切るように、ザラは強く拳を握りしめた。
馬車が止まり、俺とザラはダンジョンの入り口を覆う古びた石造りのアーチの前に立っていた。
「久しぶりだな、ここに来るのは」
「だけど、以前のような罠はないのだろう?」
「ああ。俺達が飛ばされた直後、近衛と軍の精鋭が最終の第五階層までさんざん調べ尽くしたからな。転移魔法陣は完全に破壊されているし、残っているのは、学園生が相手にするようなスライムや、低級のゴブリンくらいのものじゃないか?」
俺は肩の力を抜き、腰に下げた剣の柄を軽く叩いた。
軍の念入りな調査が完了しており、危険な罠は一切存在しない。ただの初級ダンジョンの見回り。俺とザラの実力からすれば、目をつぶっていても制圧できるような散歩道だ。
「まあ、気楽に行こう。危険はないただの消化試合だ。ちゃっちゃと一番下まで降りて、異常がないことを確認して帰るだけだ」
「……分かった。行こう、ケント」
ザラが静かに頷き、俺たちは薄暗い階段を下って、ひんやりとしたダンジョンの内部へと足を踏み入れた。
安全が保証された、閉鎖空間の迷宮。
この地下で、俺たちがただ何事もなく無事に帰れるはずがないことなど、後になってみれば嫌というほど思い知らされることになるのだが。
今は互いに腹の底に重い感情を抱えたまま、静寂に包まれた迷宮の奥へと歩みを進めていった。
【おしらせ:唐突に新連載始めました!】
いつも本作を応援いただき、本当にありがとうございます!
このたび、箸休めな新作を立ち上げてしまいました!
『おっさん、異世界で魔法を覚える。そして嫁連れて帰ってきちゃった。昭和に…』
https://ncode.syosetu.com/n5921mi/
100年分の魔法と最愛の嫁を抱えたおっさんが、1980年代の日本や世界をのんびり(時に過激に)謳歌する、気ままな逆転帰還ファンタジーです!
本作の更新の合間に、ぜひこちらの夫婦漫才も覗きに来てやってください!




