第80話:消えない紅
マセック前国王の巨体が血の海に沈み、痙攣を止めた。
その光景を冷ややかに見下ろしたコーレルは、ゆっくりと顔を上げ、手にした騎士剣の切っ先を俺へと向けた。
ノキアの伯爵である、俺の心臓へと。
迎賓館のメインホールには、テロリストたちの自爆の巻き添えになった死体と、むせ返るような血と火薬の匂いが充満している。生き残った文官や大使たちは、ザラやセリーナの背後で恐怖に身を寄せ合って震えていた。
遠くから、フェナブの治安維持部隊が迎賓館を取り囲む軍靴の音が聞こえる。
もう、彼女に逃げ場はない。
そして何より、俺と彼女の間には、埋めようのない圧倒的な実力差があった。
「……剣を置け」
俺は低い声で告げた。
「前王を殺したんだ。本望だろうが、死なせるわけにはいかない」
魔封じの魔道具が作動しているとはいえ、俺にはインナーバフによる身体強化がある。対して彼女は、ただの少女だ。戦闘訓練など受けていないことは、その重い騎士剣を支える腕の震えを見れば明らかだった。
俺が本気で踏み込めば、彼女が反応するよりも早く腕の骨を砕き、無力化することができる。
コーレル自身も、その絶望的な実力差を正確に理解していたのだろう。
だからこそ、彼女は狂った。
ふっ、と。
コーレルの顔から、一切の感情が抜け落ちた。
次の瞬間、彼女は俺へ向けていた騎士剣の柄を、無造作に逆手へと持ち替えた。
その際、鋭利な刃が彼女自身の細い指の肉を深く裂いたが、彼女は痛みに顔を歪めることすらなく、そのまま切っ先を自身の胸の中央へと向けた。
「なっ……!」
迷いは、一切なかった。
彼女は全体重を乗せて、勢いよく己の胸肉へと騎士剣を突き立てた。
ゴフッ、と彼女の口から大量の血が噴き出す。
致命傷には届いていないが、肺の端を掠めたのか、呼吸とともに赤い泡が溢れた。
コーレルは自らに剣を突き立てたまま、あっさりと柄から手を放した。重い騎士剣は、主の身体から抜け落ち、甲高い金属音を立てて血まみれの床へと転がった。
「馬鹿野郎っ!」
俺は血相を変えて床を蹴った。
首謀者である彼女に自害されれば、テロ組織の全容を掴む糸口が完全に断たれる。ノキアの治安維持という最大の目的を果たすため、俺は思考するよりも先に、倒れゆく彼女の身体を確保し、止血しようと懐へと飛び込んだ。
それが、罠だった。
実力差があるからこそ、俺が「生け捕りにしなければならない」という理性的で正しい判断を下すことを、彼女は完璧に読み切っていたのだ。
俺が彼女の肩を掴もうと身を屈めた瞬間。
崩れ落ちるコーレルの右手が、ドレスの腰元に滑り込み、隠し持っていた小ぶりの短剣を引き抜いた。
死に際の、残るすべての命の火を燃やした鋭い一撃。
刃の切っ先が、無防備に近づいた俺の首の動脈へと真っ直ぐに跳ね上がってくる。
(しまった……!)
インナーバフを展開していても、至近距離での不意打ちは避けきれない。
だが、その刃が俺の首の皮を一枚裂いた瞬間。
背後から、肉を貫く重く湿った音が響いた。
「が、はっ……」
コーレルの動きが、ピタリと止まる。
彼女の左胸から、鈍色の鋭い刃が突き出していた。
コーレル自身が床に落とした、フェナブ家の紋章が入った騎士剣。それを瞬時に拾い上げたザラが、一切の躊躇なく、コーレルの背中から心臓ごと深々と貫いていた。
「……甘いぞ、ケント」
ザラが冷徹な声と共に剣を引き抜く。
支えを失ったコーレルの手から短剣が滑り落ち、カラン、と乾いた音を立てた。
大量の血を流しながら崩れ落ちていく彼女の身体を、俺は咄嗟に抱きとめた。
「……っ、ザラ!」
「あれ以上は、お前が死んでいた。それに……彼女の目は、最初からここを『自分の死に場所』だと決めていた目だ」
俺の腕の中で、コーレルが浅く、ヒュー、ヒューとひどく掠れた息を吐いた。
もう助からない。心臓を破壊されている。それでも彼女は、最後の執念だけでゆっくりと右手を持ち上げ、俺の胸ぐらをきつく掴み込んだ。
力のない、しかし決して振りほどけない強さで。
コーレルの漆黒の瞳が、至近距離で俺を見つめている。
そこには、昨日街角で見せたような穏やかな光など欠片もなかった。底なしの泥のように深く、重い怨念。
彼女は、俺の首の傷から流れる血と、自身の口から溢れる血で赤く染まった指先を、ゆっくりと自身の唇に擦り付けた。
自らの血で、紅を差すように。
直後、彼女は顔を寄せ、俺の首筋の傷口に、その血塗れの唇を強く押し当てた。
焼き印でも押すかのような、生々しく生温かい口づけ。
そして、酷く美しく、恍惚とした笑みを浮かべた。
『……これで私の血が、一生あなたにこびりつくわね』
耳元で囁かれたその言葉は、まるで熱烈な愛の告白のように、甘く、そして残酷だった。
その直後だった。
俺の胸ぐらを掴んでいた彼女の手が、ドレスの胸元に隠されていた小さな金具へと伸び、カチリ、と硬い音を鳴らした。
(――爆弾か!)
「全員、伏せろッ!!」
俺は叫ぶと同時にインナーバフを限界まで引き上げ、腕の中にいるコーレルの身体を反対側に放り投げて床に伏せた。
閃光。
そして、内臓を揺らすほどの凄まじい轟音と衝撃波が、メインホールを吹き飛ばした。
俺の背中を、焼けるような熱と無数の破片が叩き打つ。身体強化がなければ、間違いなく大怪我だったろう。
煙と粉塵が舞う中、俺は咳き込みながらゆっくりと身体を起こした。俺の警告が間に合ったことで、背後にいたザラやセリーナ、文官たちに致命傷を負った者はいないようだった。
だが、俺の腕の中にいたコーレルの身体は、爆発の威力を全身に受け、ただの物言わぬ肉塊と化していた。
テロリストの首魁であり、俺を呪った復讐の魔女。
彼女の最期は、なんの奇跡も起きない、ただ残酷な死だった。
ふと、粉塵の舞う床に、何かがキラリと光った。
爆発で彼女のドレスから弾け飛んだのだろう。装飾の施された、古い銀のロケットだった。
衝撃で留め金が外れたのか、蓋が開いている。
俺は無言のままそれを拾い上げた。
ロケットの中には、小さな肖像画が収められていた。
そこに描かれていたのは、優しげな顔つきで微笑む、若き騎士の姿だった。
* * *
それから、三日が経った。
フェナブの迎賓館で起きた大規模なテロ事件は、当然のごとくノキアとマセック両国間に深刻な政治的混乱をもたらしていた。
「あれはマセックの前王への私怨による凶行だ! 我々ノキアは巻き込まれた被害者にすぎない!」
「馬鹿なことを! 現に前国王陛下はノキアの領地であるフェナブで命を落とされたのだぞ! 警備体制の不備は明白ではないか!」
「そもそも前王がフェナブの伯爵を理不尽に処刑したことがすべての発端だろうが!」
「言葉を慎みたまえ!」
連日行われている両国の会議は、互いの責任をなすりつけ合うだけの、不毛で醜悪な泥試合と化していた。
マセック側は前王の死を政治的なカードとして使い、ノキアへの賠償を要求する。ノキア側は警備の落ち度を認めず、テロリストがマセックの残党であることを盾に突っぱねる。
そこには、命を懸けて復讐を果たしたコーレルたちの絶望に対する恐れも、犠牲者への悼みも、何一つない。
彼女たちが残した命懸けの呪いすらも、この大人たちにかかれば、ただの都合の良い『政治の道具』として消費され、すり潰されていくだけだった。
俺は、テロの際に負った怪我の療養という名目で、その馬鹿馬鹿しい会議には一切顔を出していなかった。
実際に背中には爆発による酷い火傷と裂傷が残り、首筋には短剣で切られた刃の跡が塞がりきらずに残っていた。
心地よい海風が吹き抜ける、フェナブの迎賓館のバルコニー。
俺はそこに立ち、ただ街の景色を眺めていた。
旧マセック時代の石造りの建物と、新しく入ってきたノキア資本のレンガ造りの建物が入り交じる、活気ある港町。
「……ここにいたのね」
背後から、静かな足音と共にセリーナが歩み寄ってきた。彼女の腕には、俺の火傷の手当てをするための医療キットが抱えられている。
「また外を見て。……ケント君は、この街が好きなのね」
セリーナが、どこか労わるような、優しい声でそう問いかけた。
その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏に、あの日街角で出会った少女の顔が鮮明にフラッシュバックした。
嬉しそうにこの街の見所を教えてくれた、年相応の柔らかな微笑み。
そして、最後に俺の首筋に自らの血を擦り付けた、あの凄惨で狂気じみた笑み。
俺は、無意識のうちに首筋の包帯の上から、あの時口づけられた場所をなぞっていた。
どんなに洗っても、どんなに血を拭き取っても、あの感触だけはべったりとこびりついて離れない。
彼女の遺した呪いは、見事に俺の魂の中で完成していた。
俺は、その平和で美しい街の営みを見下ろしながら、ポツリと零した。
「――大好きで、……大嫌いだ」
誰に聞かせるわけでもないその呟きは、潮風にさらわれ、高く澄み渡ったフェナブの青空へと虚しく溶けていき、大通りの真ん中を、あの日のように、小さな女の子が元気に走り抜けていくのが見えた。




