第79話:血の祝祭
フェナブ迎賓館のメインホールは、きらびやかなシャンデリアの光と、楽団が奏でる優雅な弦楽器の音色に包まれていた。
港町としての復興を祝う名目で開かれた歓迎レセプション。ノキアの若き伯爵である俺を主賓とし、ノキアの大使や文官、そして旧宗主国であるマセックの前国王までが顔を揃えるという、政治的な意味合いの強い場だった。
だが、その華やかさの裏で、俺たちノキア側の人間は目に見えない重圧を感じていた。
ホールの中央には、鈍い銀色に輝く巨大な柱のようなものが鎮座している。
『魔封じの魔道具』だ。
前回の戦で猛威を振るった魔封じも、今では要人が一堂に会するこの手の催しでは、暗殺対策として魔法の行使を強制的に阻害する魔道具が設置されるのが通例だった。
それに加えて、入場時の厳重な身体検査により、俺もザラも、そしてセリーナも、武器の持ち込みは一切許されていない。
手元にあるのは、シャンパンの入ったグラスと、せいぜいテーブルナイフくらいのものだ。
「……それにしても、随分と上機嫌なものね」
俺の隣に立つセリーナが、扇子で口元を隠しながら呆れたように小声で呟いた。
彼女の視線の先には、恰幅の良い初老の男――マセックの前国王がいる。彼はノキアの貴族たちを相手に、赤ワインのグラスを傾けながら高笑いしていた。
帝国軍の領内通過を許し、それに抗議したフェナブ伯爵を処刑し、結果としてこの港町をノキアに割譲する原因を作った男だ。フェナブの領民からすれば親の仇にも等しい存在だが、当の本人は罪悪感など微塵も抱いていないらしい。
「自国を売って飲む酒は、さぞ美味いんだろうさ」
俺が皮肉交じりに応じると、セリーナは小さく肩をすくめた。
「下世話な話だけれど、ああいう厚顔無恥な人間ほど長生きするものよ。困ったことにね」
そんな前王の振る舞いを冷ややかに眺めつつ、俺は会場内の空気を探っていた。
昨日、街でザラが感じ取った「逃げ道を用意しない狂信者」の気配。それが今、この会場内に紛れ込んでいる可能性は極めて高い。
ふと、少し離れた場所に立っていたザラと目が合った。彼女は無言のまま、顎で「給仕たち」を指し示した。
俺はグラスを傾けるふりをして、彼らの動きを観察した。
ワインボトルや料理の乗った銀盆を運ぶ給仕たち。一見すると手際よく働いているように見えるが、その足運びがおかしい。誰もが出口や厨房の方角に背を向け、少しずつ、だが確実に、前国王とノキア大使たちが集まる中央のテーブルへと『包囲の円』を狭めている。
背中を守る必要がない。あるいは、生きて帰るつもりがない者の歩き方だ。
「来るぞ」
俺が低く声を掛けた、まさにその直後だった。
前国王のテーブルに近づいた若い給仕の一人が、ワインを注ぐために身を屈めるふりをして、盆の下から刃渡りの短い肉厚な短剣を抜き放った。
入場時の金属探知をどうやってすり抜けたのかは分からない。だが、その刃は迷いなく前国王の首筋へと振り下ろされた。
「すべては、薔薇の為にッ!」
甲高い、常軌を逸した叫び声がホールに響き渡る。
間一髪のところで前国王の近衛騎士がその腕を弾き飛ばしたが、給仕の顔に焦りはなかった。弾かれた勢いのまま前へ転がり込み、近衛の足に短剣を突き立てる。
それを合図にしたかのように、会場のあちこちで悲鳴が上がった。
給仕に扮していた者、あるいは一般の招待客に紛れ込んでいた者たち。数十人の男女が一斉に隠し持っていた刃物を抜き、近くにいる要人や護衛たちに襲い掛かった。
「ひぃぃっ! な、なんだ貴様ら!」
「護衛! 早くこいつらを殺せ!」
優雅な音楽は止み、代わりに怒号と食器の割れる音が響き渡る。
「ケント!」
「分かっている!」
俺は即座に思考を切り替えた。魔封じの魔道具がある以上、広範囲を制圧するような魔法は使えない。自身の肉体を強化する『インナーバフ』の展開は可能だが、これだけ人が密集し、逃げ惑う貴族たちとテロリストが入り乱れる状況では、誰が敵で誰が味方かの判別がつかない。
俺は迷わず、一番近くにあった頑丈な樫の木の椅子を蹴り上げ、手にした。
「ザラ、セリーナ! ノキアの大使と文官たちを固めろ! 出口までのルートを確保する!」
「前王はどうする!?」
「後回しだ! 俺たちはノキアの人間を優先する!」
マセックの前王を守る義理はない。ノキアの重鎮たちを死なせるわけにはいかない。
ザラが壁際の大きな銀の燭台を掴み取り、振り回した。重量のある金属の塊が、向かってきた男の側頭部を粉砕する。
だが、倒れ込んだ男は痛みに顔を歪めるどころか、笑いながら自身の外套の内に手を突っ込み、何かを引き抜いた。
直後、男の腹部で鈍い破裂音が鳴り、凄まじい衝撃波と無数の鉄片が撒き散らされた。
「くっ……!」
肉片と散弾が飛び散り、ザラが間一髪でセリーナを庇って後退したが、その腕には浅からぬ裂傷が刻まれていた。
「手製の爆弾か! 魔力に頼らない物理火薬だ、むやみに近づくな!」
俺の叫びに、ザラとセリーナが険しい顔で舌打ちをした。
テロリストたちは、致命傷を負っても死に際に起爆コードを引く。あるいは、自ら火薬に点火した状態で標的にしがみつこうと突っ込んでくる。迂闊に斬り伏せたり殴り倒したりすれば、爆発の巻き添えを食らって手足を吹き飛ばされる。
武器を持たず、近接での制圧を強いられている俺たちにとって、これ以上なく最悪の戦法だった。
相打ち前提の自爆攻撃によって、会場の護衛たちは一人、また一人と確実に命を散らしていく。
悲鳴と血、そして火薬の匂いが充満する地獄のような空間に、二人の人影が静かに足を踏み入れた。
黒いドレスに身を包んだ、まだ若い女。
そして、その斜め後ろに付き従うように歩く、商人風の初老の男だ。
暴れ回っていたテロリストたちが、彼女の姿を認めた瞬間、血走った目に安堵の色を浮かべた。
「ああ……薔薇が……」
「我らの薔薇が、ここへ……!」
彼らは自分の傷や起爆のタイミングなど意に介さず、次々と敵の護衛の刃に自ら飛び込んでいった。胸を刺され、首を斬られながら爆発を引き起こし、自らの命と引き換えに前国王の近衛騎士たちを確実に道連れにしていく。
血の海に沈んでいく同志たちを一瞥し、女はただ静かに、前国王のいるテーブルへと歩みを進めた。
その顔を見た瞬間、俺の心臓がドクンと大きく跳ねた。
(……嘘だろ)
昨日、街角で転んだ子供を助け起した時、俺と他愛のない会話を交わした少女だった。
フェナブの街が好きだと笑い、「大好きで、大嫌い」と寂しそうに目を伏せた、あの少女。
「な、なんだお前はっ! 近寄るな! 誰か、この女を……」
尻餅をついた前国王が叫び声を上げ、そして、少女の顔を正面から見て息を呑んだ。
「……い、いや、待て。その顔。まさか、お前は……フェナブ伯爵の娘か!?」
かつて自ら見捨て、処刑した忠臣の娘。その正体に気づき、前王の顔に明らかな恐怖と絶望が浮かぶ。
周囲にいた近衛騎士は、テロリストたちの自爆によってすでに全滅していた。ノキアの護衛たちは俺の指示で大使たちを守るために下がっており、前王の周囲には誰もいない。
女は無言のまま、血濡れた外套の下から一本の長剣を引き抜いた。
柄にフェナブ伯爵家の紋章が刻まれた、美しい騎士剣。それはかつて、この男の命によって王宮で無惨に斬り殺された、彼女の婚約者の形見だった。
「あなたは、私の父を殺した。この剣の主を奪い、私の故郷を売り渡した」
淡々とした、ひどく冷たい声だった。そこには怒りすらなく、ただ事実だけを述べる響きがあった。
「ま、待て! 私が悪かった! 領地なら、金ならいくらでもくれてやる! だから命だけは……っ!」
命乞いをする前王を見下ろし、女は騎士剣を真っ直ぐに構え、静かに腕を振り上げた。
その時だった。
前王の足元で、爆発の巻き添えを食らって死んだと思われていた近衛騎士の一人が、最後の力を振り絞って立ち上がった。腹から血を流しながら、その手にある長剣が、無防備な女の横腹へと薙ぎ払われる。
「コーレル様ッ!!」
悲痛な叫び声と共に、女の後ろに控えていた商人の男――ギークが、女を突き飛ばしてその間に割って入った。
肉を断ち切り、骨を砕く嫌な音がホールに響く。
近衛の長剣は、ギークの胸部を深く、致命的な位置まで斬り裂いていた。
大量の血が噴き出し、ギークの体が崩れ落ちる。近衛騎士もまた、今度こそ完全に息絶えて床に倒れ伏した。
「ギーク……っ」
倒れた女――コーレルが、目を見開いてギークの体を抱き起す。
商人の男は、口から血の泡を吹きながら、それでも無理に口角を上げて笑いを作った。
「これで……いい。俺のような卑しい男が、あなたの盾になれた……」
「喋らないで。傷が……」
「どうか……本懐を、果たして……ください。俺の愛した……薔薇よ……」
ギークの血に染まった手が、力なく床に滑り落ちた。
その目は見開かれたまま、どこか満足げな光を宿して動かなくなった。
コーレルは無言のまま、ギークの目をそっと閉じさせた。そして、顔にべっとりと返り血を浴びたまま、ゆっくりと立ち上がった。
「ひ、ひぃぃぃっ!」
這って逃げようとする前国王。
コーレルは無造作にその背中を踏みつけ、振り上げた形見の騎士剣を、男の背中から心臓へと一切の躊躇なく突き立てた。
ゴボッ、と不快な音がして、前王の巨体がビクンと痙攣する。彼女は刃を深く抉り込み、確実にその命を絶った。
マセックの歴史に暗い影を落とした王の、あっけない最期だった。
コーレルは騎士剣を引き抜き、血塗れのドレスのまま、ゆっくりと顔を上げた。
彼女の視線が、ホールの中を彷徨い、そして。
ノキアの大使たちを背後で守りながら、血に濡れた椅子の脚を握りしめている俺の顔で、ピタリと止まった。
昨日、街角で向けられたような、柔らかい少女の眼差しではない。
すべてを奪われた復讐者としての、暗く、冷たい目。
彼女は前王の血が滴る騎士剣を、まっすぐに俺へと向けた。
もう一人の標的。フェナブの港を奪い取った侵略者である、ノキアの伯爵へ向けて。
遠くから、治安維持部隊の軍靴の音が近づいてくるのが聞こえた。
俺は椅子の脚を捨て、無言のまま、彼女のその冷たい視線を受け止めた。




