第76話:フェナブの薔薇
潮の香りと、けたたましい建設の音が鼻腔と鼓膜を叩く。
ノキア王国がマセックから『九百九十九年の租借』という、事実上の永久割譲に近い形で手に入れた巨大な港町、フェナブ。
俺たちを乗せた馬車がレンガ造りのメインストリートを進むと、窓の外には旧マセックの古き良き石造りの街並みと、ノキアの莫大な資本によって急造された近代的な施設が入り交じる、異様で活気ある風景が広がっていた。
「潮風が気持ちいいわね、ケント君」
向かいの席で、セリーナさんがふわりと優しく微笑む。
海風に揺れる艶やかな髪をかきあげるその仕草は、同年代の少女たちには決して出せない、大人の女性特有の柔らかさと色気に満ちていた。彼女がそっと差し出してくれた冷たい果実水を一口飲むと、長旅の疲労が甘い香りと共にスッと抜けていく。
「ええ。馬車に揺られっぱなしで腰が痛かったですけど、この景色を見ると少しは報われますね」
「ふふっ、ケント様ぁ、無理は禁物ですよぉ。視察の本番は明日からなのですから、今日はこのレナに身も心もたーっぷり甘えて、ゆっくりお休みになられてくださいね?」
俺が苦笑して肩を回すと、隣に座っていたレナがスッと身を乗り出し、俺の肩から背中にかけて絶妙な力加減で揉み解し始めた。
かつては薄幸の未亡人だった彼女も、俺と深い関係になってからはすっかりタガが外れ、今や完全に「ムッツリ開花した困ったちゃん」なポンコツメイドと化している。揉み解す指先は的確なのだが、どうにかして俺の気を惹こうと、豊満な胸を不自然なほど俺の腕に押し付けてきているのが丸わかりだった。
「あ、ずるいぞレナ。私もケントを存分に癒やしてやるつもりだったのに。ほらケント、こっちは私が揉んでやる」
ザラが楽しそうに笑いながら、俺のもう片方の腕に抱きついてくる。彼女から微かに香る異国の香水が、さらに俺の理性を心地よく溶かしていった。
シーナやクロエといった同年代のヒロインたちにはない、この圧倒的な包容力と安心感。
俺は「熟女好きのクズ狂犬」を自負しているが、この三人の大人の女性に囲まれている空間こそが、今の俺にとって最大の『安全基地』だった。彼女たちが無条件で与えてくれる甘やかしは、俺の精神を正常に保つための生命線と言ってもいい。
だが、和やかな空気が流れる馬車の中でも、裏社会で長く生きてきたザラの瞳の奥だけは、決して油断していなかった。
「……それにしても、妙な街だな、ケント」
ザラが俺の腕に身を寄せたまま、鋭い眼光で窓の外を行き交う人々を眺めてぽつりと呟いた。
「妙、とは?」
「活気はある。物も金も派手に回っている。だが……路地裏から流れてくる『匂い』が、普通の歓楽街やスラムのそれじゃない。なんだろうな、単なる荒くれ者や底意地の悪い犯罪者の匂いじゃないんだ。もっとこう……薄気味悪い、狂信的な静けさみたいなものが、街の裏側にべったりとへばりついている気がする」
ザラの直感的な言葉に、俺は静かに頷いた。
「俺も、ただの観光でここに来たわけじゃないからな」
フェナブ港の視察。ノキアの伯爵としてこの地を訪れた俺の目的は、経済状況や物流網の確認だけではない。
近年、マセックや帝国の一部で頻発している奇妙なテロ事件。ノキアで起きたガルドたちのような無差別な破壊活動とは違う。標的とその周辺のみを確実に仕留め、自爆する際、あるいは捕縛されて口封じの毒を煽る際、実行犯たちは皆一様に『薔薇の為に』と言い残し、まるで救済を得たかのように恍惚とした笑みを浮かべて死んでいくという。
マセックでも帝国でも、その『薔薇』の正体は一向に掴めていない。だが、その狂信的な組織の出どころが、この租借地であるフェナブの街にあるのではないかという情報があった。
俺は窓の外の眩しい光に目を細めながら、この活気の裏で泥のように蠢く底知れない闇の気配に、静かに警戒心を高めていた。
光の当たらない、商会の地下室。
カビと埃、そして輸入された香辛料の匂いが混ざり合う薄暗い石造りの部屋で、一人の少女が銀細工のロケットをじっと見つめていた。
街を歩けば、十人中十人が必ず振り返るほどの類稀なる美貌。だが、十八歳という花を咲かせるような年齢でありながら、彼女の顔に年頃の明るさは微塵もない。
代わりに彼女の全身を纏っているのは、すべてを諦め、世界の色彩を完全に喪失した者だけが持つ、重く退廃的な色気だった。
彼女が見つめるロケットの中では、誇り高く、優しげな若き騎士が微笑んでいる。
彼女の名は、コーレル・フェナブ。
かつてこのフェナブ港を含む広大な領地を治めていた、フェナブ伯爵の一人娘。その圧倒的な美しさと気品から『フェナブの薔薇』と謳われた、一人の無垢な少女だった。
コーレルの人生は、ほんの数年前まで、まばゆいばかりの光と幸福に包まれていた。
領民を深く愛し、正義を重んじる厳格で優しい父。美しく慈愛に満ち、誰からも慕われていた母。そして、幼い頃から共に育ち、「一生君を守り抜く」と不器用な笑顔で将来を誓い合ってくれた、愛する婚約者の騎士。
しかし、その温かい光は、国家という巨大な暴力と大人の裏切りによって、理不尽に、そして無惨に踏みにじられた。
発端は、ノキア王国と帝国の間に起きた戦争だった。
中立であるはずのマセック王国において、帝国軍の領内通過を認めるという条約違反の決定が下された時、彼女の父であるフェナブ伯爵は真っ向から激しく反対した。
「他国との条約を違え、大国の威に媚びるなど、独立国家の誇りに関わる! そのような不義理は断じて認められん!」と。
だが、国は伯爵の義憤を嘲笑うかのように無視し、強引に帝国軍を通した。
そして結果は、マセックの予想を大きく裏切るまさかの帝国の敗退。ノキア王国の圧倒的な勝利だった。
戦後処理において、判断を誤ったマセックはノキアへの莫大な賠償と領土の割譲を余儀なくされた。そしてあろうことか、帝国軍の通過に最後まで反対していたフェナブ伯爵の領地――莫大な利益を生むフェナブ港を、ノキアへの『九百九十九年の租借地』として差し出すため、国が一方的に接収を決定したのだ。
「馬鹿な! 我らは条約違反に反対したのだぞ! なぜ正しき声を上げた我らが、国境の領地を奪われねばならんのだ!」
到底納得できるはずがない。王宮へと直接抗議に向かうと決めた父。そして、その護衛として付き従うことになった婚約者の若き騎士。
「必ず、良い報せを持ち帰る。だからコーレル、邸で待っていてくれ」
それが、彼女が聞いた婚約者の最後の言葉だった。
王宮で彼らを待っていたのは、対話を拒絶する冷酷な刃だった。
国は彼らを口封じのために『反逆罪』として捕らえようとし、王宮内で近衛兵たちとの武力衝突が発生した。数日後、実家で祈るように帰りを待っていたコーレルの元に届いたのは、父が反逆の首謀者として処刑されたという冷酷な報せと、父を庇って近衛騎士に滅多斬りにされ、原型を留めないほどに切り裂かれた婚約者の血染めの遺品だけだった。
フェナブ伯爵家は取り潰され、文字通りすべてを奪われたコーレルと母親は、着の身着のままで母の実家へと身を寄せることになった。
だが、反逆者の汚名を着せられた母娘に向けられる、母の兄たちからの視線は氷のように冷たく、残酷な言葉の刃が毎日彼女たちに突き刺さった。
「反逆者の身内などと、我が家の恥だ」
「フェナブのせいで、私たちまで肩身の狭い思いをしているんだぞ」
針の筵のような生活の中で、愛する夫と娘の未来を理不尽に奪われ、実の家族からも蔑まれた母は、急速に心を病み、やがて失意と絶望の中で自ら命を絶ってしまった。
父の誇り、愛する人の命、母の温もり、そして故郷。
守るべきものも、大切なものも、もう彼女の人生には何一つ残っていなかった。
コーレル・フェナブという無垢な少女の心は、母が冷たい土の下に埋葬された日、完全に死んだ。
空っぽになった彼女の心を満たしたのは、どす黒く、粘り気のある怨念だけだった。
正しい声を上げた父を殺し、領地を奪ったマセック王国への復讐。
すべての元凶でありながら、厚かましくも生き延びている帝国への呪い。
そして、自分たちの故郷を土足で踏みにじり、我が物顔で支配するノキアへの恨み。
すべてを壊してやりたい。だが、たかが十八歳の、反逆者の娘という烙印を押された少女に、国家を揺るがすような力などあるはずもない。金も、武力も、人脈も、何もかもが欠けていた。
だから、彼女はここへ来た。
フェナブ領に古くから出入りし、帝国ともノキアとも太いパイプを持って商いをしているこの商会。その主である、四十歳ほどの男、ギークの元へ。
コーレルは、このギークが昔から嫌いだった。
自分が思春期を迎え、女としての丸みを帯びるようになるにつれて、挨拶の折に彼が時折見せる、ねっとりとした欲望の混じった目線。フェナブ伯爵令嬢という立場があったからこそ隠されていたその卑しい本性を、彼女は敏感に察知し、嫌悪していた。
しかし、今の彼女に残されているのは、もうこの『自分自身』しかなかった。
――それは、すべてを奪われた彼女が、初めてこの商会の地下室に足を踏み入れた日のことだった。
地下室の重い扉が開き、ギークが入ってくる。
「……コーレルお嬢様。このような地下の隠し部屋にお呼び立てして、申し訳ありません。ですが、反逆者の娘である貴女を大っぴらに匿うことは……」
言い訳がましく言葉を並べるギークだが、その目は薄暗いランプの光の中で、獲物を舐め回すようにコーレルの細い身体に釘付けになっていた。荒い呼吸の音が、静かな地下室に不快に響く。
コーレルはゆっくりと立ち上がり、そして、退廃的で底知れぬ漆黒の瞳で、真っ直ぐにギークを見つめ返した。
「いいのよ、ギーク。あなたが私に何を望んでいるか、分かっているわ」
「お、お嬢様……?」
コーレルは細い指を首元に這わせ、ドレスの背中にある編み上げの紐を、一切の躊躇いなく解き始めた。
スルリと、上質な絹のドレスが肩から滑り落ち、地下室の冷たい床に崩れ落ちる。
現れたのは、白磁のように滑らかで、一切の傷を知らない純白の肢体。
それは本来、愛する若い騎士ただ一人に捧げられるはずだった、彼女のすべて。
ギークは息を呑み、魅入られたようにフラフラと近づいてくる。
コーレルは微動だにせず、ただ静かに、哀しげな微笑みを浮かべた。
「私に、活動する拠点と、資金を提供して。そして、マセックや帝国に潜む過激派……国にすべてを奪われ、絶望している『負け犬』たちを探し出してちょうだい」
「あ、ああ……っ、お嬢様、貴女という人は……!」
「すべてをあげるわ。私のすべてを、ここであなたに」
ギークが獣のような荒い息を吐きながら、その白い肌にすがりつく。
コーレルは彼を抱きとめながら、自らもまた、その男の背中にそっと細い腕を回した。




