閑話:紅の逃避行と、国境の気高き人間たち
これはアマテラスからノキアに戻り、第三皇子を倒して北の砦に向かったケント達に、避難民を託された朧たち紅屋の話。
湿った土と硝煙の匂いが、逃避行の過酷さを物語っていた。
「無駄弾を撃つな! 確実に引きつけてから頭を狙え!」
紅屋の護衛の一人が、岩陰から顔を出した帝国兵に向けて引き金を引いた。
乾いた銃声が響き、兵士が崩れ落ちる。
朧の背後には、およそ三十名の集団が息を潜めていた。
紅屋の手代や護衛たち。そして、帝国軍の陣地から救出されたばかりの十数人の若い女たちだ。慰安用として囚われていた彼女たちの瞳には、限界に近い疲労と恐怖がこびりついている。足手まといになる子供など最初からいない、過酷な現実の寄せ集めだった。
ケントから押し付けられた十丁の『新型銃』。
この手土産がなければ、今頃全員が帝国の斥候に追いつかれ、女たちは再び地獄へ引きずり戻されていただろう。
天然の岩場を盾にし、護衛たちが銃を構えることで、どうにか帝国兵の足を止め、睨み合いの膠着状態を作り出していた。
しかし、状況はジリ貧だ。
弾薬には限りがある。対する帝国兵は、余裕の表情で岩場の周囲に展開し、包囲網を狭めつつあった。
「姉さん、残りの弾がキツい。あと数回押し込まれたら突破される」
「……分かってる」
朧は血と泥に塗れた短刀を握り直す。いざとなれば斬り込んで時間を稼ぐしかない。
その時だった。
森の奥から、地鳴りのような馬蹄の音が響いた。
包囲を狭めようとしていた帝国兵の側面に、銀色の鎧を纏った一団が猛然と突っ込んだのだ。
「カヴァク家騎士団、推して参る! 帝国の犬共にノキアの土を踏ませるな!」
馬槍が帝国兵の胴を貫き、重厚な剣が次々と敵を薙ぎ払う。銃を構える暇すら与えない、統率の取れた見事な強襲だった。
あっという間に斥候部隊を壊滅させた騎士団の隊長が、馬を降りて朧たちに歩み寄る。
「怪我はないか。間に合ってよかった」
「あんたたち……。貴族軍が、どうしてこんな所まで?」
朧が警戒を解かずに問うと、騎士は泥に塗れた兜を脱いだ。ケントと同じくらいに見える若い騎士は、静かに答えた。
「我がカヴァク家は、弱きを助けることを誇りとしている。帝国がマセック領を抜け、非戦闘員を狙っているとの報を受けた。国境でただ待機し、民が蹂躙されるのを見過ごすなど、我が父が許さん」
血生臭い戦場には似合わない、どこまでも真っ直ぐな貴族の矜持。
その言葉に、強張っていた女たちの目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「……立てるか? 我らの屯所はすぐそこだ。負傷者の手当てと水を用意しよう」
国境警戒の要、カヴァク家の前線屯所。
そこは怒号と物資が飛び交う、慌ただしい野営地だった。
朧たちは天幕の一つを借り、ようやく一息ついていた。手代たちが女たちに毛布を配り、負傷した護衛は包帯を巻いている。
「ちょっと、包帯と水をもらってこよう」
朧は天幕を出て、物資が集積されている広場へと向かった。
そこで、一際目立つ少女の姿を見つけた。
「右の荷車はポーション! 箱の印をよく見て! 食料と武器を一緒に積まないでってば!」
銀色のツインテールを揺らしながら、帳簿を片手に屈強な兵士たちに指示を飛ばす少女。その手際と物資の管理は、商会の頭である朧の目から見ても非常に合理的だった。
「きゃっ」
ふいに、少女が泥濘に足を取られて体勢を崩した。
だが、彼女が転ぶより早く、すぐ後ろに控えていた小柄な少女がサッと腕を差し出し、その体を支えた。
「お、お気をつけてください、クロエ様……っ」
「ごめんね、ボーラ。助かったわ」
ボーラと呼ばれたその小柄な少女は、どこか怯えた小動物のようにビクビクと肩を揺らしていた。
近くで兵士が木箱をドンと置く音にすら「ひぃっ」と小さく悲鳴を上げている。
だが、朧は裏社会で培った観察眼で、その動きの本質を見抜いていた。
(……ただのビビリじゃないな。あの娘、音が鳴るより先に反応して視線を向けてる。筋肉の緊張も解けてない。異常なまでの警戒心と反射神経……裏稼業向けの、いい目をしてる)
過剰なまでの防衛本能が、結果として周囲の状況を誰よりも早く察知する斥候としての素養に繋がっているのだ。
朧はそんな評価を下しながら、物資を管理しているらしい彼女たちの元へ歩み寄った。
「すまないね。さっきカヴァクの騎士団に拾われた避難民なんだが、怪我人のための包帯と少しの水をもらえないだろうか」
朧が声をかけると、ツインテールの少女――クロエがパッと顔を上げた。
「あ、はい! 今すぐ出しますね。ボーラ、三番の箱から清潔な布と水筒をお願い」
「は、はいっ!」
ボーラはオドオドしながらも、言われた通りに手早く物資を揃えて朧に手渡した。
「助かるよ、お嬢ちゃんたち。学生さんに見えるが、商会関係かい?」
「はい。実家の商会で物資を集めて、ここへ届けに来たんです」
クロエは泥だらけの顔で、どこか誇らしげに笑った。
「そりゃ大したもんだ。うちの若い連中にも見習わせたいね」
朧は受け取った水筒を軽く振りながら、ふと息を吐き出した。
「あんたたちも、さっきの騎士団も……最近は腹の据わった若者が多い。あたしたちがここまで生き延びられたのも、イカれたガキコンビのおかげだからね」
「イカれたガキ?コンビ?」
「ああ。二人でアマテラスに飛ばされたとかで一緒にノキアに来た奴等なんだけどね。いきなり帝国の新型銃を十丁も押し付けてきて『これで避難民連れて逃げろ』なんて無茶を言うんだよ。あれがなきゃ、今頃帝国の斥候に押し切られて全滅してたよ」
呆れたように笑う朧。
だが、その言葉を聞いたクロエの表情が、ハッと変わった。
「……そいつって、ケントって名前じゃありませんでしたか?」
「あん? ああ、そうさ。おまけに口が悪くて、容赦のない狂犬みたいな奴だよ。……なんだ、お嬢ちゃん、あいつの知り合いかい?」
朧が目を丸くすると、クロエはパァッと顔を輝かせた。
「ケントだ! やっぱり戻ってきてたんだ!」
その後ろで、ボーラも「ケ、ケントさんの銃だったんですねぇ……」とホッとしたように肩を撫で下ろしている。
朧は、目の前の少女たちと、自分たちを救った銃の持ち主が繋がっていたことに気づき、思わず吹き出した。
「ハッ……なるほどね。あんたたち、あの狂犬のお仲間か」
気高く領民を守るカヴァクの若き騎士。
前線へ物資を運ぶ商会の娘。
彼女の指示で的確に動く、斥候の素質を持った少女。
戦場は遠く離れていても、あの男が遺した影響は、確かにこの辺境の地でも人を動かし、命を繋いでいる。
自分たちが守られたのも、決して偶然ではなかったのだ。
「クロエって言ったね」
「はいっ」
「あたしたち紅屋も、少し休んだらあんたの補給の手伝いをさせてもらうよ。タダで守られるだけのタマじゃないからね」
朧の申し出に、クロエは嬉しそうに頷いた。
絶望的な逃避行の果てに辿り着いた場所。そこには、ケントという男が繋いだ確かな絆があった。
朧は包帯と水を抱え、泥臭くも活気に満ちた前線屯所の空気の中に、再び歩みを進めた。




