第60話:人間万事塞翁が馬と、面影なき剣鬼
帝国から分捕った大型の帆船は、潮風を受けて順調に大海原を進んでいた。
船内での部屋割りは、俺に個室が一つ、そして女性陣三人に大きめの相部屋が一つ割り当てられていた。
航海中とはいえ海魔などの脅威もあるため、俺の部屋には『夜の護衛』として、ザラかセリーナさんが交代で同室に泊まり込むことになった。
ちなみにレナは、自ら志願して『昼担当のメイド』に就任した。昼下がりになると嬉々として俺の部屋にやってきては、怪我で不自由な俺の体を隅々まで、それこそ文字通り『隅々まで』お世話をしていくのだが……その詳細については割愛する。
そして、航海初日の夜。
最初の夜間護衛を担当することになったのは、セリーナさんだった。
「…………」
「セリーナさん、どうしたんですか? さっきからウロウロして」
ランタンの灯りが揺れる船室で、セリーナさんは落ち着きなく部屋の中を歩き回ったり、ベッドのシーツを無意味に直したりと、明らかに挙動不審だった。
出航前のシーナの「管理!?」というツッコミがまだ尾を引いているのだろう。顔が真っ赤だ。
「少し、夜風に当たりませんか」
俺がそう提案すると、彼女はビクッと肩を揺らした後、ホッとしたように「……ええ、そうね」と頷いた。
満天の星空の下、波の音だけが響く静かな甲板。
俺たちは手すりに寄りかかり、並んで夜の海を眺めていた。
「こうして二人でゆっくり話すの、久しぶりね」
「そうですね。俺が怪我をしてからは、ずっとバタバタしてましたから」
「……ケント君は、昔から不思議な子だったわ。まだあんなに小さかったのに、どこか大人びていて……。シーナが魔法のことで落ち込んでいた時も、あなたが励ましてくれた。おばさん、あの時すごく嬉しかったのよ」
潮風に金色の髪を揺らしながら、セリーナさんは懐かしそうに微笑んだ。
俺にとっての初恋の人。今でも変わらず、大人の女性の美しさと優しさを併せ持っている。
「おばさんだなんて。セリーナさんは綺麗なままですよ?」
照れるセリーナさんだが、その笑顔に、ふと暗い影が落ちた。
「……ねえ、ケント君」
「はい」
「私ね、ガルドのことは何とも思ってないの。元々、冒険者時代の護衛依頼で借金を作らされて、半ば脅されるように結婚しただけだから。今回のことも自業自得だと思うし、むしろケント君は私たちを守るためによくやってくれたと感謝してるわ」
彼女はそこで言葉を区切り、手すりを握る手にギュッと力を込めた。
「ガブリエラのことも、憎んではいないわ。あの子が領主の養女になった時……私に向かって『次からガブリエラ様と呼びなさい、セリーナ』って言ったの。その瞬間に、私の中で母親としての情は消えてしまったから」
「セリーナさん……」
「でもね……後悔してるの。ガルドがあの子を依怙贔屓して増長させていた時、私がもっと厳しく叱ってやれていたら。……叱っていたら、あの子も死なずに済んだんじゃないかって。それに、今回の連座の件だって、私がもっと早くガルドを拒んでいれば、シーナにあんな恐ろしい思いをさせずに済んだのに……っ」
ポツリ、ポツリと溢れ出す後悔の念。
母親としての責任と、救えなかった命への罪悪感。彼女はずっと、その重い荷物を一人で背負い続けていたのだ。
沈黙が落ちる。
俺は夜の海を見つめたまま、静かに口を開いた。
「……『人間万事塞翁が馬』、ですよ」
「え……? どこの、言葉?」
聞いたことのない言葉に、セリーナさんが涙ぐんだ瞳で俺を見つめる。
俺は少しだけ躊躇った後、意を決して、シャル以外に言ったことのない『最大の秘密』を打ち明けることにした。
「実は俺……転生者なんです。ここじゃない、別の星の記憶を持ったまま生まれてきたんです」
「て、転生……?」
「はい。さっきの言葉は、その前世の記憶にある古い言葉です」
驚きに目を丸くするセリーナさんに、俺はゆっくりとその意味を語り始めた。
「昔、『塞翁』と呼ばれる老人がいました。ある日、老人の大事な馬が逃げてしまい、周りの人は『不幸だ』と同情しました。ところが後日、その馬はもっと立派な馬を連れて戻ってきて、今度は皆が『幸運だ』と祝ったんです」
「まあ……」
「すると今度は、老人の息子がその立派な馬から落ちて、大怪我をしてしまった。皆はまた『不幸だ』と嘆いた。……しかしその後、大きな戦争が起きた時、息子は怪我のおかげで兵役を免れ、命が助かったんです」
セリーナさんは、俺の言葉を一つ一つ噛み締めるように真剣に聞き入っていた。
「だから、何が幸か不幸かなんて、生きている限り誰にも分からないんです。……ガルドと結婚していなければ、シーナはこの世に生まれていませんでした。ガブリエラを叱ったからといって、彼女の性格が直ったという確証もない。それに、あなたが自分を責めている間にも、シーナはあんなに優しい、いい子に育ってくれたじゃないですか」
「ケント君……っ」
俺は、手すりを握っていた彼女の白い手を、そっと自分の手で包み込んだ。
「俺は前世で、急に死にました。こっちの世界に生まれ変わったら、ガルドなんていう最低の父親がいた。……でも、そのおかげで俺はみんなに出会えた。セリーナさんに出会えて、本当に嬉しいですよ」
「あ……ああ……っ」
セリーナさんの目から、堪えきれなくなった涙がポロポロとこぼれ落ちた。
俺は優しく彼女の手を引き、甲板の中央へとエスコートする。
「因みに、前世では43歳だったので、セリーナさんの事はおばさんどころか、いつも素敵で綺麗な女性だと思ってましたよ?」
「え…、あ…ありがとう…嬉しい」
波の音を音楽代わりに、俺たちはゆっくりとステップを踏んだ。彼女の涙が乾くまで、ただ静かに、身を寄せ合って。
月明かりの下、甲板に落ちた二人の影が一つに重なり、静かに夜は更けていった。
数週間後。
長かった船旅を終え、俺たちは無事に東の島国『アマテラス』の玄関口である海府へと到着した。
港に降り立った朧たち紅屋の一行は、商いの報告があるとのことで、王都である『トキ』へと向かうことになった。
「アタシらは急ぎの報告があるから、一足先にトキへ向かうよ。あんた達も、スカウトの用事が済んだらすぐに来な」
「ああ、気をつけてな、朧の姐さん。こっちも終わったらトキで合流する」
朧たちを見送った俺たちは、海府で宿を確保した後、早速お目当ての場所へと足を運んだ。
シャルが進める新しい軍事教練の要としてスカウトを狙う、あの『櫻師範』の道場である。
「たのもう!」
道場の門をくぐると、そこには以前と変わらず、竹刀の激しい打ち合いの音と、気合の入った声が響き渡っていた。
俺の隣を歩いていたザラとセリーナさんが、その光景を見るなり息を呑んで立ち止まった。
「おいケント、なんだいありゃあ! 前衛が後方から魔法を撃ち出して援護してるじゃないか!」
「信じられないわ……火魔法以外は体から離せないというノキアの常識が、ここでは全く通用していない……っ」
驚愕する二人。さらに、打ち合う門下生たちの動きを見て、ザラが鋭い左目を細めた。
「それにあの動き……ノキアのアウターバフじゃない。魔力を体内に留めて筋肉と神経を直接底上げしているのかい!? なんて無駄のない、洗練された技術だ……!」
「ええ。これこそが、シャルが軍に導入したがっているアマテラスの『インナーバフ』と『射出魔法』の基礎ですよ。道場生でこの練度ですからね」
俺が胸を張って答えると、二人は戦女神としての本能を刺激されたのか、ゴクリと唾を飲み込んで道場の奥を見つめた。
「……ぜぇっ……はぁっ……! よ、よし、今日の素振りは……これくらいにしておこう……。誰か……お茶と、甘いお団子を……」
道場の奥。上座の前で、道場生たちに檄を飛ばしながら木刀を振るう人影があった。
ドスッ! ドスッ! と、床板が割れんばかりの尋常ではない質量の踏み込み。空気を切り裂く鋭く重い木刀の素振り。
素晴らしい剣気だ。だが、木刀を杖代わりにして膝をつき、肩で息をしているその人物のシルエットは、どう見ても俺の記憶にある『凜とした女剣鬼』のそれではなかった。
顔はパンパンに丸みを帯び、道着の合わせ目からは立派な肉付きが主張している。動きのキレこそ達人のそれだったが、持久力は数分で限界を迎えるらしい。前世の記憶にある、野〇佳代というタレントがさらにぽっちゃりしたような体型だった。
「…………いや、誰だよ」
俺は思わず、心の底からツッコミを入れていた。
シャルが帰国してしまった寂しさを、暴飲暴食で紛らわせた結果なのだろうか……。面影が完全に消え去った、激太りの剣鬼がそこにいた。
「凄い剣気と踏み込みだが……随分と恰幅の良い師範だねぇ」
「ええ。でも、あの体型であれほどキレのある動き……アマテラスの武術は本当に奥が深いのね」
初対面のザラとセリーナさんは、純粋にその技術の高さに感心して頷き合っている。
(いや二人とも初対面だから感心してるけど、俺の知ってる櫻さんじゃない! シャルがいなくなった寂しさでどんだけストレス食いしたんだよ!!)
俺は一人、心の中で激しくツッコミを入れながら、丸々と太った師範に向かって引き攣った笑顔で歩み寄るのだった。




