第56話:盤上の情報戦と、戦女神の涙
大評議会での決議が下り、「テロの首謀者は帝国の工作員」という事実が法的に確定した。
だが、ルミナス侯爵は自室の執務机で、王都に放った間者からの報告書を読みながら苦々しく顔をしかめていた。
「……やはり、一筋縄ではいかんか」
法で押さえつけても、人の口には戸が立てられない。
王城の地下牢へと連行される際、ガルドは人目も憚らず「俺は戦女神の父親だ! 英雄ケントの父親だ!」と狂ったように喚き散らした。その姿を目撃した衛兵や、侯爵の台頭を疎ましく思う敵対派閥の貴族たちが、ここぞとばかりに尾鰭をつけて噂を流し始めていたのだ。
『ガルドという商人が帝国のスパイで、テロもあの男の仕業だ』
『爆鳴の鬼と言われたヴォルガン男爵や、北を護った戦女神たちはその身内らしい』
『英雄の皮を被った、裏切り者の一族なのではないか』
市民の間で、まことしやかに囁かれる不穏な噂。
せっかく連座の鎖を断ち切っても、このまま「裏切り者の身内」というレッテルが定着すれば、彼らの社会的な居場所は失われる。
「力で口を塞げば、かえって疑念を生むだけだ。噂を消すには、より面白く、より熱狂できる『別の噂』で上書きするしかない」
侯爵は即座に手を打った。
王都で人気を集める吟遊詩人や、大きな劇場の座長たちに莫大な資金をばら撒き、ある『物語』を大々的に公演させたのだ。
――『救国の英雄と戦女神たちを陥れようとした、帝国の卑劣な罠』。
舞台の上で、役者たちが大仰に演じる。
帝国は狡猾な工作員を送り込み、英雄たちの身内に成りすまして王都を破壊しようとした。そして、その工作員に買収された『悪徳貴族』たちが、無実の英雄を責め立てて国を乗っ取ろうとしたのだ、と。
だが、英雄ケントは工作員の正体を見破り、自爆しようとした敵から身を挺して王城と侯爵を護り抜いた――。
「さあ、見世物の時間だ」
悲劇と陰謀、そして自己犠牲の英雄譚。
市民というものは、小難しい政治の真実よりも、分かりやすく劇的なエンターテインメントを好む。侯爵が仕掛けた物語は、あっという間に王都中の酒場や広場で熱狂的に受け入れられていった。
さらに侯爵は、この『物語』を利用して一気に網を絞った。
「英雄を裏切り者だと吹聴している貴族は、帝国に買収された悪徳貴族だ」という空気を市民の間に醸成させた上で、実際に噂を広めようとしていた敵対派閥の貴族たちを「帝国に内通し、国の英雄を陥れようとした容疑」で次々と査問委員会に引きずり出したのだ。
有無を言わさぬ拘束。家財の没収と、失脚。
噂を流せば帝国工作員の手先として粛清される。その恐怖が反対派閥の口を完全に塞ぎ、ルミナス派閥の権力基盤はより盤石なものとなっていった。
だが。
盤上の駒を完璧に動かし、政敵を狩り尽くす侯爵の顔に、喜びの色はない。
「……どれだけ外堀を完璧に埋めようと、本人が目を覚まさねば何の意味もない」
侯爵は、地下の特別治療室がある方角へ視線を落とし、深く、重い息を吐き出した。
同じ頃、特別治療室。
シーナは、ベッドの横に置かれた椅子に座り、ただ静かに、規則正しい魔力計の波長を見つめていた。
ケントがこのベッドに運び込まれてから、どれほどの時間が経っただろうか。
右半身の激しい火傷と骨折は、高位の治癒魔導士たちの力で少しずつだが塞がりつつあった。しかし、ケントは一向に目を覚ます気配がない。
「……男爵の衰弱が激しい原因は、肺です」
つい先ほど、筆頭の治癒士が暗い顔で告げた言葉が、シーナの頭の中で何度もリフレインしていた。
至近距離での爆発。その衝撃波と熱をモロに吸い込んだケントの肺は、内部の細かな組織が焼け焦げ、血液や体液が溜まっている状態だった。
治癒魔法は万能ではない。外傷や骨折には効くが、肺の奥深くにある微細な組織一つ一つに魔力を届かせるには、あまりにも精密すぎるコントロールが必要になる。外から魔法をかけても、表面が治るだけで奥のダメージには届かないのだという。
『このまま肺の機能が低下し続ければ、呼吸ができなくなり……もって数日の命でしょう』
治癒士の残酷な宣告。
シーナは自分の膝を強く握りしめた。爪が食い込み、血が滲んでも、何も感じなかった。
(どうすればいい。どうすれば、お兄様の肺の中まで治癒の魔法を届けられる?)
必死に思考を回す。
肺。呼吸。空気の通り道。
その時、シーナの脳裏に、かつてケントが敵を始末する時に使っていた、あのえげつない魔法の理屈が蘇った。
『直接、相手の気管と肺の中に水を出して溺れさせるんだ。内側からなら防ぎようがないだろ?』
そうだ。
水なら、肺の奥まで直接入れられる。
もし、高位の治癒ポーションを『収納』に入れ、それを極小の霧にして、お兄様の肺の座標に直接展開できれば……。
肺の奥の細かな傷にまでポーションの成分が直接浸透し、治癒を促せるかもしれない。
「……やってみます。私に、やらせてください」
シーナが治癒士たちに提案すると、彼らは驚愕し、そして顔をしかめた。
「ポーションをミストにして、肺の中に直接座標指定で展開するだと……? 正気ですか、シーナ様。ただでさえ衰弱している肺に、もし液体のまま水を入れたり、量を間違えれば、男爵はそのまま溺死してしまいますぞ!」
治癒士の言うことは正しい。
他の手立てがないとはいえ、あまりにもリスクが高すぎる。
だが、シーナは引かなかった。
「他に方法がないなら、私がやります。……お兄様を、このまま死なせたりしません」
シーナの強い瞳に押され、治癒士たちは渋々ながらも頷いた。
だが、実戦と治療は全く違う。
シーナは別室に篭り、空のガラス瓶をケントの肺に見立てて、ポーションをミスト化して内部に展開する練習を始めた。
「……座標指定、ミスト展開」
ガラス瓶の中に、ポーションの霧が発生する。
だが、少しでも意識がブレると、霧は水滴に戻って瓶の底にポタポタと溜まってしまう。あるいは、座標がズレて瓶の外に霧が漏れ出してしまう。
「くっ……違う、もっと細かく、均一に……!」
何度やっても、上手くいかない。
霧だけを出すならできる。座標指定で水を出すこともできる。だが、「絶対に水滴にならない極小のミストを」「見えない肺の内部という狭い座標に」「適切な量だけ」同時に展開する。
複数の精密な条件を一度にこなそうとすると、魔法の構成がパラパラと崩れ落ちてしまうのだ。
「なんで……なんで上手くいかないの……!」
額から汗が滴り落ちる。指先が震える。
もし一歩間違えれば、自分の魔法でお兄様を殺してしまう。そのプレッシャーが、シーナの冷静な思考をどんどん削り取っていく。
窓の外がすっかり暗くなった頃。
何百回目かの失敗でガラス瓶を水浸しにしたシーナは、フラフラとした足取りで治療室へと戻った。
ベッドの上で、浅く、苦しそうな呼吸を続けるケント。
その顔を見た瞬間、シーナの中で張り詰めていた糸がプツンと切れた。
「……っ、お兄ちゃん……」
シーナはベッドの縁に崩れ落ち、シーツを両手で強く握りしめた。
「ごめんなさい……私、全然できない。お兄ちゃんみたいに、一人で何でも完璧になんて、できないよ……っ」
顔をシーツに押し当て、声にならない嗚咽を漏らす。
天才だなんだと持て囃されても、結局自分は、お兄様が背中を押してくれなければ何もできない、ただの子供だ。
恐怖と無力感に潰されそうになった、その時。
ふわりと、背中から温かい腕が回された。
「……シーナちゃん」
振り向くと、そこにはニナの姿があった。
ニナは泣きじゃくるシーナを優しく抱きしめ、その背中をゆっくりと撫でた。
「ニナ、おば様……私、どうしよう。お兄ちゃんを、助けられない……」
「大丈夫よ。シーナちゃん」
ニナは微笑み、シーナの涙を指ですくった。
「ケントね、私の前でいつも言ってたのよ。……『シーナはすごい奴だ、あいつは本当の天才だ』って。私の前で、いっつもシーナちゃんの自慢ばっかり」
シーナが、ハッと息を呑む。
「『兄貴だし、あいつに負けないように俺も頑張らなきゃな』って、照れくさそうに笑ってたわ。……ケントはね、誰よりもシーナちゃんの力を信じてるの」
ニナの言葉が、冷え切っていたシーナの胸の奥に、じんわりと温かい灯りを落としていく。
「そんなシーナちゃんだもの。お兄ちゃんを助ける魔法なんて、ちょちょいのチョイで出来るわよ。……今は、少し難しく考えすぎてるだけ」
「難しく……」
シーナの脳裏に、幼い頃、郊外の家の裏庭でケントと魔法の練習をした記憶が蘇る。
『魔法は数字じゃない。イメージだ。頭の中で、どうしたいのかをはっきり描くんだ』
(そうだ。私は、お兄様がやっていた難しい魔法の理屈を、そのまま真似しようとしていた。……違う。私は私なりの『イメージ』でやればいいんだ)
シーナは涙を拭い、スッと立ち上がった。
震えはもう止まっていた。迷いはない。
「ニナおば様。治癒士の方たちを呼んできてください。……今から、治療を始めます」
数分後。
治癒士たちが見守る中、シーナはケントの胸の上にそっと両手をかざした。
目を閉じる。
頭の中に描くのは、難しい魔力構成でも座標計算でもない。ただ純粋に、ポーションの成分が、温かい湯気のように肺の隅々にまで浸透し、傷を癒やしていく『イメージ』。
「……行きます」
収納空間からポーションを引き出し、魔力で極限まで霧散させる。
そして、ケントの気管を通って肺の中へ、優しく、温かい息を吹き込むようにミストを流し込んでいく。
水滴にならない。強すぎない。ただ、癒やしの霧が肺の焦げた組織に触れ、治癒の力を浸透させていく。
治療室が、静まり返る。
シーナの額から汗が流れ落ちるが、彼女の手は微塵もブレなかった。
数分間、濃密なミストを肺の隅々に行き渡らせた後、シーナはゆっくりと手を下ろした。
「……終わりました」
シーナが息を吐いた、次の瞬間。
ヒューッ、という空気が漏れるような音と共に、ケントの胸が大きく跳ねた。
「ゴホッ! ゲホッ、ガハァッ!!」
ベッドから上体を跳ね起こし、ケントが激しく咳き込む。
その口から、黒く濁った血の塊がシーツの上に吐き出された。
「お兄ちゃん!?」
「ケント様!」
ザラやレナ、ニナが慌てて駆け寄る。
治癒士が素早くケントの脈を診て、胸に耳を当てた。その顔に、パッと驚愕と安堵の色が広がる。
「……信じられん。肺の最深部にあった傷が塞がり、溜まっていた古い血を自力で吐き出せたのだ。呼吸の音も安定している……死の危険は、完全に去りました!」
その言葉に、部屋の中にいた全員が、一斉にへたり込み、あるいは抱き合って涙を流した。シーナもまた、床に膝をつき、声を上げて泣きじゃくった。
視界が、ぼんやりと明るい。
体が鉛のように重く、あちこちが鈍く痛むが……どうやら、俺は生きてるらしい。
ガルドの自爆を相殺した後、地下牢の天井を見上げて意識が途切れたところまでは覚えている。
重い瞼をこじ開け、かすむ左目を開く。
真っ白な天井。そして、俺のベッドを囲むようにして、見慣れた顔がいくつもあった。
目を真っ赤に腫らした母さん、セリーナさん。ボロボロ泣いているシーナ。鼻を啜るレナに、目元を腕で乱暴に拭っているザラ。何故か泣いてるくせに偉そうに腕を組んでいるクロエ。
なんだ、全員無事じゃないか。
喉がカラカラに渇いていて、声がうまく出ない。
でも、どうしても言わなきゃいけない気がして、俺はひび割れた唇を少しだけ動かした。
「タ、だぃま……」
掠れた小さな声。
だが、その一言を聞いた瞬間、シーナが俺の胸に縋り付いて、子供みたいに大声で泣き出した。
本当に、世話の焼ける家族だ。
俺は動かない右腕の代わりに、左手を少しだけ持ち上げて、シーナの金色の髪を不器用に撫でてやった。




