第55話:狂犬が遺した嘘と、残された者たち
濃密な血と、焼け焦げた肉の臭いが、肺の奥にまでこびりついて離れない。
ルミナス侯爵邸の地下深く。最高レベルの防音と結界が施された特別治療室のベッドに横たわる血まみれの痛々しい姿が、私の大好きな人だなんて、どうして信じられるだろうか。
「……お兄ちゃん……ッ、ああっ……ケント、お兄ちゃん……ッ」
私の口から、獣の呻きのような、無様で掠れた声が漏れ続けた。
ベッドの上のお兄ちゃんの姿は、凄惨を極めていた。右半身の皮膚は爆発の超高熱で爛れ落ち、右足の骨はあり得ない方向に捻じ曲がって砕けている。かろうじて上下する胸の動きだけが、お兄ちゃんがまだ生きていることを辛うじて示していた。
「ケント……ああっ、神様……どうか、どうかこの子を……っ」
ニナおば様がお母様に支えられながら床に崩れ落ち、ただただ声を殺して泣き続けている。
部屋の隅では、いつも豪快なザラさんが顔を伏せたまま、ギリッと血が滲むほど唇を噛み締め、壁に押し当てた拳を小刻みに震わせていた。
レナさんは涙でボロボロになりながらも、少しでも彼の痛みが和らぐようにと、魔力で作った温かいお湯で、血に染まったお兄ちゃんの肌を必死に拭い続けている。
「……泣くな、お前たち」
重苦しい治療室の扉が開き、ルミナス侯爵が入ってきた。
その隣には、全身に分厚い包帯を巻き、従者に肩を貸されながらも無理やり歩いてきたお義父様、ギデオン様――お兄様の実の父親同然の人の姿があった。
「これは、ケントがお前たちを……家族を死刑台から守り抜くためにやったことだ。彼の覚悟を、ただの悲劇にしてはならない」
侯爵の深く沈んだ声に、私は弾かれたように顔を上げた。
「お兄ちゃんが、私達を守るために……?」
「ああ。ガルドは、地下牢で自らの体に仕込んだ魔道具で自爆しようとした。あのまま起爆していれば、私たちはおろか、地下牢そのものが吹き飛んでいた。そしてお前たちは私の庇護も無くなり、奴の身内という事で連座に問われていただろう」
ギデオン様が、血を吐くような苦しい声で言葉を継ぐ。
「だが、ケントは逃げなかった。奴の自爆の威力を相殺するため、自らゼロ距離で爆発魔法を叩き込み……文字通り『盾』となって、我々を、そしてあのクズの肉体をこの世から完全に消滅させたのだ」
「そんな……じゃあ、お兄ちゃんがこんな姿になったのは……」
「そうだ。だが、それだけではない。ケントは潰れた肺で血を吐きながら、死の淵で私にこう告げたのだ」
侯爵は、静かに、だが確かな畏怖を込めて、お兄ちゃんが最期に絞り出した『言葉』を私たちに伝えた。
「――自爆したガルドは偽物だ。本物はすでに帝国の工作員に殺されている。そう証言しろ、と」
息が、止まった。
あの男のせいで、私達家族が理不尽に殺される。その最悪の連座を断ち切るために、お兄ちゃんは自分の命を盾にして、さらに残されたわずかな息で、私たちを救うためだけの『嘘』をでっち上げてくれたのだ。
「……お、お兄、ちゃん……っ」
涙で視界が歪む。
どうして。どうしてあなたは、いつも自分だけが傷ついて、全部一人で背負い込んでしまうの。
私は、血まみれのお兄ちゃんの左手を、両手で強く、強く握りしめた。
(死なせない。絶対に死なせない。たとえ神様が連れ去ろうとしても、私がお兄ちゃんをこの世界に引き留めてみせる)
バンッ!!
その時、治療室の扉が乱暴に開け放たれた。
「ケント……!!」
息を切らして飛び込んできたのは、和平交渉を終えたばかりの第一王子、シャルム殿下だった。
彼はベッドに横たわるお兄ちゃんの無惨な姿を見るなり、顔面を蒼白にさせ、ふらつく足取りで駆け寄ってきた。
「馬鹿野郎……ッ! なんでお前は、いつもそうやって自分を……!」
シャルム殿下は、お兄ちゃんのベッドの脇に膝をつき、震える手でシーツを握りしめた。
一国の王となるべき彼が、まるで子供のように肩を震わせている。
「死ぬな、ケント……。お前は僕の相棒で、たった一人の近衛だ。……僕を置いていくなんて、絶対に許さないからな」
親友への悲痛な叫び。
その声を聞き届けたルミナス侯爵は、静かに目を閉じ、そして冷徹な政治家の顔へと切り替わった。
「……殿下。悲しんでいる暇はありません。彼が命を削って残した嘘を、真実に変えるための準備がございます。……どうか、殿下の御力をお貸しください」
「……ああ。行こう、侯爵」
シャルム殿下が立ち上がる。その顔から少年の涙は消え、王としての揺るぎない覚悟が宿っていた。
◆
それから、一週間。
ルミナス侯爵とエリアル伯爵は、王都と帝国を繋ぐ秘密の通信路を使い、何度も早馬を行き来させた。
帝国の実権を握ったモウデック公爵との間で、密かな、そして国を欺くための証拠書類の作成が急ピッチで進められていたのだ。ケントの嘘を絶対の事実に塗り固めるための、極秘の交渉。
そして、一週間後。王城、大評議会の間。
緊急招集された貴族たちがざわめく中、ルミナス侯爵は冷ややかな眼差しで議場を見渡していた。
「――ルミナス侯爵! 巷の噂では、王都を火の海にしたテロの首謀者は、お前の派閥に連なるガルドなる商人だというではないか!」
「そうだ! もし事実ならば、その元妻であるバロッサ子爵家の後妻や、バルガス家の身内とて連座は免れんぞ!」
王弟派の残党や、ルミナス派の台頭を疎ましく思う対立派閥の貴族たちが、ここぞとばかりに牙を剥いてくる。
侯爵はバンッ! と議事卓を強く叩いた。
「静まれいバカ者どもがッ!! 命を懸けて王都を護った英雄の最期の報告を、貴様らは冒涜する気か!」
侯爵の一喝に、議場が水を打ったように静まり返る。
「地下牢にて、テロの実行犯が自爆を試みた。それを身を挺して防ぎ、現在生死の境を彷徨っているケント・ヴォルガン男爵が、重傷を負いながら私にこう報告したのだ! 『首謀者はガルドの顔を被った偽物であり、帝国の工作員であった』と!」
「なっ……偽物、だと!?」
「馬鹿な! そんな都合の良い証言が信じられるか! 証拠の死体を出せ!」
吠える貴族たちに対し、侯爵は懐から一通の書状を取り出し、高く掲げた。
そこには、ウル帝国の宰相、モウデック公爵の正式な封蝋が押されている。
「これが証拠だ!! 和平交渉の折、帝国宰相より極秘に渡された名簿である! ここには、王都に潜入した『工作員』の名と、彼らがガルドなる商人を事前に殺害し、その身分を騙って破壊工作を行っていた事実が明確に記されている!」
議場が、驚愕のどよめきに包まれた。
この一週間の間に、両国の全権大使が正式な印を押して作成された書状。法的には絶対の『真実』となる公文書だ。
「死体は、男爵が被害を最小限に食い止めるために放った魔法により、完全に消滅した。……これでもまだ、帝国の卑劣な工作員ではなく、我が国の民を首謀者だと疑うか!」
侯爵の完璧な物証の前に、反対派閥の貴族たちは顔面を蒼白にして沈黙した。
そこへ、議場の最奥、玉座の前に立つ少年――シャルム殿下が、静かに、だが絶対の威厳を持って口を開いた。
「私の無二の友であり、命を懸けて私を護り抜いてくれたケント・ヴォルガン男爵。彼が血を吐きながら暴いた真実を疑う者は、この私が許さない」
王の代理たる第一王子の、決定的な一言。
それは、ケントの紡いだ嘘が、ノキア王国の歴史において完全に『真実』として上書きされた瞬間だった。
「テロの首謀者は帝国の工作員であり、ガルドなる商人もまた被害者であった。……この件は、これで結審とする!」
侯爵の高らかな宣言が、議場に響き渡る。
ニナとセリーナ、ニーナの首に巻き付こうとしていた連座の鎖は、こうして完全に粉砕されたのだ。
(……よくやった、ケント。お前の遺した嘘は、私が真実へと変えてみせたぞ)
侯爵は、議場の喧騒の中で静かに目を閉じ、未だ目覚めぬ狂犬の生還を祈った。




