第51話:復讐の亡霊と、震える和平の使者
焦げた石建材の臭いと、血の匂いが鼻腔を突く。
王都の裏路地。セリーナは憲兵隊と共に、ひっそりと佇む長く閉鎖された廃施設を見上げていた。
「自爆したテロ実行犯たちの足取り、目撃証言はすべてこの区画に向かっていました。王都内でこれだけの火薬と人間を隠せる廃施設は、ここしかありません」
「ここは……『旧ガルド商会』の跡地ですね」
憲兵の報告を聞き、セリーナは微かに眉根を寄せた。
ガルド。かつて自分が籍を入れていた男であり、シーナの父親。数年前に行方をくらましたあの男が残した、ただの空き家のはずだった。
これが単なる偶然か。それとも、何か良からぬ企みに利用されているのか。背筋を撫でるような嫌な予感を振り払うように、セリーナは細身の剣の柄に手をかけた。
「……油断しないでください。突入します」
セリーナの合図と共に、憲兵が堅牢な扉を蹴り破る。
「動くな! 憲兵隊だ!」
薄暗い一階の倉庫跡。そこには、大量の火薬樽と『魔法封じの魔道具』、そして虚ろな目をした数人の男たちがいた。
彼らは突入してきた憲兵の姿を認めるや否や、一切の躊躇なく、懐に抱えていた火薬の導火線に火を放った。
「しまっ――伏せろォッ!!」
轟音。爆炎が吹き荒れ、最前列にいた憲兵たちが吹き飛ばされる。
セリーナは咄嗟に身を翻し、剣の鞘で飛散する瓦礫を弾き落として爆風を凌いだが、自らの命を羽虫のように投げ出す異常な抵抗に、顔を強張らせた。
「狂っている……。一体誰が、こんな非道な真似を……ッ!」
「くくっ、ひははははっ!」
煙の奥から、耳障りな哄笑が響いた。
二階へと続く階段の踊り場。そこに、片腕を失い、汚れた外套を羽織った男が立っていた。
その顔を見た瞬間、セリーナの心臓が早鐘のように跳ねた。
「ガルド……!? あなた、生きて……!」
行方知れずになっていた彼が、なぜ王都の、しかも自身の商会跡地にいるのか。
混乱するセリーナを見下ろし、ガルドは残った左手で顔を覆いながらニチャリと嗤った。
「ああ、生きてるぜ。俺が今回の帝国の侵攻を手引きして、人間爆弾を仕向けた黒幕だからな」
「……な、なんだと……ッ!?」
セリーナの頭を、鈍器で殴られたような衝撃が突き抜ける。
行方不明になっていた自分の元夫が、国を売り、王都の民を爆殺したテロの首謀者。その信じがたい事実に、セリーナは愕然と目を見開いた。
「久しぶりだなあ、セリーナ。お前とシーナが『戦女神』だって? 元旦那と父親が王国裏切ってこれだけ死人出したんだ、お前らも連座で一緒に死ねよ?」
「貴様……正気か……ッ!」
激昂するセリーナを嘲笑うように、ガルドはさらに呪いの言葉を紡ぐ。
「それにあのケントとか言うクソガキもだ。俺の息子として育って、反逆者の娘が婚約者なんてことはいずれ知れる。いくら英雄とか言われても、貴族も市民も『いつかこいつも裏切る』と思うだろ? クアッハッハッ! ザマア見ろ!!」
ガルドの狂気に満ちた笑い声が、倉庫に響き渡る。
セリーナの足元から、急速に温度が奪われていく。剣を握る手が、カタカタと震えた。
自分の命など、どうでもよかった。どんな罰でも受ける覚悟はある。だが、自分がこの男と結婚していたというただその一点が、シーナの、そしてケントの輝かしい未来に『大罪人の連座』という最悪の鎖を繋いでしまう。
母親としての絶望が、セリーナをその場に立ち竦ませた。
――同刻。帝都近郊、ノキア王国軍本陣。
俺は小高い丘の上から、遠くに見える巨大な帝都の城壁を見下ろしていた。
十万を誇った帝国の正規軍はすでに泥の池と化し、今あの城壁を守っているのは、予備役や市民から強制的に徴用された五万の寄せ集め部隊だけだ。
「……静かなものだね」
背後から声をかけてきたのは、薄手の外套を羽織ったノキアの外務貴族、エリアル伯爵だった。
「嵐の前の静けさ、というやつですよ。伯爵閣下」
「違いない」
伯爵は苦笑しながら、眼下に広がる自軍の野営地へと視線を向けた。
そこかしこから、ノキアの兵士たちが武器を研ぐ甲高い音が響いている。だが、その音には平時の活気はない。血に飢えた獣が牙を研ぐような、異様で、重苦しい殺気だけが陣全体を覆っていた。
「兵士たちの怒りは限界だ。国境での虐殺を見て、略奪も報復も堪えさせてここまで来たんだ。シャルム殿下の統率力には恐れ入るが……それももう、限界だろうね」
「ええ」
俺が頷くと、伯爵は懐から一通の書状の写しを取り出した。
つい先ほど、ノキア側から帝都へ向けて送られた『最後通牒』の写しだ。
「現皇帝の退位と、ノキアが選定する新皇帝の擁立。主要領土の割譲、幅百キロの非武装地帯の構築。おまけに、向こう二十年間の税収二割をノキアへ納めること……。事実上の属国化、いや、奴隷宣言だ」
「……かなり無茶な条件ですね」
「ああ、無茶だとも。だが、シャルム殿下はこれ以上、条件を緩めるわけにはいかなかった」
伯爵は重く息を吐いた。
「もしこれ以上甘い条件を出せば、怒り狂っている我々の兵士が納得しない。命令を無視して、帝都で大虐殺が始まってしまう。あの苛烈な条件は、『これだけの賠償を負わせるのだから剣を収めろ』という、自軍を抑え込むためのギリギリの妥協点なのだよ」
「……為政者というのも、胃の痛くなる仕事ですね。で、その条件に対する帝国側の返答は?」
俺が問うと、伯爵は皮肉げに肩をすくめた。
「つい先ほど早馬が戻ったよ。皇帝は書状を火にくべ、『最後の一兵まで徹底抗戦だ!』と叫んだそうだ。……これで大義名分は立った。我が軍の兵士たちは『条件を呑まないなら上等だ、皆殺しにしてやる』と息巻いている」
「となると、伯爵の出番というわけですね」
俺は丘を降りるべく、踵を返した。
表向きの交渉は決裂した。だからこそ、俺とエリアル伯爵は、血の海を避けるための『裏の交渉』に赴かなければならない。
帝都の裏門は、驚くほどあっさりと抜けることができた。
正規兵や熟練の衛兵はすべて外の防衛線に駆り出されており、残っている門番はひどく怯えた様子で、俺の簡単な認識阻害の魔法だけで素通りできたのだ。
これから向かうのは、皇帝の末弟であるモウデック公爵の屋敷。
無用な敵対を避けて国内の発展を目指すべきと考える人物であり、エリアル伯爵とは以前から非公式に繋がりがあったという。
「いやあ、失敗したら首と胴体がお別れするんだろうと思うと、やっぱり怖いねぇ」
人気のない帝都の裏路地を歩きながら、伯爵は冗談めかして笑った。だが、その袖口から覗く指先は、カタカタと細かく震えている。
「……それでも、自ら志願されたのですよね」
「帝国が併呑されても、殲滅戦になっても、ノキアの兵は傷つくし、帝国の民は何倍も死ぬ。王国だろうが帝国だろうが、無辜の民が死ぬのはもう嫌なんだよねぇ。私みたいな老いぼれ一人の命で、それが止められるかもしれないなら、安いものさ」
俺は足を止め、自らの命を顧みず、震えながらも民のために己の仕事を全うしようとする目の前の文官に、深い尊敬の念を抱いた。
「閣下。私は何万人も殺せますが、これから閣下がなさるように、何万人も助けることはできません。せめて御身は誰が来てもお守りしますので、どうかご存分に」
「そうだね。卿に守ってもらっているんだから、私も格好をつけようか」
伯爵は静かに笑い、震える手を強く握りしめた。
帝都の中心部に位置する、豪奢なモウデック公爵邸。
その執務室で、モウデック公爵は苛立ちに任せて分厚い机を叩きつけた。
「……愚かな。徹底抗戦などと叫んで、何になるというのだ、兄上!」
公爵は、帝国を誰よりも愛していた。だからこそ、ノキアから突きつけられた苛烈な条件に、絶望的なジレンマを抱えていた。
あの条件を呑めば、帝国は属国となり、誇りを奪われた国内の貴族や国民の不満が爆発して必ず内戦が起きる。かといって、このまま抗戦すれば、帝都はあの『三万を蒸発させた魔法』という炎に焼かれ、文字通り灰燼に帰す。
どちらを選んでも、帝国は血の海に沈む。
頭を抱え、深く息を吐き出した公爵の元へ、執務室の扉を叩く音が響いた。
「旦那様。……ノキア王国特使、エリアル伯爵と名乗る者が、旦那様にお渡ししたいものがあると、門前にて面会を求めております」
「……エリアル伯爵だと!?」
公爵は弾かれたように顔を上げた。
水面下で繋がりを持っていた、ノキアの老練な外交官。この絶望の淵に、彼が自ら敵地のど真ん中へやってきた。
それは、ノキア側もまた、不毛な殲滅戦を望んでいないという、唯一の『希望の糸』だった。
「通せ……! いや、私が直接出迎える!!」
公爵は執務室を飛び出し、足早に門へと向かった。
重厚な鉄格子が開き、毅然とした態度で立つエリアル伯爵と、その背後に影のように付き従う黒髪の少年が、帝国の未来を決する公爵邸の敷地へと足を踏み入れたのだった。




