第52話:玉座の落日と、若き王子の孤独なる決断
豪奢な装飾が施された帝国の玉座の間は、異様な熱気と狂騒に包み込まれていた。
「ノキアの野蛮人どもに、我が帝国の誇りを売り渡すなど断じて許さん! 領民をすべて兵に徴用しろ! 最後の一兵まで徹底抗戦だ!!」
玉座から身を乗り出し、血走った目で唾を飛ばす初老の男――帝国皇帝。
その狂乱の叫びに、広間に集められた一部の過激派貴族たちが「おおおっ!」と拳を振り上げる。だが、大半の貴族たちの顔には色濃い疲労と絶望が張り付いていた。
徹底抗戦などと叫んだところで、十万の正規軍を失った今、行き着く先は文字通りの『殲滅』しかないのだ。
俺は、大広間の壁際に立つ石柱の陰に同化するように立ち、深く被った近衛兵の兜の奥で静かに息を吐いた。
この玉座の間には、強力な『魔法封じの魔道具』が作動している。大気中に魔力を放出すれば即座に霧散させられ、魔法使いはただの人間へと成り下がる。皇帝を守る絶対の結界だ。
だが、事前の打ち合わせでその事実を聞いた俺は、モウデック公爵とエリアル伯爵にこう告げたのだ。
『閣下たちは、戦後にこの国を建て直すために、これからすべきことが山ほどあります。その手を肉親の血で汚す必要はありません。せめてその件は、私にお任せください』
兄を自らの手で排除しようと悲痛な覚悟を決めていた公爵の負担を、俺が引き受けた。
公爵に玉座の間について聞いた所、玉座は石造りで床に固定されているとの事だった。空間への魔法の放出が封じられているなら、大気を通さなければいいだけだ。
俺は兜の奥で玉座を見据えながら、背後に立つ石柱の微かな隙間に、そっと指先を差し込んだ。
指先から練り上げた極小の魔力を、石柱の内部へと浸透させる。魔力は石畳の床の内部を這うように進み、そのまま地続きとなっている石造りの玉座へと到達する。結界の影響を一切受けない、物質伝導による死の狙撃。
あとは、玉座に腰掛ける皇帝の『素手』が、石の肘掛けに触れるのを待つだけ。
「我ら帝国の栄光は――がっ、あ……?」
皇帝が玉座の肘掛けを強く握りしめた、その瞬間だった。
肘掛けの表面から皮膚を伝い、極小の魔力が体内へと侵入。皇帝の体内で水魔法を使い致命的な血管を内側から破裂させた。
突如として叫びを途絶えさせた皇帝は、白目を剥き、自らの頭を両手で掻きむしるように抑え込んだかと思うと、そのまま糸の切れた操り人形のように玉座から転げ落ちた。
「へ、陛下ッ!?」
「誰か! 早く医務官を呼べ!!」
大広間がパニックに陥る。駆けつけた数人の医務官が皇帝の体に触れ、すぐに絶望的な顔で首を振った。
「……ダメです。『頭の悪魔』です。呼吸はありますが……今後、意識を取り戻す可能性はほぼないかと」
「なっ……! そんな、この国難に……ッ!」
一人の貴族が顔を蒼白にしてへたり込み、悲痛な叫びを上げた。
「これで陛下の直系の血統が途絶えてしまった……! たとえモウデック公爵閣下が帝位を継がれるにしても、閣下には女子しかおられず、次代を担う男子がおられぬ! これでは帝国はいずれ……ッ!」
未来の跡継ぎがいない。その事実に、広間を包み込む絶望がいっそう深く、重くなる。
その沈黙を切り裂くように、床を強く叩く杖の音が響き渡った。
「静まらんか!!」
モウデック公爵だった。
彼は倒れた兄を一瞥した後、狼狽える帝国貴族たちを鋭い眼光で睨みつけた。
「陛下が倒れられたからといって、帝国貴族たる者が無様に狼狽えるな! 確かに私には男子がおらん。だが、我が末の娘……いや、まだ『皇女様』がいらっしゃる!」
その言葉に、広間がざわめいた。
「皇女様……? まさか、あのアーリル様のお子ですか? しかし、あのお子は生まれてすぐに行方知れずになったはず……」
老貴族の疑問に、モウデック公爵は重々しく頷いた。
「あのままでは、前のお妃様に母子ともども暗殺されていたからな。アーリル嬢は保護した時にはすでに深い傷を負っており助けることはできなかったが、赤子だった皇女は、私が末の娘として密かに匿い、育てておる」
「おお……なんという……!」
皇統が生きている。その事実に、貴族たちの顔に一筋の安堵の光が差す。
そこへ畳み掛けるように、公爵はさらに声を張り上げた。
「私がノキアと折衝しよう。奴らの要求のうち、領土の割譲や非武装地帯は呑まねばなるまい。だが、この皇女様と、ノキアの王太子シャルム殿下に、和平の象徴として『婚姻』を結んで頂くというのはどうだ?」
大広間が、水を打ったように静まり返る。
公爵は、言葉という最強の武器を鮮やかに操り始めた。
「そこで、我が帝国の皇女が輿入れする際の『結納』として、賠償金を一割まで下げてもらうのだ。そして、お二人の間に出来たお子にはウルの皇籍に入っていただき、いずれはこの帝国の皇帝になっていただく!」
その見事な言い換えに、俺は兜の奥で密かに感嘆の息を漏らした。
これなら「属国化」ではない。「我が国の皇女が平和の象徴としてノキアの王太子に嫁ぎ、その血を引く者が帝国の玉座を継ぐ」という、帝国貴族のプライドを守る形になる。
「しかし公爵閣下……ノキア側は、次期王のお子を我々に渡しますかな?」
「渡すとも。ノキアからすれば、大国である帝国に自国の血が入るのだ、断る理由がない。それに……ノキアとしても、自らの王家に『帝国の血』を入れたくはないだろうからな。ノキアの世継ぎは『第二正室』という事で自国から迎えるだろうし、側室も付けるだろうが、ウルとして何も言う気はない」
なるほど、と貴族たちが深く頷き合う。
賠償金一割という数字も絶妙だった。
「一割……それであれば、先日の戦で十万の兵が減った分の『軍事費』だけで十分に賄えますな。婚姻もあってノキアと戦がないのであれば、これ以上兵を増やす必要もありませんし」
「うむ。領民への新たな税もない。内乱の心配は無用だろう」
軍事費をそのまま賠償金にスライドさせることで、帝国の牙を抜きながらも、生活が変わらない市民や貴族の不満は抑え込める。
エリアル伯爵とモウデック公爵が裏で組み上げた、両国の民が最も血を流さずに済むための筋書き。
「ノキアには、時候の挨拶を交わす程度の付き合いだが、知っている外務の者がおる。私がすぐに繋ぎを取ろう。……皇女様のお子が帝位を継ぐまでの間は、私が宰相として政を行おうと思うが、異存はあるか?」
公爵の静かな、だが威厳に満ちた問いかけ。
広間にいたすべての帝国貴族たちが、無言で片膝をつき、深く頭を垂れた。
ここに、帝国の血塗られた歴史が終わり、宰相による代理統治の時代が幕を開けたのだ。
数日後。帝都近郊のノキア軍本陣。
「以上が、モウデック公爵との間にまとまった和平条約の全容です。帝国は無血開城するとのことですが……」
天幕の中。エリアル伯爵の報告を聞き終えた諸将は、歓喜の声を上げることもできず、ただ沈痛な面持ちで上座の少年を見つめていた。
総大将、シャルム・ノキア。
血を流さずに、帝国の牙を抜く。だがその代償は、彼が顔も知らない敵国の皇女を正室として迎え入れ、二人の間に生まれた子供を『帝国のための皇帝』として差し出すという、王としての重い自己犠牲だった。
シャルは、膝の上で強く拳を握りしめ、しばらくの間、じっと目を伏せていた。
十五歳の少年が背負うには、あまりにも重すぎる国の枷。天幕の中に、痛いほどの静寂が降り積もる。
やがて、シャルはゆっくりと顔を上げ、諸将を見渡した。
その瞳に、もう迷いはなかった。
「……僕はかつて、帝国のナザル皇子と、この二つの国を平和に導くという夢を見た」
静かな、だが天幕の隅々にまで響き渡る声だった。
「だがナザル皇子は死んだ。……ならば、僕は彼の妹君と共に、その夢を作ろう。そして、私と彼女の子供たちが、必ずその夢を叶えてくれるだろう。この条件で、講和を結ぶ」
私情を捨て、国の未来と民の命のために、自らの人生さえも盤上の駒として差し出す決断。
歴戦の将たち、そしてエリアル伯爵が、深く平伏した。
皆が頭を垂れる中、俺だけは顔を上げ、シャルのすぐ隣に立っていた。
シャルは前を向いたまま、誰にも聞こえないほどの小さな声で、隣にいる俺にだけポツリとこぼした。
「……でも、国の為だけじゃなく、愛せたらいいよな」
それは、重圧に押し潰されそうになりながらも必死に前を向こうとする、十五歳の等身大の少年の本音だった。
俺は何も言わず、ただ静かに頷いた。
シャルは小さく息を吸い込み、さらに声を潜める。
「ケント」
呼ばれて視線を向けると、彼は俺の目を真っ直ぐに見つめ返してきた。
皇帝の不自然な発作。エリアル伯爵から事の顛末を聞いていれば、聡明な彼が誰の手によるものか気づかないはずがない。国のために、親友である俺が暗い血を被ったことへの、痛烈な自責の念。
「すまな……」
そこで一度言葉を切り、シャルは己の唇を強く噛み締めた。
その横顔を見て、俺は悟った。彼はもう、ただの少年の『シャル』ではないのだと。国のために泥を被った臣下に対し、ノキアを背負う王が謝罪を口にすることなど許されないのだ。
シャルは悲しげに瞳を揺らしながらも、はっきりと、俺にその言葉を告げた。
「……いや。ありがとう」
「……もったいなきお言葉です、殿下」
そして、より一層声を潜めて、俺はシャルに言う。
「気にすんなよバカ 俺達相棒だろうが」
俺が胸に手を当てて深く一礼すると、シャルは静かに目を閉じて小さく微笑み、そして天幕の外――帝都の空へ視線を向けた。
かくして、ノキア王国と帝国の間に和平条約が結ばれた。
長く、あまりにも多くの血が流れた戦争が、終わった。
俺たちは復讐の亡霊が暗躍する王都への、凱旋の途についたのだった。




