第43話:皇子の密室と、狂った取引
暗雲立ち込める海上で、十年の時を超えた二人の後継者候補の視線が、静かに交錯した。
「十数年前。大広間を無邪気に走り回り、私にぶつかってきた金髪の小さな子供……」
ナザル皇子の静かな言葉に、シャルは完璧な愛想笑いを保ったまま、しかしその瞳の奥には確かな警戒の色を浮かべていた。
俺は一切の表情を変えず、ローブの下で土魔法の照準をナザルの心臓に固定した。こいつがここで大声を上げれば、一瞬で心臓に砂を入れて殺し、海に放り込む準備はできている。
だが、ナザルは俺の殺気に気づいているはずなのに、剣の柄に手をかけることすらしなかった。
「……ここでは、潮風が冷たすぎる。それに、人目もあります。よろしければ、私の私室で温かい茶でもいかがですか?」
それは、捕縛の命令ではなく、明確な『密談』の誘いだった。
俺とシャルが視線を交わし、微かに頷き合う。
「ええ。光栄です、中佐殿」
案内されたのは、船の最上階にある豪華な特等室だった。
ナザルは部屋に入るなり、自らの手で重厚なオーク材の扉に鍵をかけ、さらには防音の魔道具まで起動させた。
そして、振り返ると同時に、深く、臣下のように頭を下げた。
「お久しぶりですね。ノキア王国第一王子、シャルム殿下」
「……はぁ。やっぱり、確信して言ってたんだね」
シャルが肩をすくめ、張り詰めていた愛想笑いを崩した。
いつもの、少し能天気で人懐っこい、だが王族としての芯のある顔に戻る。
「あの時、僕がぶつかったお兄ちゃんが、ウルの皇子様だったなんてね。でも、どうしてわかったの? 僕はあの頃まだ四歳だったし、面影だって……」
「忘れられるはずがありません」
ナザルは苦笑し、自室のソファを勧めてきた。
「当時の私は、『王国の人間は野蛮で話も通じない』と教育されていました。しかし、私の軍服を汚しても気にする様子もなく、太陽のように明るく笑って謝ってきた貴方を見て……私は、教えられてきた帝国の正義に疑問を持ったのです」
そこから、ナザルは静かに語り始めた。
疑問を持った彼が、自国の侵略の歴史と、ノキア側の非を両方の視点から調べ上げたこと。そして、どちらかが滅びるのではなく、両国が平和裏に共存してこそ発展があるという『穏健派』の思想に行き着いたこと。
「なるほどね」
俺は出された茶には一切手をつけず、冷たい声で話を遮った。
「あんたが平和主義者なのはよくわかった。だが、現実はあんたの親父さんが戦争を仕掛けようとしてる。……で? 俺たちが船底の荷物を吹き飛ばそうとしてるのを知ってて、あんたはどうするつもりだ? ここで俺たちを捕まえるか?」
俺の挑発的な問いに、ナザルは深く息を吐き、真っ直ぐに俺たちを見据えた。
「見逃すのではありません。……貴方たちに、あの新型銃を跡形もなく破壊していただきたいのです」
その言葉に、俺もシャルも目を丸くした。
「は……? あんた、正気か?」
「ええ。あの後装式単発小銃が前線に配備されれば、ノキアの防壁部隊は一方的に蹂躙され、凄惨な大虐殺が起きます。そんな血塗られた歴史を作れば、両国の遺恨は永遠に消えず、私が望む『共存』など夢物語になってしまう」
「待ってよ、ナザル殿」
シャルが身を乗り出した。
「いくら何でもおかしい。軍需物資を喪失すれば、最高責任者である貴方はタダじゃ済まないはずだ! 反逆罪で処刑されてもおかしくない!」
「処刑はされません。……父上である皇帝は、末の私をひどく溺愛しているのですから」
ナザルは、自嘲するように笑った。
「皇帝は、私を次期皇帝に据えるための『安全で確実な手柄』として、この無血の輸送任務を私に与えました。もしこの船が、目的地に着く直前に『原因不明の爆発事故』か『海魔の襲撃』で沈み、武器だけが失われたらどうなるか」
俺の脳内で、瞬時にロジックが組み上がる。
「……なるほど。溺愛してる息子なら、処刑まではされない。せいぜい『運が悪かった、あるいは無能だった』と左遷されて、後継者争いから脱落するだけだ」
「その通りです。戦争を遅延させ、大量虐殺を防ぎ、煩わしい玉座の争いから降りることができる。私にとって、これほど安い代償はありません」
狂っている。だが、とてつもなく理にかなった『狂気』だった。
自らの地位と名誉をドブに捨ててでも、国同士の致命的な亀裂を防ごうとする男。
「ただし、一つだけ条件があります」
ナザルはソファから立ち上がり、シャルの前で跪いた。
「シャルム殿下。貴方が将来、ノキアの王座に就いた時……ウル帝国との、非戦と平和の条約を結んでいただきたい。あの日の太陽のような笑顔で、両国を照らす王になっていただきたいのです」
それは、敵国の皇子からの、命と人生を懸けた懇願だった。
シャルはしばらく黙ってナザルを見下ろしていたが、やがて、その手を力強く握り返した。
「……約束する。僕が王になったら、必ず君と平和条約のサインを交わそう」
二人の間に、目に見えない強固な同盟が結ばれた瞬間だった。
俺はついにテーブルの上のティーカップを手に取り、冷めかけた紅茶を一口飲んだ。
「目的地に到着する直前に、船底に爆穴を空けて沈める。俺たちはマセック国民として救命艇で普通に逃げる。あんたも適当に海に飛び込んで助かれ」
「ええ。よろしくお願いします、ケント殿」
イカれた皇子サマだ。
俺は悪どい笑みを浮かべ、ナザルに向かってカップを掲げた。




