第41話:桜の散り際と、一ヶ月の青春
ドゴォォォンッ!!
「ぐはっ……!?」
道場の板間に背中から叩きつけられ、俺は肺の中の空気をすべて吐き出した。
視界が明滅し、体の外側を覆っていた水と土の魔力外骨格が、ガラスが砕けるような音を立てて霧散する。
「ほらほら、どうしたケント! あんたのその外付けの鎧、動きは硬いし、燃費が悪すぎるんだよ。そんな大味な魔力操作じゃ、アタシの動きには一生ついてこれないよ!」
見下ろしてくるのは、豊満な胸を揺らしながら豪快に笑う鬼人族の師範、櫻だ。
海府の街に滞在して二週間。俺はこのムチムチの鬼師範に、毎日毎日、雑巾のように床に叩きつけられていた。
櫻の戦い方は、俺の対極にある。魔力を体内に留め、筋肉と神経を極限までブーストする『インナーバフ』。魔力のロスが一切なく、スタミナも速度も俺のアウターバフを遥かに凌駕している。
俺もインナーバフの感覚を掴もうと必死になっているが、長年外骨格方式で戦ってきた癖が抜けず、どうしても外側に魔力が漏れてしまうのだ。
「……くそっ、もう一本だ!」
「その意気や良し! だが、次はあっちの坊やの番さ」
俺と入れ替わりで、シャルが木刀を持って板間の中央へ進み出る。
天才・シャルは違った。櫻から魔力の循環の理屈を数日教わっただけで、あっさりとインナーバフの基礎を習得してしまったのだ。さらには、この道場の最大の目的であった『魔法射出の指導法』も、すでに頭の中で言語化し終えているらしい。
「行くよ、櫻さん!」
「おいで、シャル!」
踏み込みの音と共に、シャルと櫻の木刀が凄まじい速度で交錯する。
俺のように力任せではない、洗練された魔力操作の応酬。櫻もシャル相手には楽しそうに笑い、手取り足取り(物理的に組み合いながら)指導をしている。
……最近、俺は気づいていた。
組み合うたびに、櫻の豊かな胸や太腿が当たるせいで、シャルの耳がゆでダコのように真っ赤になっていることに。
「おいシャル。お前さ、櫻さんのこと……」
その日の夜。宿の部屋で切り出すと、シャルは「わっ」と顔を赤くして視線を泳がせた。
ノキア王国は割合女性関係に緩やかだが、第一王子である彼には特定の婚約者もおらず、王子ともなれば醜聞を嫌い、遊びで女性と付き合ったり、娼館もいけない。当然そっちの経験もない。しかも、王宮にいるお淑やかな貴族令嬢たちとは正反対の、強くて豪快で、大人の色気に溢れた鬼人族の姐さんだ。DTのシャルが惹かれないわけがなかった。
「……友人の初恋は応援してやりたいが、アイツ、次期国王だぞ? 身分も種族も違うし、どうすっかなぁ」
「男女の事なんて、他人がどうこう言うのは野暮ってもんだよ、ケント」
俺が頭を抱えていると、部屋の隅から呆れたような声が降ってきた。
俺からアラビア数字と複式簿記を教わり、夜な夜な宿で計算の練習をしている紅屋の女将、朧だ。
「いいかい。理屈で恋が止まるなら、誰も苦労はしないさ。酒でも飲ませて、二人きりにすりゃいいんだよ」
「酒?」
「アタシに任せな。とびきり強くて美味い『鬼殺し』を用意してやるからね」
朧は艶然と微笑み、悪女の顔で煙管をふかした。大人の女は恐ろしい。
数日後の夜。
俺は『日頃の稽古の礼』という名目で、櫻を宿の俺たちの部屋に招待した。
用意された酒盛り。そこには朧も同席し、四人での宴会が始まった。
「いやぁ、櫻師範の強さは海府でも評判でしてねぇ。ささ、アタシの奢りです。遠慮なくやっておくれ」
「おっ、紅屋の女将が注いでくれるなんて光栄だね! こりゃあ美味い!」
朧の見事な話術とヨイショに乗せられ、櫻は上機嫌で『鬼殺し』をカパカパと空けていく。鬼人族は酒に強いが、度数最強の酒を水のように飲めば、当然酔いは回る。
シャルもシャルで、櫻に見惚れながら自分のペースを忘れ、あっという間に顔を真っ赤にしてフニャフニャになっていた。
「け、ケントぉ……僕、もう立てない……」
「おーおー、だらしない坊やだねぇ! アタシが寝かせてやるよ!」
千鳥足になった櫻がシャルを抱え上げ、ベッドへとドサリと放り込む。
その瞬間、朧が俺の袖をクイッと引いた。俺たちは無言で頷き合い、そのまま音もなく部屋を退室し、外から鍵をかけた。
翌朝。
部屋に戻ると、シャルの顔は茹で上がったように赤く、櫻は「いやぁ、若いってのは元気があっていいねぇ!」と、どこか艶っぽく、大人の余裕たっぷりに笑っていた。
……どうやら、なるようになったらしい。
そして、半月後。
ウル帝国へ向かう船が港に到着し、俺たちの海府での滞在が終わる日がやってきた。
港には、見送りに来てくれた櫻と朧の姿があった。
「櫻さん」
シャルが一歩前に出る。その顔には、いつもの能天気さはない。
一ヶ月の稽古で精悍さを増した、一人の男としての真剣な表情だった。
「……実は僕は、ノキア王国の第一王子、シャルムです。必ず国を立て直します。だから、その……落ち着いたら、僕の国に来てくれませんか。僕はあなたのことが、大好きです」
海風が吹き抜ける中、シャルは自分の身分を明かし、真っ直ぐに想いをぶつけた。
俺も朧も、黙ってその結末を見守る。
櫻は少しだけ驚いたように目を丸くした後、この一ヶ月で一番優しく、そして美しい微笑みを浮かべた。
「……嬉しいねぇ。王族からの求婚なんて、鬼の歴史でも初めてだろうさ」
櫻はそっと手を伸ばし、シャルの頬を撫でた。
「でも、駄目だ。アタシは鬼人で、あんたよりずっと年上だ。ノキアに行っても、アタシもあんたも、周りのしがらみで絶対に幸せにはなれない」
「そんなこと……!」
「それにね、シャル。アタシら鬼人は、人間の倍以上生きるんだよ」
その言葉に、シャルが息を呑む。
種族の壁。寿命の壁。王族という立場。
決して交わることのできない残酷な事実を、櫻は優しく、だがはっきりと突きつけた。
「アタシは、死ぬまでこのアマテラスで道場の師範をやってるさ。だから……」
櫻はシャルの胸をポンと叩き、豪快に笑った。
「あんたが王様になって、誰かに国を引き継いだら、寿命を全うする前にこっちに来れたら来な。その時はまた、たっぷり稽古をつけてやるからさ!」
それは、実質的な永遠の別れの言葉だった。
シャルは俯き、ギュッと拳を握りしめた。だが、やがて顔を上げると、少しだけ涙の滲んだ目で、真っ直ぐに櫻を見つめ返した。
「……はい。必ず、また手合わせをお願いします。師範」
こうして、シャルの一ヶ月の短い青春と、初めての恋は終わった。
満開に咲き誇り、そして未練を残すことなく潔く散っていく桜のように、美しく、切ない記憶として。
俺たちは櫻に見送られ、ウル帝国へと向かう巨大な交易船へと乗り込んだ。




