第40話:海府の道場と、美しき鬼の師範
紅屋の商隊と共に街道を進み、俺たちは無事に東の国の港町『海府』へと到着した。
山を越え、眼前に広がったのは、俺の想像を遥かに超える巨大な港湾都市だった。吹き抜ける海風に乗って、潮の香りと、魚や香辛料の入り混じった独特の匂いが鼻を突く。
石造りの強固な防波堤に囲まれた広大な港には、何十隻もの巨大な木造帆船が停泊しており、荷揚げや積み込みを行う労働者たちの活気ある声が絶え間なく響いている。異国の衣装を纏った商人たちが行き交い、海沿いの通りに並ぶ露店には、見たこともない色鮮やかな果物や、魔物の素材、そして海を越えたウル帝国から輸入されたと思われる製品がズラリと並んでいた。
前世の地球で見た横浜や神戸の港を思わせる、むせ返るような熱気と活気。異世界に転移して以来、ずっと内陸ばかりだった俺にとって、これほど海の匂いを感じる場所は初めてだった。
街の中心部にある、紅屋が定宿としている豪奢な宿屋の一室。
窓から活気ある港を見下ろしながら、煙管をふかしていた朧が、申し訳なさそうに肩をすくめた。
「悪いね。ウル帝国の商人どもと話はつけてきた。あんた達を『紅屋の特別な客』として、帝国の交易船に乗せる手筈は整ったんだが……」
「何か問題でもあったのか?」
「いや、船の都合さ。帝国軍の物資調達が優先されてるせいで、民間商船の行き来が制限されててね。次にここからウル帝国方面へ向かう船が出るのは、きっちり一ヶ月後になるそうだよ」
コン、と煙管の灰を落とし、朧は苦笑した。
路銀も船のツテも確保できたが、こればかりは物流と国家の都合だ。文句を言っても船が早く来るわけではない。
結果として、俺とシャルは、この見知らぬ港町で、まるまる一ヶ月という長い暇を持て余すことになってしまったのだ。
朧としては、アラビア数字を使った計算や、軽く匂わせて追加の金をせしめた「多桁式帳簿」について教わる時間が多くなって喜んでいた。
宿の食堂で、アマテラス特有の魚介出汁が効いたうどんのような麺をすすりながら、俺たちは今後の予定を話し合っていた。
「一ヶ月か……。ずっと宿でゴロゴロしてるわけにもいかないしな」
「そうだね。僕も海府の街を見て回りたいけど、さすがに一ヶ月は時間を持て余すかな」
「なあシャル。せっかくだから、この国の連中がどう戦うのか、じっくり観察しておこうぜ。街道で襲ってきた家老の刺客たち、明らかにノキアの兵士とは動きが違っただろ?」
「賛成! ノキアとは教育の土壌が全然違うからね。あの『射出魔法』を、彼らがどう教えているのか興味があるんだ」
俺たちは宿を出て、朧に教えてもらった街外れの『道場』へと向かった。
アマテラスの護衛や用心棒、血の気の多い荒くれ者たちが腕を磨くために通っている場所であり、金さえ払えば誰でも門を叩けるらしい。
巨大な瓦屋根と漆喰の壁で作られた道場の前に立つと、開け放たれた門の奥から、腹の底に響くような激しい掛け声と、固い木刀が激突する甲高い音が聞こえてきた。
中を覗けば、百畳はあろうかという磨き上げられた広い板間で、三十人ほどの門下生たちが滝のように汗を流していた。
道場の隅で見学させてもらうと、やはり街道で家老の刺客たちが行っていた戦術と同じだ。
前衛の者たちが激しく打ち合うその後方――十メートルほど離れた位置から、別の門下生たちが当然のような顔で『風の刃』や『土の弾丸』を正確に撃ち出し、前衛の足元や木刀の軌道を狙って援護の訓練を行っている。誤爆の危険など微塵も考えていない、完全に統率された連携術だ。
シャルがその光景を苦々しげに見つめ、ぽつりと呟いた。
「……やっぱり、特別な訓練を受けた近衛兵でもない、ただの道場の門下生ですら、当たり前のように魔法を飛ばしているんだね」
ノキア王国では『火魔法以外は体から離せない』というのが絶対の常識だ。幼いころからそう刷り込まれているがゆえに、火魔法以外は射出をイメージできず使えないのだ。
俺の提唱で、一部の王族、ルミナス家やバルガス家だけは『射出』を技術として秘匿し、自分たちの特権として抱え込んでいる。だが、この国では違う。特別な才能も家柄もない一般人が、基礎としてそれを習得しているのだ。
「シャル。お前がショックなのは、飛ばせること自体じゃなくて、その『当たり前さ』だろ?」
「うん。ノキアが技術を秘匿している間に、この国では子供の頃からそれを『常識』として教えている。教育の広がりが根本から違うんだ。……ノキアに帰ったら、絶対に今の指導法を改めさせなきゃいけない。一部の天才だけが使える技術より、全員が使える基礎技術の方が、国としては圧倒的に強いんだから」
「……俺はあの時の秘匿の判断が間違っていたとは思わない。だが、帝国と交易があるアマテラスでこれほど普及しているのであれば、近く帝国にも普及するだろうな。」
シャルの目が、ただの驚きを超えて、次期国王としての強い使命感に燃えている。
こいつは一ヶ月この道場に通うことで、彼らがどうやってその高度な感覚を万人に伝えているのか、その『指導法』と『カリキュラム』を丸ごと盗むつもりなのだ。
一方、俺の視線は後衛の魔法使いではなく、打ち合っている前衛の門下生たちに釘付けになっていた。
あいつら、単に筋力が強いわけじゃない。踏み込みで板間が軋む音、木刀を振るう際の風切り音、どれも常人の発揮できる出力ではない。
「……強化魔法、か」
彼らは魔力を体内に循環させ、筋肉や神経を直接強化している。燃費が良く、動作の遅延がない、極めて合理的で洗練された身体強化魔法だ。
俺が使っているのは、体の外側に自身で魔法を展開し、強引に肉体を動かす『外部骨格型』。動きが直線的になりやすく、何より魔力の消耗が激しすぎる。
もし、ここで俺が彼らの『純粋な体内強化』をモノにできればどうなる?
身体能力を底上げした内側の肉体に、外側からのパワードスーツを重ね掛けする。例えるなら、高性能なエンジンを積んだ車に、さらに強力なブースターを取り付けるようなものだ。
インナーとアウターの二重強化――間違いなく、俺のスペックは跳ね上がる。
「よし。決まりだな」
「ええ。僕も本気で学ばせてもらうよ」
俺たちが道場の板間に足を踏み入れようとした、その時だった。
「おや? 見ない顔だねぇ。他国の人間かい?」
ふわりと、汗の匂いに混じって、どこか甘い香りが鼻を突いた。
気怠げで、それでいて芯のあるハスキーな声。
道場の奥、一段高くなった上座から現れたその人物を見て、俺もシャルも思わず目を奪われた。
豊かに波打つ艶やかな黒髪。道着のスリットから遠慮なく覗く、はち切れんばかりの豊かな胸元と、健康的に引き締まったムチムチの太腿。
見た目は二十代後半の、色気たっぷりの大人の美女。だが、その額からは、人間にはない妖しく艶やかな『二本の角』が生えていた。
「アタシは櫻。この道場の師範をやってる、しがない鬼人族さ。……見学かい? それとも、入門希望かな?」
櫻と名乗った女師範は、組んだ腕の上に豊かな胸を乗せ、からかうように俺たちを見下ろした。
その立ち姿には一切の隙がなく、呼吸のペースすら掴ませない圧倒的な『強者』の気配が漂っている。
俺は口角を吊り上げ、一歩前に出た。
「入門希望だ。……一ヶ月で、あんたの技術を全部盗んでやるよ、師範殿」




