第38話:狂犬の交渉術と、0の概念
血まみれの御者が転げ回り、姫と呼ばれた女と護衛が逃げるように去っていった口入屋の前での暴れっぷり。
完全に常識のタガが外れた狂犬と、それを笑顔で放し飼いにする飼い主という、異様すぎる二人の依頼人
騒ぎを入り口から見ていた口入屋の看板娘は、自分に向かってくる二人を見て、プルプルと震えていた。
シャルがやれやれと肩をすくめ、女に向かって人懐っこい笑顔を向ける。
「ほらー、ケントがムチャやるから怯えちゃったじゃないか。……ごめんね、ちょっと依頼を出したいんだけど。ノキアっていう国の位置や、そこへの行き方の情報が欲しいんだ」
俺が止める間もなく、シャルはあっさりと自分たちの目的地を口にした。
本当にこいつは……! 自分の命が狙われていて、見知らぬ土地に飛ばされたというのに、警戒心というものが欠落しているのか。いや、第一王子として常に完璧な仮面を被り続けてきた反動で、素の『シャル』に戻った結果がこの大物感なのだ。
「……あんた達、訳ありかい?」
奥から紫煙を燻らせながら現れたのは、艶やかな着物を着崩した熟女だった。
年は三十代半ばだろうか。気怠げな色香の奥に、路地裏の泥水を啜って生き抜いてきたような底知れぬ鋭い眼光が潜んでいる。おそらく彼女が、この口入屋『紅屋』を仕切る顔役なのだろう。
店の前で耳をむしり取られるという惨劇があったにもかかわらず、女の顔には微塵も恐怖がなかった。
女はシャルの言葉を聞いて、ピタリと煙管を止めた。
「ノキア、ねぇ……。あんた達、あの死に体の国へ行こうってのかい?」
「お、知ってるの?」
「知ってるも何も……ウル帝国が狙ってるっていう、あの国のことだろ?」
ウル帝国。その単語に、俺とシャルは視線を交わした。
この東の島国『アマテラス』とノキア王国は、全く交流が無い位の距離と考えると、おそらくヨーロッパと日本くらいは離れているはずだ。にもかかわらず、この極東の裏社会の女が、ノキアの情勢を知っている。
「どうしてノキアを知ってる? 行く方法は知ってるのか?」
俺が冷たい声で尋ねると、女は鼻で煙を吐き出して肩をすくめた。
「そんなもんわかりゃしないよ。アタシだって、ウル帝国の商人どもが『ノキアを攻めるために、火薬の材料になる硝石を本国が買い占めてアマテラス向けの俺達に回ってこない』って、酒場で愚痴ってたのを聞いただけさ」
なるほど。魔法を無効化する新兵器と合わせて、ウル帝国は植民地中の硝石を買い占めて火薬《物理兵器》を増産しているのか。その煽りを受けて、硝石の輸入国であるこのアマテラスの物価も変動し、裏社会の女将である彼女の耳にまで情報が届いたというわけだ。
直接ノキアへ行く方法はなくても、ウル帝国の交易船に潜り込めれば、少なくとも地球で言うインドあたりの『中間地点』までは行けるはずだ。
「その『ウル帝国の商人』ってのを紹介してくれよ」
俺が要求すると、女――朧と名乗った女将は、ふんと鼻を鳴らした。
「ただ働きはごめんだし、アイツラと商売以外で付き合いたくなんかないね。あんた達みたいなヤバい連中を押し付けたとなれば、アタシの信用に関わる」
「なら、いいこと教えてやるよ」
俺は口角を吊り上げ、一歩前に出た。
前世の社畜時代、何度も経験した『交渉』の空気だ。相手の懐に飛び込み、首根っこを掴んでこちらの土俵に引きずり込む。
「お前、ちょっとその帳簿見せてみな?」
「何言ってんだい。帳簿なんて、人様に見せるもんじゃないだろ」
朧が警戒して手元の分厚い和紙の束を隠す。
「いやな、お前がさっき奥でウンウン唸りながら頑張ってたその計算な。俺なら三十も数えりゃ解けるし、俺が教えりゃお前だってできるようになるんだが?」
「……はあ? あたしゃこう見えて計算は早いんだよ。算木を使わせりゃ、この街で右に出る者はいないね。もし本当なら紹介してやるさ」
「じゃあ、答えが見えないようにして、数字のところだけ見せてみな」
俺は懐から、先ほどの安宿でくすねてきた粗悪な紙と、木炭の欠片を取り出した。
朧が半信半疑の顔で、帳簿の一部の『漢数字』で書かれた複雑な売上の合計と、それに掛かる税率や手数料の計算式を指差す。
「紙と筆よこしなよ。……じゃあ行くぞ」
俺は木炭を走らせた。
この世界の、特にこのアマテラスの人間は知らない。
人類の歴史において、計算という概念を劇的に進化させた最強のツール。
位取り記数法――『0(ゼロ)』の概念と、アラビア数字を用いた『筆算』の圧倒的な処理速度を。
シャシャシャッ、と木炭が紙の上を滑る。
漢数字をアラビア数字に変換し、桁を揃え、繰り上がりを機械的に処理していく。
朧が算木を並べ替えるのに数分かかる複雑な計算が、ものの十秒で完了した。
「できたぞ」
俺が漢数字で書き直した紙を突きつけると、朧は「嘘だろ」と鼻で笑いながら、自分の帳簿の『答え』の欄と、俺が書いた数字を見比べた。
そして。
「…………合ってる。そんな、馬鹿な」
朧の顔から、すっと血の気が引いた。
手品でも見たかのような目で、俺が書いた見たこともないミミズの這ったような記号《アラビア数字》を見つめている。
「よし、じゃあ約束通り紹介な」
「お、お願いだよ! この記号の書き方と、やり方を教えちゃくれないかい!?」
朧が身を乗り出し、俺の腕を掴んできた。
無理もない。商売する人間にとって、この『アラビア数字による筆算』はただの便利な計算方法ではない。
第一に、計算速度が跳ね上がる。第二に、この世界の誰も知らない文字で書かれるため、事実上の『解読不可能な暗号帳簿』になるのだ。これほど価値のある力はない。
俺は冷たい笑みを浮かべ、朧の腕を振り払った。
「……別料金だな。帝国商人への紹介だけじゃなく、船に乗せるところまでお前が交渉しろ。ついでに、ノキアまでの路銀も出せば教えてやる」
「ちっ、ちっと高くはないかい!?」
「バカだなあ」
俺はわざとらしくため息をつき、朧の耳元で悪魔のように囁いた。
「お前だけが読める暗号の帳簿で、他の連中が算木でチンタラ計算してる時間で、お前は先の商いができるんだ。それに、だ。『他の人間にやり方を教えて儲ける』事だってできるんだぞ? 俺はお前にしか売らないけど、お前は売り放題だ。あー、羨ましいなあ」
「ッ……!」
朧が息を呑む。
商売人としての損得勘定が、俺の提示した『未来の莫大な利益』を瞬時に弾き出したのだろう。
その横で、シャルがのんきにお茶をすすりながら口を挟んだ。
「お姉さん、買っておいた方がいいよー。こいつ、機嫌損ねるとすぐ人の耳とかむしり取るし。それに、ケントの頭の中身は、国がひとつ買えるくらいえげつないからね」
笑顔で恐ろしいことを言う飼い主のフォロー(?)に、朧はついに白旗を上げた。
「……なんか釈然としないけど、儲かるのは確かだねぇ。わかったよ。商売のついでに、アタシも一緒に海府の港に行って話をつけてやる。路銀は二人で半年分だから、大銀貨で二十枚出してやるよ。それで良いかい?」
「交渉成立だ。よろしく頼むぜ、朧の姐さん」
こうして俺たちは、情報と路銀、そして最強のツテを手に入れた。
紅屋の商隊と共に、帝国の交易船が寄港するという港町『海府』へと向けて出立したのだった。




