第37話:消えた第一王子とケント、そして残された者たち
ノキア王国王城、最も奥まった場所に位置する国王の執務室。
分厚い絨毯が敷かれた豪奢な部屋は、いまや息を吸うことすら躊躇われるほどの重苦しい沈黙と疲労感に支配されていた。
豪奢なマホガニーの執務机の奥で、ノキア国王は深く刻まれた眉間の皺を指で揉みほぐしながら、長く重い息を吐き出した。最近は慢性的な胃の痛みに悩まされており、宮廷医が調合した苦い胃薬が手放せない。
「……やはり、帝国の仕業で間違いないのだな、ルミナス」
「ええ。ダンジョンを調査した魔術師団の報告によれば、地下に隠匿されていたのは古代の無作為長距離転移陣。それも、我が王家の血筋に反応して発動するよう、その上に極めて高度な術式が追加されて編み込まれていました」
国王の問いに、王国の筆頭貴族であるルミナス侯爵が苦々しい表情で報告書を机に置く。
第一王子にして次期国王たるシャル・ノキアの失踪。通常であれば、この報せだけで国の中枢は大混乱に陥り、権力闘争による内乱が起きてもおかしくない絶望的な事態だ。
「第二王子を修道院から秘密裏に連れ出し、その血をもって罠の術式を編み、我が国への侵攻と同時に王位を簒奪させる。そのための『第一王子排除』の罠……。奴らめ、周到に牙を研いでいたというわけだ」
「御意。本来ならば、シャル様を失った我々は派閥争いで真っ二つに割れ、帝国軍に蹂躙されるのを待つのみだったでしょう。……本来ならば、ですが」
ルミナス侯爵は、そこでふっと意地悪な笑みを浮かべた。
執務室に満ちているのは、完全な絶望ではない。国の危機という焦燥感の中にあって、奇妙な『安堵』が入り交じっていたのだ。
「帝国も、とんだヤブヘビを突いたものです。奴らはシャル様を戦場から完全に排除したつもりでしょうが……結果的に『次期国王を、我が国最高の戦力付きで戦火の及ばない安全圏へ避難させた』ことになります」
「ふっ……違いない。あのヴォルガン男爵が傍にいる限り、シャルが命を落とすことなど万に一つもあり得んからな」
王の言葉に、ルミナスも深く頷く。
鑑定値「1」という無能の烙印を押されながら、現代知識という異端の知略と理不尽なまでの魔法の応用で、不可能を覆してきた男、ケント・フォン・ヴォルガン。
あの理不尽の塊のような規格外の男が、古代の罠ごときで死ぬはずがない。王も、侯爵も、その点に関しては微塵も疑っていなかった。シャルが確実に生きているという強固な確信が、貴族たちの第二王子派閥への警戒と結束を、かつてないほど盤石なものにしているのだ。
「だが、油断はできん。帝国は国境付近に『未知の魔道具』を多数投入し、すでにかなりの侵攻を許していると聞く」
「ええ。我が軍の魔法攻撃を無効にする、得体の知れない兵器のようです。……しかし、ご安心を。私自らが前線に立ち、反撃の陣を敷きます。バカ息子たちがのこのこと帰ってきた時、国がなくなっていては笑い話にもなりませんからな」
ルミナス侯爵の鋭い眼光に、王は力強く頷いた。
一方、場面は変わり、王都の一角に構えるバルガス伯爵家の屋敷。
広々とした応接間には、王城とはまったく異なる空気が流れていた。
「……ということで、転移陣の魔力の痕跡を追跡しましたが、大陸の外へ飛ばされた可能性が高く、行方は全く予測がつきません」
ザラが、徹夜明けの疲労の色を濃くして報告を終えた。彼女の隣では、ケントの母であり、今はバルガス家で庇護されているニナが不安げに身を固くしている。
取り返しのつかない重い空気が流れるかと思いきや。
「ふはははっ! なるほど、あの馬鹿息子は海の向こうへ飛んだか!」
バルガス伯爵ギデオンは、豪快に笑い飛ばして卓の上のワインを一気に煽った。悲壮感など欠片もない、いつもの脳筋全開の笑い声だ。
「義父上、笑い事ではありませんよ。……まあ、私もそこまで心配はしていませんが」
婚約者であるシーナも落ち着いた顔をしている。
「ザラさん、本当に大丈夫なのでしょうか……? ケントが、その、遠い異国で……」
ニナがおずおずと尋ねると、ギデオンはドンと大きな胸を叩いた。
「案ずるなニナ殿! 当然だろう、あのケントが罠ごときでくたばるわけがない。むしろ、見知らぬ土地に飛ばされた先で、現地の悪党どもがケントの理不尽な八つ当たりを受けていないか、そっちの方が不憫でならんわ!」
「ええ。私との闘いでも空気抜かれて気絶の後は毒使うなんてエグい手を使ってきた男ですよ?。今頃、自分の吐いた言葉で勝手にキレて、現地の人間を泣かせている姿が目に浮かびますわ」
ザラの言葉に、ニナも思わず毒気を抜かれたようにため息をつく。
王城の張り詰めた空気とは打って変わって、バルガス家にはケントに対する絶対的な、そして呆れに似た信頼が満ちていた。
「さて、シーナよ。バカ息子たちが帰ってくるまでに、我々は我々の仕事をしよう。帝国の未知の魔道具とやらごと、前線で奴らをすり潰すぞ」
「はい、義父上。……お兄様、無事に帰ってきたら、少しお説教ですね」
出陣の準備へと向かう二人の背中には、敗北の二文字など微塵も存在していなかった。
しかし、彼らが絶対の信頼を寄せて前線へと向かうその裏で、王国の喉首には冷たく黒い刃が突きつけられようとしていた。
ノキア王国と帝国の国境付近、深い森に覆われた暗がり。
冷たい夜雨が降り注ぐ中、泥濘んだ獣道を、重そうな荷馬車が何台も列をなして進んでいた。荷台には防水の分厚い布が掛けられ、中身は厳重に隠匿されている。
「ほら、さっさと運べ! 帝国軍の本隊が着く前に、指定された拠点に『魔道具』を隠すんだ!」
荒々しい声で商人たちに指示を飛ばす男の姿があった。
雨に濡れた外套の下、男の右腕の袖は空虚に風に揺れている。
シーナの魔法によって腕を吹き飛ばされ、バルガス伯爵家によってニナとセリーナを離縁させられ、領主に養子となった長女ガブリエラもケントに首を刎ねられてベルンハイトの領主からも疎まれて落ちぶれていた小悪党――ガルドだった。
「……ひっ、痛ぇ……」
ガルドは失われたはずの右腕に走る幻肢痛に顔を歪めながら、左手で自身の胸元、正確には胃のあたりを強く押さえた。
そこには、冷たく硬い『異物』の感触がある。
帝国に協力し、王国へ未知の魔道具を密輸し続ける見返りとして、ガルド自身が強く希望して体内に埋め込ませた『自爆の魔道具』だ。
ガルドはもう、自分が運んでいる木箱の中身が何なのか、どういう効果の魔道具なのかすら知ろうともしなかった。ただ、王国を滅ぼすための兵器であることさえ分かっていれば、それでよかった。
かつての彼は、家の体裁や金貨の重さに執着する俗物だった。しかし、セリーナとニナを奪われ、長女であったガブリエラは無惨に殺され、頼みの綱だった領主からは汚物のように切り捨てられた。
すべてを失った男の心には、底知れぬドス黒い憎悪だけが残った。
(ケント……シーナ……ルミナス……俺を見下した王族ども……)
もはや自分の命にすら未練はない。ただ、国ごとあいつらが絶望に染まる顔が見たい。
そしていつか、自分の悪行が露見し、断罪の場に引きずり出された時。
あの憎きケントやシーナを、王族どもを道連れにして、この体内の魔道具を起爆してやる。自分を蔑んだ連中が、吹き飛ぶ自分の肉体とともに絶望の悲鳴を上げて死んでいく。その光景を想像するだけで、ガルドの口角は歓喜に歪んだ。
「ひはっ……ひひひっ……待ってろよ、ケントぉ……。お前たちの守る国ごと、全部、全部壊してやる……っ」
雨音に掻き消されるほどの低い哄笑が、国境の森に不気味に響き渡っていた。
失うものを何一つ持たない「無敵の人」となった狂人は、暗い悦びを抱きながら、王国の破滅を運ぶ歩みを止めることはなかった。
当初のプロットを変えたために0話を変更しました。
書いては有ったのですが、多少ネタバレになるので今まで変更してませんでした。ご迷惑おかけしますが、再度0話を読んでいただけるとありがたいです




