閑話:母たちの誇りと、青き炎の誓い
ベルンハイト郊外の小さな家は、今や甘く芳醇な香りに包まれた立派な工房へと姿を変えていた。
「ニナさん! 先月納品してもらった干し葡萄、王都の貴族様から追加の注文が入ったんですよ! 香水の方も飛ぶように売れてましてね!」
「ふふっ、ありがとうございます。でも、無理な増産は品質に関わるので、ペースは守らせてくださいね」
商人とにこやかに、しかし毅然と交渉するニナの姿に、かつてガルドの屋敷で怯えていた弱々しい面影はない。
ケントが残してくれた「高級ドライフルーツ」と「エッセンシャルオイル」の製法。才能や魔力量がなくても、彼が教えてくれた手順を丁寧に守るだけで、誰も真似できない最高級の特産品が生み出せる。
今やニナは、ベルンハイトの商人たちがこぞって頭を下げる凄腕の職人として、見事に自立を果たしていた。
「……あ、そうだ。ニナさん、ルミナスから手紙が届いてますよ。バルガス子爵家の紋章が入ってましたけど……」
商人が差し出した一通の手紙。
それを受け取った瞬間、ニナの心臓がドクンと大きく跳ねた。
ケントが旅立ってから、まだ数ヶ月。
風の噂で、彼がルミナスの冒険者ギルドの不正を暴き、その功績で領主の腹心であるバルガス子爵の『養子』に迎えられたと聞いた時は、心配で夜も眠れなかった。
平民の子供が、いきなり大貴族の跡取りになる。どれほどの重圧と、理不尽な陰謀に巻き込まれているのだろう。手紙にはきっと、貴族としての難しい近況や、気を遣った長々しい挨拶が書かれているに違いない。
ニナは震える手で封を切り、中に入っていた羊皮紙を開いた。
『毎日元気にやってるよ』
大きな文字で、たった一言。
それだけが書かれていた。
「…………えっ?」
ニナは目を瞬かせ、裏を返したり、封筒の中を覗き込んだりしたが、本当にその一文しかなかった。
そして次の瞬間、ニナの口からプッと吹き出すような笑いが漏れた。
「あはは……っ、ふふふっ! もう、ケントったら……っ」
涙が出るほど笑って、そして本当に一粒の涙がこぼれ落ちた。
貴族の養子になろうが、大都会に行こうが、あの子はあの子のままだ。元気にご飯を食べて、笑っている。その一言だけで、ニナの胸を覆っていた不安の雲は完全に晴れ渡った。
「……私も、負けていられないわね。教会での鑑定の義に必要な金額を稼いでおかなくちゃ」
ニナは手紙を胸に抱きしめ、温かい涙を拭うと、再び誇り高い職人の顔になって工房へと戻っていった。
一方その頃。ルミナスから遠く離れた、海沿いの豊かな港町。
海を見下ろす断崖絶壁の岩場で、空気を切り裂くような甲高い風切り音と、凄まじい轟音が響き渡っていた。
「はぁぁぁぁぁぁッ!!」
十二歳に成長した少女――シーナが、右手に握った木剣を振るっていた。
その刀身には、超高温の『青白い炎』が纏わりついている。だがよく見れば、炎は木剣そのものを燃やさないよう、刀身から数ミリ離れた空中に固定(座標指定)されていた。適性『2』の火魔法に、風魔法で極限まで圧縮した酸素を送り込み続ける、ケント直伝の青き炎の剣だ。
シーナはそのまま鋭い踏み込みで岩へ肉薄し、剣を振り下ろす――と同時に、岩の表面に極小の【爆鳴気】(水素と酸素の圧縮球)を生成し、寸分違わぬタイミングで叩き込んで起爆させた。
ドゴォォォォォンッ!!
強烈な爆発が岩を粉砕し、凄まじい熱波と衝撃波、そして岩の破片が至近距離のシーナを襲う。
だが、シーナは焦る様子もなく、飛びのきながらも、爆発の瞬間に自身の体を覆うように【水】【風】【土】の魔法を同時展開した。
土の障壁で破片を防ぎ、水のクッションで熱を奪い、風のベールで衝撃を逸らす。彼女が本来持つ「5」の適性をフル活用した、完璧な『三重防御』。
それでも防ぎきれずにすり抜けてきた余波や熱風は、彼女自身の【収納】の空間を開いて一瞬で吸い込み、完全に無力化した。
「ふぅ……っ、よし。防御の展開速度、遅れてない」
粉々になった岩山を前に、シーナは額の汗を拭って息を吐いた。
(この青い炎の剣を維持できるのは、長くて三十分。極小の爆鳴気なら五十発、大きな爆発なら十発撃てば魔力が底を尽きる……。もっと、もっと魔力袋を広げて、コントロールも上手くならないと)
ケントとの地獄の特訓のおかげで、同年代の魔法使いに比べれば破格の魔力量を持っているシーナだが、それでも兄の底なしのスタミナ(出力1×魔力3000)には遠く及ばない。
「……やりすぎよ、シーナ。この辺りの岩場、あなたが全部粉々にしちゃったじゃないの」
呆れたような声と共に、背後から歩み寄ってきたのは母のセリーナだった。
海沿いの街で新しい商会を立ち上げ、辣腕を振るう彼女は、ガルドの支配から抜け出したことで、本来の美しさと強さを完全に取り戻している。
「お母様! ふふっ、だってケントが言ってたもん。魔法は数字じゃなくて使い方だって」
「あの子の悪知恵ね。……それにしても、まさか炎の剣を振りながら、起爆と同時に三重防御と収納まで並行処理するなんて。元冒険者の私から見ても末恐ろしいわ」
「まだまだだよ。……だって、ケントはもっとずっと先にいるもん」
シーナは、遠くルミナスの方角の空を見つめた。
彼女がどれほど強くなっても、あの兄が放った『紅蓮の祝砲』の圧倒的な光景は、今も目に焼き付いて離れない。
「次会った時、ケントの足手まといにならないように。……ううん、絶対に私がケントを守れるくらい、強くなるんだから!」
強く握りしめた拳。その決意の瞳の奥には、数年後、絶望的な戦場に舞い降りる美しき『戦乙女』の片鱗が、確かに宿っていた。
セリーナは眩しそうに目を細め、愛娘の頭を優しく撫でる。
それぞれが別々の空の下。それでも、確かな絆で結ばれた彼らの想いは、風に乗ってルミナスの地へと届いているかのようだった。




