閑話:社畜の貴族修行と、ノキアの剛剣
ルミナス領の治安の要である、バルガス子爵邸。
俺がこの屋敷の『嫡男』として迎え入れられ、本格的な貴族修行が始まってから数週間が経っていた。
元ブラック企業の社畜として、理不尽な新人研修やマナー講座には耐性があるつもりだった。
だが、ノキア王国の由緒正しき貴族の作法は、現代日本のビジネス・マナーとは根本的にベクトルが違っていた。
「ケント様。先ほど、庭師の男に何とお声がけなさいましたか?」
午前。執務室での座学の最中。
白髪のオールバックを撫でつけた、隙のない初老の執事――セバスが、氷のような冷たい声で問いかけてきた。
「え? ああ、『朝からご苦労様、ありがとう』って言いましたけど……」
「言語道断です」
ピシャリと、セバスの持つ指示棒が机を叩いた。
「貴族たる者、自家の使用人や領民に無闇にへりくだり、感謝の言葉を安売りしてはなりません。彼らは給金をもらい、自らの仕事をしているだけ。主からの過剰な労いは、逆に彼らを戸惑わせ、舐められる隙を生みます。よろしいですか、上に立つ者の態度は常に堂々と、威厳を保たねばならないのです」
また怒られた。
前世の染み付いた「下請けや現場の人には優しくする」という社畜の癖が抜けないのだ。
俺は「……申し訳ありません、気をつけます」と肩を落とし、目の前に積まれた領地の収支報告書の束に目を落とした。
……しかし、俺は気づいていなかった。
俺を厳しく叱責するセバスが、その実、領民や平民に寄り添う姿勢に一定の理解を認めているのを隠していることに。
(……良い御子だ。平民上がりゆえの甘さはあるが、その根底にあるのは『弱き者への慈愛』。領民をただの数字としか見ない貴族が多い中、このお方は無意識に民に寄り添う心をお持ちだ。それを貴族として正しく制御する術さえ教え込めば、間違いなく歴史に名を残す名君となられる!)
さらにセバスの視線は、俺が先ほどから猛烈な勢いで処理している『収支報告書』に向けられていた。
(それに、この異常なまでの計算能力と事務処理の速さ! 複数の帳簿の矛盾を瞬時に見抜き、すでに先月分の税収の再計算まで終わらせておられる。バルガス家は武門の家柄ゆえに文官の層が薄かったが……このお方が当主となられれば、我が家は永遠に安泰だ!)
表面上は『怖い教頭先生』を完璧に演じながら、セバスは俺の将来性に一人で勝手に限界突破の期待を寄せていたのだった。
午後は、広間での『社交ダンス』のレッスンだ。
「ケント様。背筋が曲がっております。歩幅も違います。それではただの酔っ払いの千鳥足です」
「ひぃっ、すみません……ッ」
壁際で腕を組むメイド長・マリア(四十八歳)の鋭い視線に、俺の胃がキリキリと痛む。
前世で接待ゴルフとラジオ体操しかしてこなかった四十三歳のおっさんの魂に、優雅なワルツのステップなど刻まれているはずがない。魔法ならミリ単位の座標指定ができるのに、自分の足の動きとなると途端にポンコツになる。
「……ふふっ。ケント様、肩に力が入りすぎていますよ」
ガチガチになっている俺の手に、柔らかく温かい手が添えられた。
顔を上げると、そこにはふわりと微笑む、美しい女性がいた。
彼女の名前はレナ。二十三歳。
かつてバルガス卿の旗下で戦死した若き騎士の未亡人であり、現在は恩情でメイドとしてこの屋敷で働いている女性だ。透き通るような白い肌と、どこか憂いを帯びた栗色の瞳。そして、メイド服の上からでも分かる豊満なプロポーション。
「レナ……ご、ごめん、俺、本当にこういうの苦手で……」
「謝らないでくださいな。大丈夫です、私が合わせますから。一、二、三……ほら、私の足の動きだけを見て」
レナはクスクスと笑いながら、俺の不器用なリードを優しく包み込むようにフォローしてくれた。
ほのかに漂う、甘い花の香り。厳しい修行が続く毎日の中で、このレナとのダンスレッスンだけが、すり減った社畜の心を癒やしてくれる唯一のオアシスだった。
(……くっそ、このお姉さんマジで女神かよ。絶対に幸せになってほしい)
俺は顔を真っ赤にしながら、一生懸命にステップを踏んだ。
その様子を壁際で見ていたマリアが、「……まあ、レナが相手なら少しはマシになりますね」と、微かに口元を緩めていたことには気づかずに。
そして夕方。
屋敷の裏庭で、俺は木剣を構え、荒い息を吐いていた。
「はははは! どうしたケント、もう息が上がっているぞ! 男ならもっと腰を落とせ!」
俺の目の前で、上半身裸になった義父上――ギデオン・フォン・バルガスが、豪快に笑いながら木剣を肩に担いでいた。
一日の最後は、騎士団長直々の剣術指南だ。
(くそっ……! ただの胃弱な中間管理職かと思ってたら、とんでもねえ筋肉だるまだぞこの人!)
俺は息を整え、再び義父上に向かって踏み込んだ。
まともに打ち合えば勝てるわけがない。俺は剣を打ち合わせる瞬間に手首を返し、木剣の軌道を逸らして相手の懐に潜り込み、『当身』の動きに出て、その後は関節技も狙いに行った。
前世の柔道と空手の知識を応用した、実践的な関節狙いの一撃。
――だが。
「甘いッ!!」
ドンッ!! という重い衝撃音と共に、俺の体はあっさりと宙を舞い、芝生の上に無様に転がった。
「ぐはっ……!?」
「小手先の技術は悪くないが、お前は基礎の『重さ』が全く足りておらん! 我らノキア王国に伝わる『ノキア剛剣術』は、小細工を一切許さぬ圧倒的な踏み込みと体幹から生み出されるのだ!」
義父上は俺の関節技を、純粋な『フィジカル』と『基礎の練度』だけで正面から弾き飛ばしたのだ。
魔法抜きとはいえ、あそこまで完璧に俺の裏技が通じなかったのは初めてだった。
「どうだケント! これがルミナスの平和を守る騎士の剣だ! ……痛かったか? 大丈夫か?」
豪快に笑っていた義父上が、突然ハッとしたように心配そうな声を出した。
その顔を見て、俺は悟った。
(ああ、この人……純粋に、新しくできた息子に『親父のカッコいい所』を見せたくて張り切ってるんだな)
なんだかそれが無性に嬉しくて、そして悔しくて。
俺は痛む体を無理やり動かし、フラフラになりながらも立ち上がり、木剣を構え直した。
「……もう一本、お願いします。義父上」
「ほう……」
俺の目を見た義父上の顔から、親バカな笑みが消え、本物の『武人』の顔になった。
「……良い目だ。お前は魔力ばかりに目が行きがちだが、根性は並の騎士以上だな」
義父上は木剣を正眼に構え直し、静かに、しかし熱く告げた。
「良かろう。私の持つ『ノキア剛剣術』のすべてを、お前のその体に叩き込んでやる。死ぬ気で食らいついてこい、我が息子よ!」
「はいっ!!」
俺は気合と共に、再び圧倒的な壁に向かって飛び込んでいった。
厳しいマナーに、足のもつれるダンス。そしてボコボコにされる剣術稽古。
体は悲鳴を上げていたが、不思議と心は晴れやかだった。前世では決して手に入らなかった、信頼できる大人たちに囲まれた温かい生活。
社畜の貴族修行は、まだまだ始まったばかりである。




