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第20話:番犬の覚悟と、狼の牙

 バルガス子爵邸での生活にも少しずつ慣れてきたある日の夜。

 俺は自室の立派なマホガニーの机に向かい、羽ペンを握りしめて頭を抱えていた。


「……ダメだ。どう書けばいいのか、全く分からない」


 羊皮紙には、ベルンハイトで暮らす母さんへ宛てた手紙の書き損じが、山のように積み上げられていた。

 『拝啓 母上様。初夏の候、いかがお過ごしでしょうか。さて、この度わたくしはルミナス領のバルガス子爵家と正式に養子縁組を結ぶ運びとなり……』


 平民の母さんからすれば、息子がいきなり貴族の養子になったなど、パニックを起こしかねない特大ニュースだ。余計な心配をかけないように論理的に状況を説明しようとすればするほど、前世の染み付いた『ビジネス文書』のような堅苦しい文章になってしまう。


 コンコン、と控えめなノックの音がして、部屋の扉が開いた。


「ケント。まだ起きているか……って、なんだその紙の山は」


 私室用のくつろいだ服を着た義父上が、呆れたような顔で入ってきた。

 俺が事情を説明して書きかけの手紙を見せると、義父上は深々とため息をついた。


「お前は、本当に変なところで頭が固いな。これは軍の報告書か? これでは、母親は『息子が無理をして貴族の真似事をさせられている』と逆に不安になるぞ」

「う……それは、確かに」

「親というのはな。小難しい事情よりも、子供が毎日飯を食って、怪我もなく元気でやっていると知るのが一番安心するのだ。『元気にやってるよ、こっちの飯は美味いよ』……最初は、その一言で十分だ」


 義父上は、不器用だが、温かみのある声でそう教えてくれた。

 俺はその言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。前世では頼れる大人なんて一人もいなかった俺に、こうして親としての当たり前のアドバイスをくれる存在がいる。

 俺は「ありがとうございます、義父上」と素直に頭を下げ、新しい羊皮紙に、ただ『毎日元気にやってるよ』とだけ、大きな字で書き記したのだった。




 翌日。俺はルミナスの下町にある、薄暗い安酒場に足を運んでいた。

 昼間から酒の匂いと紫煙が立ち込める店内の隅で、空になったジョッキを並べて突っ伏している隻眼の女を見つける。


「……相席、いいか?」


 俺が向かいの席に座ると、ザラは焦点の合わない赤い左目をゆっくりと持ち上げた。

 かつてのノースギルドのマスターとしての覇気は完全に失われ、ただの疲れ切った女の顔がそこにはあった。


「……何の用だい。アタシはもう、ギルドを辞めたんだ。アンタに断罪されるような大層な肩書きは、もう何もないよ」

「ああ、知ってる。今日は断罪しに来たわけじゃない。……謝りに来たんだ」


 俺はそう言って、ザラに向かって深く頭を下げた。

 ザラが驚きに目を丸くするのを感じながら、俺は言葉を続ける。


「あんたたちがウェストの腐敗から目を逸らし、自分たちのギルドの事しか考えていなかったのを否定した事。あの言葉自体は、今でも間違っていたとは思わない。だが、結果的にノースギルドを破壊して、商人や旅人の安全な移動を出来ないように麻痺させた。俺の浅はかな考えのせいで、あの後、街の外で護衛を失って死んだ連中もいるはずだ」


 領主軍と一緒にパトロールをしながら、俺はその事実を嫌というほど痛感していた。


「だから、俺と一緒に来てほしい。今度は、正しいやり方で理想のギルドを作るために。俺が貴族の力を使って、あんたを精一杯バックアップする。だから、もう一度ノースギルドを立て直すのを手伝ってくれ」


 俺が頭を下げて懇願すると、ザラはしばらく沈黙した後、自嘲気味に鼻で笑った。


「……はっ。聞いたよ、アンタ、バルガス子爵の養子になったんだってね」

「ああ」

「偉くなったもんだ。でもね、アタシたちは貴族の言いなりになるのが嫌で、自分たちの居場所を作ったんだ。……結局アンタも、権力に尻尾を振る『貴族の犬』になったってわけかい」


 それは、明らかな煽りだった。かつての俺なら、ここでキレて再び彼女を論破していただろう。

 だが、俺は真っ直ぐにザラの左目を見据えて言い返した。


「ああ。もし犬に成り下がることで領民の命を守れるって言うなら、俺は喜んで権力の犬になる。いくらでも噛み付くし、吼えてやるさ」


 俺の迷いのない言葉に、ザラは言葉を失った。


「そもそもお前は、何がしたくて冒険者になったんだ? 理不尽な暴力から、自分の大切なものを守るためじゃなかったのか?」

「それは……っ」

「権力に反発して、拗ねて酒を飲んで、それで誰かが守れるのかよ。……お前、まだその心に『牙』が残っているなら、領民を守るために、俺と一緒に理不尽に噛み付き、そして吼えよう」


 俺はテーブルに身を乗り出し、ザラに向かって手を差し出した。


「そしたら俺もお前も、犬じゃなく『狼』と言われるさ」


 ドクン、と。ザラの心臓が跳ねる音が聞こえた気がした。

 彼女の濁っていた左目に、かつての、いや、かつて以上の強い光が宿っていく。彼女は震える手で自身の顔を覆い、しばらくの間、押し殺すように肩を震わせていた。

 やがて、ザラは顔を上げ、俺の差し出した手を力強く握り返した。


「……生意気なガキだよ、本当に。アタシを顎で使おうなんてね」

「犬をまとめるのは、番犬の仕事だからな」


 俺がニヤリと笑うと、ザラも久しぶりに、野獣のような獰猛な笑みを浮かべたのだった。




 その日の午後。俺は身なりを整えさせたザラを伴って、バルガス子爵邸へと戻った。

 事の顛末を報告すると、義父上は「お前という奴は、また勝手なことを……」と頭を抱えながらも、すぐに領主館のアルフレッド伯爵へアポを取ってくれた。


「なるほど。ノースギルドの再編と、ザラのマスターへの復帰か」


 領主の執務室。俺が提出した詳細な『稟議書(事業計画書)』に目を通した伯爵は、満足そうに頷いた。


「我が旗下にあるバルガス子爵家が後盾となり、ルミナスの物流と治安維持のインフラを再構築する。……なかなか良い提案ではないか。我が領主の名において、この計画を承認しよう」

「ありがとうございます、伯爵閣下」

「だが、問題は『統括ギルド』だな。彼らがすんなりと、一度辞めたザラの復帰と、貴族の息がかかったギルドの再建を認めるとは思えんが」

「ええ。ですから、これから統括ギルドへ『交渉』を申し込みに行きます。もちろん、合法的な手段で、ですよ」


 俺が悪い笑顔を浮かべると、伯爵は「ふっ、手荒な真似はするなよ」と笑い、横にいる義父上だけが、また胃薬の瓶を握りしめて青ざめていた。

 こうして、俺とザラ、そして義父上による、統括ギルドへの反撃プレゼンの準備が整ったのだった。

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