第118話:すれ違う愛の形と、魔王の慈悲
東の島国、アマテラス。
その国境沿いにある港街は、かつてない異常事態に揺れていた。
対岸のシン帝国から、数万という規模の難民を乗せた船が、我先にと押し寄せていたのだ。しかも彼らは一様に、恐怖で発狂寸前の顔をして「アマテラスの奴隷にしてくれ」と泣き叫んでいる。
アマテラス側が用意した仮設の拠点。その一室で、デックスは頭を抱えていた。
「……国が一つ、消えた。たった二人の手によって」
集まってくる断片的な情報と、難民たちの証言。それらを統合して導き出された結論は、常識を持つ人間であれば到底受け入れられるものではなかった。
第89機密開発基地の一夜での消滅。要塞都市ノクテスのクレーター化。そして、平野に陣取っていた五万の正規軍が、文字通り「ミンチ」にされて全滅したという事実。
そして、途中の都市を文字通り『消滅』させながら、今も要塞港湾都市バルゲンに向けて移動している。
既に死者は五十万は超えているという。
「理不尽な暴君と狂った戦女神……いや、魔王と魔神と呼ぶべきか。あの二人は、人間の心を失ってしまったのか?」
デックスは恐怖と畏怖に震える声で呟いた。
そんな彼の向かいで、ザラは静かに煙草の煙を吐き出していた。
「……間に合わなかったねぇ。アタシたちがもう少し早く合流できてれば、アイツらが本性出る前に引き戻せたかもしれないね。でもさデックス、アンタ何か勘違いしてるよ」
「…?どういう事だ」
「アタシらは元々こんなもんさ。人の心って何だい? アタシらは何万人殺しても、大事な人間だけ無事ならそれでいいのさ」
ザラは後悔を滲ませながらも、その瞳には暗い覚悟が宿っていた。
「アタシはケントとセリーナとは同類だし愛してる。だから一緒にいるって決めてる。あいつらがどれだけ血塗れになろうが、世界の敵になろうが、アタシの家族には変わりないさ」
「そうですよぉ、デックスさん」
部屋の隅で、レナが頬を赤らめながら身をよじっていた。
「久しぶりのケント様ですぅ! 何万人も殺したんですか……? その血塗られた手で私を乱暴に扱って、ウェヘヘヘ……ッ」
「お前、本当にブレないな……」
ザラが呆れたようにツッコミを入れるが、レナは全く気にした様子もない。
「当たり前じゃないですか。ケント様やセリーナさんが生きてりゃ、世界がどうなろうといいんですよ。私たちはとっくに、四人で生きて死ぬって覚悟ができてるんですから」
狂気すらも日常として受け入れるレナの狂信的な笑顔に、デックスはただ深い溜め息をつくしかなかった。
「まずは、あの二人と合流しよう。話はそれからだ」
ザラの言葉に、拠点に集まった仲間たちは静かに頷いた。
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同じ頃、アマテラスの行政庁舎では、重苦しい会議が開かれていた。
アマテラスの役人たちの手元には、ザラを通じて届けられたノキア王国の侯爵からの密書が置かれている。そこには、シン帝国で起きている事態の全容と、難民たちがなぜ「奴隷」を志願しているのかと思われる原因が記されていた。
「ケント・ヴォルガン元伯爵……彼が、シン国民の助命の条件として『アマテラスでの奴隷化』を突きつけただと?」
長官が、信じられないという顔で密書とザラを交互に見比べた。
現在、アマテラスには奴隷制度が存在しない。約百年ほど前までは、戦争の戦利品としての人間売買や奴隷制度は確かに存在した。しかし、アマテラスがこの周辺地域を完全に統一し、他国との大規模な戦争がなくなったことで、戦利品としての「人間資源」の供給が途絶え、制度自体が自然消滅して廃れたのだ。
当時の名残として、一定の年季が明ければ奴隷は解放され、奴隷の子は生まれながらにして普通民として扱われるという法律だけが残っている。
「とはいえ、この数の労働力は国として無視できません」
一人の役人が発言した。
「我が国では、排泄処理、娼婦、鉱山や危険な工事現場など、忌避される職の担い手不足が深刻です。シンの人間を安価な労働力としてそれらに従事させられるのであれば、非常に助かるのは事実ですが……」
役人たちは顔を見合わせた。いくらなんでも、幼児や妊婦まで一律に奴隷として扱うのは、平和に慣れきったアマテラスの倫理観に反する。
「ザラ殿」
長官が、代表してザラに提案を持ちかけた。
「労働力となる大人はともかく、幼い子供や妊婦などは、奴隷民ではなく『難民』として特別に保護しようと思う。我が国としても、そこまでの非道はできない。彼らには普通の生活を保証してやりたいのだが」
それは、アマテラスの人々の純粋な善意だった。
だが、その言葉を聞いた瞬間、ザラは深くため息をつき、ひどく冷たい目で長官を見据えた。
「アンタたちは、とても良い人なんだよ。本当に、真っ当な人間だ」
ザラの静かな声が、会議室に響く。
「ただね。ケントは『奴隷になるなら』助命したんだ。……もしアンタたちの善意で、その人たちが奴隷じゃないシンの人間としてアマテラスで生きることになったら、間違いなくケントはそいつらを殺すよ」
「な……ッ!?」
長官が息を呑んだ。
「妊婦だろうが赤ん坊だろうが関係ない。あいつのルールを破ったシン国民なら、全員灰にする。アタシも同じ匂いがするから、あいつの思考がよくわかるさ。善意で命を救いたいなら、全員平等に一番底辺の奴隷にしな。それが、あの魔王が下した唯一の慈悲なんだから」
しん、と。会議室が静まり返る。
常軌を逸した狂気の論理。それを「絶対の掟」として従わなければ、自国に匿った難民ごと、このアマテラスすらも巨大なクレーターに変えられかねない。
役人たちは、あまりの理不尽と恐怖に、ただ絶句するしかなかった。
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ノキア王国の王都。
厳重な警備が敷かれた侯爵邸の一室で、柔らかな日差しが差し込む中、ベッドの上で小さくシーツが擦れる音がした。
「……ん……」
「シーナッ! 気がついたの!?」
微かな呻き声に、ずっと傍で手を握っていたニナが弾かれたように顔を上げた。
ゆっくりと目を開けたシーナの視界に、涙ぐむニナ、そして安堵の表情を浮かべるクロエ、ボーラ、ジョエルたちの顔が映り込む。
「……ニナ……みんな……」
胸を貫かれた痛みの名残はあるものの、高度な治癒魔法と霊薬によって、命の危機は完全に去っていた。シーナはぼんやりとした頭で周囲を見回した。
だが、そこには、彼女が一番会いたかった二人の姿がなかった。
「……お兄ちゃんは? お母さんは?」
幼い頃から焦がれ続け、ようやく婚約者となれた最愛の義兄、ケント。そして、いつも自分を深い愛情で包んでくれた実の母、セリーナ。
自分がこんな重傷を負って死にかけたのだ。目を覚ましたら、絶対に二人が泣きそうな顔で抱きしめてくれると思っていた。
シーナの問いに、部屋の空気が凍りついた。
クロエが目を伏せ、言いづらそうに唇を噛む。重い沈黙の後、ニナが絞り出すように口を開いた。
「……ケントとセリーナさんは、貴方が撃たれた後、シンを追って転移門からシンの本国に……敵を追いかけて、行ったの」
「え……?」
シーナは呆然と呟いた。
二人がいない理由は、看病疲れで休んでいるからでも、仕事に行っているからでもなかった。
自分を置いて、敵を殺しに行っているから。
シーナは黙り込んだ。
ケントが、自分が傷つけられたことで激怒するのはわかる。短気なところがあるし、苛烈な性格の母も同じだろう。
戦場に出れば、シーナだって敵を殺す。爆鳴気で吹き飛ばすことに躊躇いはない。
でも、もし逆の立場だったら。もしケントや母が撃たれて死にかけたら、シーナは絶対に、復讐になんて行かない。敵を追いかけることよりも、愛する人が目を覚ますまで、片時も離れずに手を握り続ける。それが、シーナの『普通の感性』だった。
(……でも、起きたなら、傍にいて欲しかったな)
胸の奥が、撃たれた傷とは違う痛みを放つ。
(私って、本当に……愛されてるのかな)
彼らにとって、自分を看病することよりも、自分を傷つけた敵を惨殺することの方が、優先順位が高いのだろうか。その理解できない狂気の愛が、シーナの心を冷たく締め付けた。
その時だった。
部屋の隅に控えていた妖精のトーが、ふわりと飛び上がり、空中で微かな光を点滅させ始めた。
それは、妖精同士によるモールス信号のような通信。一日に四百字程度しか送れないが、距離を無視して情報を伝達できる手段だ。通信の相手は、ザラと共にアマテラスへ向かった妖精のスーである。
トーは、光の点滅を読み取り、無機質な声でその内容を代弁した。
『シン、カイメツ。コクミンノ、キュウワリチカク、シボウ。アマテラスニ、ナンミンタスウ。ケントニヨリ、アマテラスデノ、ドレイオ、ジョウケンニ、ジョメイサレタ、モヨウ。コレカラ、ゴウリュウオ、ココロミル』
その報告に、シーナの目覚めを聞きつけて部屋に駆け込んできた侯爵とギデオンは、入り口で立ち尽くした。
「……国を、消した……?」
ギデオンが、信じられないというように呟く。いくら激怒しているとはいえ、たった二人で大国を一つ滅ぼすなど、想定の遥か外側だった。
部屋の誰もが、そのあまりにも巨大すぎる殺戮の事実に言葉を失う中。
ベッドの上のシーナは、ポロポロと大粒の涙を零し始めた。
九割の人間が死んだという事実に対する倫理的な非難ではない。ただ、彼らがそこまで血に塗れて遠くへ行ってしまったことへの、純粋な悲しみ。
「……違うよ」
シーナは、シーツをきつく握りしめ、震える声で泣き咽んだ。
「私が欲しかったのは、かたき討ちでも、敵の国の人達の命でもない……」
ただ、目を覚ました時に。
「お兄ちゃんと、お母さんだったのに……」
世界で一番優しくて、世界で一番残酷なすれ違い。
シーナの悲痛な涙の声だけが、静寂の部屋に虚しく響き続けていた。




