第115話:絶望の伝染と、海を渡る危惧
シン帝国・東部沿岸の要塞港湾都市、バルゲン。
夜明け前の白みかけた空の下、都市防衛司令官であるゼブ大佐は、不機嫌極まりない足取りで巨大な防壁の城門へと向かっていた。
「……で。たった今もたらされた報告は、間違いではないのだな」
歩きながら低く唸るゼブの問いに、付き従う副官が青ざめた顔で頷く。
「は、はい。城門の前に、およそ数千人規模の難民と、武装を捨てた各地の守備隊が押し寄せています。そしてその群れを先導しているのは……間違いなく西部の『第89機密開発基地』の軍服を着た、近衛戦闘団の生存者たちです」
「馬鹿なことを言うな。あそこには一万人規模の精鋭と、帝国が誇る最新鋭の大型障壁発生炉があるはずだ。そこから逃げ出した兵が、各地の民衆を扇動して逃亡してきただと?」
ゼブは忌々しげに舌打ちをした。
帝国軍において集団逃亡は最も重い大罪だ。もし事実であれば、見せしめとして先導した兵士たちを銃殺刑に処さねばならない。
城門の上の胸壁に辿り着いたゼブは、眼下を見下ろした。
そこには、泥と煤にまみれ、荷車にすし詰めになった女子供や、軍靴すら履かずに裸足で歩いてきた幽鬼のような群衆が、防壁を埋め尽くすように身を寄せ合っていた。彼らは門が閉ざされていることに対して抗議の声を上げるでもなく、ただ虚ろな目で地面を見つめ、ガタガタと震えている。
「門を開けろ」
ゼブの命令で重厚な鉄格子が引き上げられると、彼らは力なく市街地の石畳へと雪崩れ込んできた。
「貴様ら! 各地の守備隊と民衆を扇動して任地を放棄するとは何事だ! 第89基地はどうした!」
ゼブが怒鳴りつけ、周囲を囲んだバルゲンの衛兵たちが一斉に小銃を構える。
群れの先頭にいた、第89基地の階級章を引きちぎられた軍服を着た男が、ふらふらと前に出た。
「……近衛戦闘団、第2大隊所属……」
「状況によってはこの場で全員銃殺だぞ!」
ゼブが腰の拳銃を引き抜き、男の眉間に突きつけた。
逃亡兵が死の恐怖に怯え、泣いて許しを乞う姿を想像しての行動だった。
だが。
「……あ、あぁ……」
逃亡兵の男は、眉間に銃口を突きつけられた瞬間。
安堵に顔を歪め、ボロボロと大粒の涙をこぼしながら、自ら進んでゼブの銃口に額を押し付けてきたのだ。
「な、なんだ貴様……っ」
「撃って、ください。死刑でいい……どうか、殺してください……ッ!」
男の懇願は、ゼブの背筋にゾクリとした悪寒を走らせた。
男の瞳の奥底に張り付いているのは、銃殺への恐怖などではない。もっと根本的な、人の理解を超えた『何か』に対する究極の絶望だった。
「はやく、はやく撃ってくれ! あの女が来る前に!」
「大尉殿は空に浮かされて弄ばれ、絶望の中で味方の爆薬の山に投げ込まれて……あいつら、人間じゃない! 悪魔だ!」
銃口に額を押し付ける男の叫びに呼応するように、背後の数千の群衆たちが次々と泣き叫び、頭を抱えて地面に座り込んだ。
バルゲンの衛兵たちが、その異様な光景にドン引きし、構えていた銃の銃口を無意識に下げてしまう。
「き、貴様ら、正気か!? 悪魔とはなんだ! 一体何があった!」
ゼブが怒鳴ると、男は焦点の合わない瞳でゼブを見つめ返し、ガチガチと歯を鳴らしながら答えた。
「基地は……一万の兵は、すべて灰になりました。たった一夜で。二人だけでした。黒い仮面の男と、金髪の狂った女が……防壁も、障壁も、陣形も、すべてを指先一つで破壊していったんです!」
「馬鹿な! たった二人で一万人の最新鋭基地を落としたと言うのか!? あり得ん!」
「事実です! 奴らは俺たちをわざと逃がし、『これからシンの各街を叩き潰し、皆殺しにしていく』と宣告しました! だから俺たちは手分けをして、近隣の街や要塞に警告して回ったんです!」
「…………ッ」
「だが……俺たちの話を信じず、あの悪魔を迎え撃とうと固まった要塞は、俺たちの目の前で地図から消え去りました! 悲鳴すら上がらなかった! だから俺たちは、信じてくれた連中だけを引き連れて、港のあるこの街へ逃げてきたんです!」
男の絶叫が、夜明けの冷たい風に乗って、バルゲンの防壁に響き渡った。
「奴らは言いました。助かりたければ、すべてを捨ててアマテラスに行け。そこで奴隷となるなら生かしてやる、と! 船に乗せてください! 奴隷でいい、どうかアマテラスへ!!」
ゼブは息を呑んだ。
彼らが狂気に陥っているのではない。本当に、要塞を消し飛ばすような理不尽な化け物が、わざと恐怖を撒き散らしながら、この東海岸に向かって進軍してきているのだ。
(……奴らの目的は、恐怖を煽り、逃げ惑う人間をこの港に一極集中させることか……!)
ゼブがその最悪の可能性に気づいた時には、すでに遅かった。いまも避難民は続々と続き、軽く数万は超えている。
数十人の生存者たちが手分けして各地にもたらした「悪魔の伝言」と、実際に街が消滅したという事実。
雪だるま式に膨れ上がった数万の難民たちの絶望は、周囲を取り囲んでいたバルゲンの衛兵たちにも完全に伝染していた。彼らの顔からは血の気が引き、小銃を持つ手が震え始めている。
狂犬と、狂女神が来る。
たったそれだけの言葉の呪いが、強固な防壁で守られていたはずの要塞都市バルゲンに、致死性のウイルスのように急速に蔓延し始めていた。
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一方その頃。
シン帝国から遠く離れた外海を、一隻の巨大な帆船が猛烈なスピードで波を切り裂きながら進んでいた。
ノキア王国が手配した、特別仕立ての高速船。
数十人の優秀な風魔導士たちが交代制で休むことなく帆に最適な『追い風』を送り続け、無風地帯での停滞すら無視して進み続けるファンタジーチートの塊である。
ノキアから東の島国『アマテラス』までの距離は、かつてケントが「ヨーロッパから日本くらいは離れている」と推測したほどに途方もなく遠い。通常の帆船であれば優に三ヶ月はかかるその航路を、この船はわずか一ヶ月弱で走破しようとしていた。
出航からおよそ二週間。
果てしなく続く水平線を望む甲板の上で、デックスは落ち着きなく右へ左へとウロウロと歩き回っていた。
「……なあ、ザラ殿。本当に大丈夫だと思うか?」
デックスが立ち止まり、甲板の隅で大剣の素振りを続けている巨漢の女戦士に声をかけた。
ザラは素振りの手を止めず、汗に塗れた顔だけをデックスに向けた。
「何がだよ、デックス」
「ケント殿とセリーナ殿のことだよ!」
デックスは焦燥感を隠しきれない声で叫んだ。
「お二人が先行してシン帝国に向かってから、もう何週間も経つ。我々が合流できるのは、どんなに早くてもあと半月は先だぞ! いくらお二人が桁外れに強いとはいえ……相手は、銃や大砲といった近代兵器を持つ数万の軍隊なんだ。もし魔力切れを起こしたら? もし寝首を掻かれるような不意打ちに遭ったら?」
デックスの懸念は、常識的に考えればごく当然のものだった。
一個人が、国家の正規軍を相手にたった二人で戦争を仕掛けるなど、自殺行為以外の何物でもない。
しかし。
ザラはフンと鼻を鳴らし、巨大な剣を甲板にドンッと突き立ててから、タオルで首の汗を拭った。
「デックス。あんた、心配の方向性がズレてんだよ」
「ズレてる?」
「ああ。あの二人が負けるとか、魔力切れで殺されるとか、そういう心配は一切いらないさ」
ザラは海風に吹かれながら、どこか重苦しい、暗い瞳で水平線の彼方を見つめた。
「アタシはな、あいつらと同じ『脳筋』だから、なんとなく分かるんだよ。……あいつらが強いのは、嫌ってほど分かってる。だからこそ、怖いんだ」
「……どういうことだ?」
「お前も知っての通り、ケントは普段はヘラヘラしてるが、家族や身内のことになるとスイッチが完全にブッ壊れる。しかも今回は、シーナが撃たれたんだ。あの二人の怒りは、ただの復讐なんかで収まる熱量じゃねえ」
ザラの脳裏に浮かぶのは、北の砦で見せたケントの容赦のない虐殺や、セリーナが敵を斬り刻むときのあの凄惨な笑顔だ。
彼らは、敵対する者に対して一切の躊躇いを持たない。それが国という巨大な組織であっても。
「あの二人は今、シン帝国を相手に『戦争』をしてるつもりなんかないのさ」
ザラの低い声が、波の音に混じって甲板に響く。
「あれは、害虫駆除だ。……アタシが心配してんのはな、あの二人が怒りに任せて、シン帝国という国そのものを、地図から文字通り『消し飛ばしちまう』んじゃないかってことだよ」
デックスがハッと息を呑む。
「国を、消し飛ばす……?」
「そうだ。一線を超えた力で、何万、何十万の人間をただの肉塊や灰に変えて、そこから後戻りできなくなっちまうんじゃないかってね。」
「……アタシはハーンで暴れた時に、あんなに殺したのにとても楽しかったのさ。それこそこんなに楽しいなら、ハーンは皆殺しにしてやろうかと思った位にね。でもハーンにはアンタって面白い漢がいたからアタシらは止まった。ただ、シンにそんな人間かいるのかね? アタシたちがアマテラス経由でシンに着いた時、あいつらが人間の心を失った『本物の化け物』になって、灰の山の上に立ってるんじゃないかってな」
ザラはギリッと拳を握りしめ、遥か東の空を睨みつけた。
彼女が急いでシンへ向かいたいのは、二人を敵から救うためではない。
怒りと力に呑まれそうになっている親友の肩を掴み、人としての側へ引き戻してやるためだった。
「……頼むから、アタシたちが着くまで、取り返しがつかなくなるほどの『やりすぎ』だけは勘弁してくれよ、ケント」
親友の切実な祈りは、追い風に乗って東へと運ばれていく。
だが、その祈りが届くよりもずっと早く。シン帝国の大地はすでに、二人の悪魔によって取り返しのつかない焦土へと変わり始めていたのだった。




