第113話:絶望の観測者と、泥水を啜る意地
夜の闇を切り裂く轟音が、等間隔で鳴り響き続けていた。
シンの近衛戦闘団第2大隊第4中隊長、モーザブ大尉は、自陣の小型障壁の中で歯噛みしていた。
各区画との通信は途絶し、上層部からは「防衛に専念せよ」という硬直した命令しか下りてこない。だが、その防衛の要であるはずの『障壁』が、今や彼らにとって自らの首を絞める棺桶にしか思えなくなっていた。
「……大尉殿。このまま引き籠もっていては、いずれ我々も」
傍らで、百戦錬磨の古参下士官であるカリ曹長が低く呟く。
「分かっている。だが、敵の姿も攻撃手段も見えない状況で、臆病者どもじゃ、迂闊に障壁を解くわけにはいかんだろうな」
モーザブは焦燥を隠しきれず、自身の本部小隊だけを引き連れ、陣地内で最も高い見張り塔へと駆け上がった。
せめて敵の正体と戦術をこの目で確かめなければ、対策の打ちようがない。
見張り塔の頂上に辿り着き、モーザブは双眼鏡を構え、轟音の上がる方向――第3区画から第4区画にかけての戦場を覗き込んだ。
「…………な、なんだあれは」
モーザブの喉から、間の抜けたような乾いた声が漏れた。
双眼鏡のレンズ越しに映ったのは、戦争ではなく、ただの『解体作業』だった。
大型の区画障壁はすでに無力化されており、各隊が展開している小型障壁だけが、炎に包まれ倒壊していく兵舎の中で、ポツン、ポツンと取り残されている。
そして、その無防備になった小型障壁の前に、二つの人影があった。
一人は、右顔面を仮面で覆った黒髪の男。
もう一人は、血に塗れた双剣を両手に下げる、金髪の美しい女。
男が障壁の表面を剣の柄でコンコンと叩き、中で震える兵士たちを指差して笑っているのが見えた。
次の瞬間。
男が一切の魔法的予備動作を見せないまま、障壁の『内側』で突如として凄まじい爆発が起きた。
琥珀色の障壁の中で、兵士たちの肉体が四散し、内臓が飛び散り、あるいは爆風の圧力に潰されて即死していく。そして魔力供給者が死んだことで、障壁がパリンと音を立てて消滅した。
その瞬間、女が動いた。
恐るべき速度だ。残像すら残さない踏み込みで、生き残って銃を構えようとした兵士たちの懐へと滑り込む。
そして、双剣が閃く。
銃口が火を吹くよりも早く、兵士の腕が宙を舞い、悲鳴を上げる間もなく首がポーンと跳ね飛ばされた。
首を斬り飛ばされた兵士の頭部が空を舞う中、女は返り血を浴びた美しい顔で、その落ちゆく生首に向かって妖艶に、そして凄絶に微笑みかけていた。
(ば……化け物だ。悪魔だ……っ!)
モーザブは、双眼鏡を持つ手がガタガタと震えるのを止められなかった。
圧倒的な暴力。絶対防壁という彼らのドクトリンの根幹が、何の役にも立っていない。
その時。
双眼鏡のレンズ越しに、仮面の男がふと、顔を上げた。
数百メートルは離れているはずの見張り塔。暗闇の中だ。だというのに、男の右目のレンズと、モーザブの双眼鏡の視線が、完璧に交錯した。
男は、見張り塔のモーザブに向かって、ニヤリと口角を吊り上げて笑った。
そして、自分の首元に指を当て、真横にツーッと引いた。
『次はお前だ』という、絶対的な死の宣告。
「ウッ……!」
モーザブは無意識に後ずさりし、見張り塔の床に尻餅をついた。
怖い。死にたくない。逃げ出したい。生物としての本能が警鐘を鳴らしている。
だが。
恐怖で震える心とは裏腹に、帝国将校としての彼の頭脳と肉体は、すでにこの絶望的な状況下で『いかにして敵に致命傷を与えるか』という極めて合理的な計算を始めていた。
「……カリ。見たか」
「はい、大尉殿。ありゃあ、人間の皮を被った理不尽な災害ですな」
カリ曹長もまた、青ざめた顔で額の汗を拭っている。
モーザブは立ち上がり、急いで塔を降りながらカリと分析をすり合わせた。
「敵は魔法を体から離して、任意の場所に構築できる。つまり、障壁の中に引き籠もっている限り、我々はただの『逃げ場のない的』だ。防御ドクトリンは捨てろ。障壁を解除し、移動しながら散開して攻撃するしかない」
「……しかし」
モーザブが眉をひそめて疑問を口にする。
「遠距離から我々を一方的に潰すことができるのに、なぜ奴らはわざわざ障壁を解除させた後、近接戦闘で我々を斬り殺しているんだろうか?。先ほど見た限り、向かってきた兵士だけを相手にし、引き籠もる者は問答無用で焼いていたぞ」
「それは……」
カリは苦笑いするように言った。
「少なくとも銃を構えたり、戦うに足ると思った相手には、いきなり魔法で殺さず、あえて『相手をしてやっている』のでは?」
「なんだと?」
モーザブには理解できなかった。シン帝国が近代化を推し進めて以来、軍において個人の武勇や名誉は過去のものだ。いかに効率よく軍事目標を達成し、防御と殲滅を行うか。それがすべてだった。
「私らのような古い世代だと、まだ『名乗り』や『一騎打ち』といった武人の風習が残ってましたからね。相手が障壁に籠もる臆病者は容赦なく焼くが、出てきて立ち向かう人間には、それなりの対応をしている。……なんとなく、理解できるんですわ」
「……」
モーザブは押し黙った。
敵の強者としての圧倒的な余裕。そして、歪んだ『武士の情け』のような行動原理。
「……スマンがカリ。その敵のこだわりを、逆手に取って仕掛けるぞ」
モーザブはカリの目を真っ直ぐに見据えた。
「俺にとっては、どれだけ泥水を啜ってでも、どんな卑劣な手を使ってでも抗うことこそが、奴らへの最大限の『礼儀』だと思う」
その言葉に、カリはニヤッと皺くちゃの顔を綻ばせた。
「そう来なくちゃいけません。軍人が逃げずに戦うなら、名誉より泥水啜ってでも勝つべきだと、私も思いますぜ。……して、どうします?」
モーザブは周囲の地形と、手持ちの戦力を頭の中に展開した。
「連隊長は自陣の防御を解かんだろう。なので、連隊本部には『囮』になってもらう」
「囮、ですか」
「ああ。ここの区画障壁が壊された瞬間に、我が第4中隊は裏口から脱出する。そして、二個小隊は基地の横を流れる川の土手へ降りろ。そこを天然の塹壕として布陣し、敵を迎え撃つ十字砲火の陣形を組む」
モーザブの淀みない指示が飛ぶ。
「さらに、一個小隊は各小隊から腕利きの狙撃手を集め、臨時狙撃小隊とする。人員の選別と入れ替えは各小隊長とカリでやれ。狙撃小隊は川沿いを遡り、すでに敵によって破壊されて瓦礫の山となっている第D区画の背後から回り込め。瓦礫に身を隠し、敵の死角から布陣しろ」
「了解しました」
「そして最後の隊。こいつらはロケットランチャーと軽機関銃の重装備だ」
モーザブは、腰の拳銃のシリンダーを確認しながら、極めて冷酷な作戦の全容を語った。
「俺たち本隊が、奴らと正面から戦闘状態に入る。その際、ドクトリン通りに障壁を使いながらも、攻撃や移動といった明確な『戦闘意欲』を見せる。そうすれば、アイツらは魔法でいきなり俺たちを殺しには来ず、近接戦闘で遊ぼうとするはずだ」
カリがゴクリと唾を飲み込む。
「そして機を見て、俺とカリが前に出て『一騎打ち』を申し込む。相手もその気になって隙を見せた瞬間……狙撃小隊が撃て」
「ですが大尉殿、あの化け物たちなら、不意打ちの狙撃すら躱すのではありませんか?」
「ああ、躱すだろうな。だが、その回避行動で必ず一瞬足が止まる。その硬直を狙って、隠れていた最後の重装備隊がロケットランチャーと機関銃を一斉掃射しろ。……そして、もしそれでも相手がまだ生きていたら」
モーザブは、不敵に嗤った。
「俺とカリが突っ込むから、味方ごと構わずに援護射撃しろ。……カリ、手榴弾と爆薬を用意しておけ。最後に返り討ちに遭ったら、至近距離で自爆して道連れにしてやろうぜ」
指揮官としての誇りも、名誉ある一騎打ちの作法も、すべてをドブに捨てた騙し討ち。
だが、圧倒的な理不尽に立ち向かうただの人間の軍人として、それはこれ以上なく美しく、そして残酷なまでに完璧な殺しの連携だった。
カリ曹長は、ニヤッと笑って軍帽を被り直し、モーザブに向かって、これまでで最も丁寧で、完璧な角度の敬礼を返した。
「はっ! 喜んで、地獄のお供をさせていただきます、大尉殿」
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ズゥゥゥゥンッ!!!
ほどなくして、彼らの頭上を覆っていた第4区画の大型障壁が、地響きと共に粉々に砕け散った。
ついに、死神の歩みが彼らの領域へと足を踏み入れたのだ。
「各隊、散開! 作戦開始ッ!!」
モーザブの号令と共に、第4中隊の兵士たちは音もなく動き出した。
連隊長たちが小型障壁の中で恐怖に震える中、彼らだけは闇に紛れ、それぞれの死地へと向かって密やかに、そして迅速に布陣していく。
川の土手、破壊された瓦礫の陰、そして正面の平野。
泥水を啜り、這いつくばってでも一矢報いようとする、名もなき軍人たちの意地。
彼らが張り巡らせた「完璧な死のトラップ」の網のど真ん中へ、理不尽なる暴君と災厄の女帝が、悠然とした足取りで歩みを進めてくるのが見えた。
モーザブは腰の中折れ式リボルバーを引き抜き、深く、静かに息を吸い込んだ。
「……来い、化け物ども。シンの軍人を舐めるなよ」




