第109話:愛と憧れの境界線、そして船出
王立魔法学院の地下から続く、侯爵家が極秘に手配した特別療養室。
部屋の中は、妖精が放つ淡い緑色の魔力光と、極上のポーションが揮発する独特の薬草の匂いに満たされていた。
ベッドの上には、昏睡状態のシーナが横たわっている。腹部を大きく抉るという致命傷はスーの規格外の治癒魔法によって完全に塞がっていたが、失われた血液と破壊された細胞を再構築した反動で、彼女は深い眠りに落ちていた。
そのベッドの傍らで、銀色のツインテールを揺らし、大粒の涙をボロボロと零しているのはクロエだった。
彼女の背中を、出立の準備を整えたザラが静かに見下ろしている。傍らには、普段のメイド服の上からミスリル合金の胸当てを身につけ、いくつもの魔道具を装備したレナ。そして、静かに祈りを捧げるケントの母、ニナの姿があった。
「……どうして」
クロエが、嗚咽を漏らしながら絞り出すように言った。
「どうしてケントもセリーナさんも、帰ってこないの……? シーナがこんなに酷い怪我をして、いつ目を覚ますかも分からないのに。なんで、そばにいてあげないの?」
クロエの言葉は、一般的な感性を持つ人間として、極めて正常で正当な疑問だった。
愛する者が傷ついたなら、その手を握り、目を覚ますのを待つ。それが普通の愛情だ。
「それなのに、ケントたちはそのままシン大陸に行っちゃって……ザラまで、二人を追ってアマテラスに向かうなんて。私には、全然理解できない……っ」
泣きじゃくるクロエの頭に、ザラは大きな手をポンと置いた。
「おそらく、クロエが言ってる事が正しいんだよ。世間の常識から見りゃ、アタシたちは完全に狂ってる」
ザラは、隻眼の奥にある感情を隠すように、低く淡々と告げた。
「でも、『私達』はそうじゃないんだ。たとえ身内が、いや、自分が死にかけていたとしても……まずは相手を倒すことが先なんだよ」
クロエが、涙に濡れた目でザラを見上げる。
「アタシたちにとっては、相手を皆殺しにすることこそが、一番の『愛する者の守り方』なのさ。別に、自分が戦えなくてもいい。でも、その根本が理解できないなら、あんたはいずれ苦しくなる」
突き放すような、だが確かな優しさを含んだザラの言葉。
彼女は視線を横に向け、物静かに控えているレナを見た。
「レナはどう思う? あんたはアタシらみたいに戦場で血を浴びてきた人間じゃない。クロエと同じ疑問を持ってもおかしくないはずだが」
話を振られたレナは、豊満な胸を揺らして小さく首を傾げた。
「そうですねぇ……正直、私もザラやケント様、セリーナ様はどうかと思いますよ?」
あっさりと肯定するレナ。だが、その直後に彼女の言葉は不穏な方向へと着地する。
「でも、止めて一緒に生きられないのはもっと嫌だし、もし皆さんが死ぬなら一緒に死にたいです。だからこの先もみんなで一緒にいますよ」
レナは、腰に提げた見慣れない魔道具のベルトをポンと叩いた。
「今はオリヴィアさんから貰った、障壁とか魔封じがありますし、やっとザラに付いて行けます! ……そして、ケント様とクフフフフッ……」
最後は完全に自分の性欲と妄想に負け、だらしない笑声を漏らすレナ。
「まったく、アンタって娘は……度胸があるのかアホなのか」
ザラは呆れたようにため息をつき、再びクロエへと向き直った。
「まあ、そういうことさ。アタシらはクロエのことが大好きだよ? でもね、愛と憧れは違うのさ」
ザラは、クロエの濡れた頬を指先で軽く拭ってやった。
「以前はヴォルガン家の商売絡みもあって、お互いに嫌いじゃないし、側室って話もあったけどね。ケントが貴族籍を剥奪されてただの平民になったんだ、それももう無いさ」
ザラの言葉に、クロエがハッと息を呑む。
「カヴァクの文官に、気になる男がいるんだろう?」
「……っ! あ、いや、気になると言うか……まじめだなあとは……」
顔を真っ赤にして俯くクロエ。ザラは豪快に笑った。
「それを不誠実だとか、誰も思いやしないさ。キチンと向き合って、上手く行ったら婿にでもとりゃいいのさ。……やっぱりケントが良いなら、大金持ちになって札束ではたいてやれ」
「……っ」
クロエは両手で顔を覆い、しゃくり上げながらも、何度も小さく頷いた。
「……私は、ここでシーナと待ってます。そして、自分でケントと話します」
「うん。じゃあ、あのバカ達を迎えに行ってくるよ」
ザラが背を向けて歩き出そうとした時、クロエが涙を拭い、顔を上げて宣言した。
「はい! 持ってます。ありがとうございます! ……アタシも、ザラさんみたいな大人の女性を目指します!」
「ははっ、嬉しいこと言ってくれるじゃないか」
「まあ、ザラはクロエちゃんの倍生きてるんだか……イタイイタイイタイですううううう!!」
ザラは能面のような無表情でレナに近づき、その耳を思い切り引っ張り上げた。
「じゃあ、行ってくるわ。ニナさんも、シーナよろしくね」
「はい。……バカ息子、よろしくお願いします」
ニナは深く頭を下げ、静かに見送った。
「ほら、行くよムッツリ」
「だからイタイってばああ! ザラ! ザラ様! すいません私が悪うございましたアアアア!」
耳を引っ張られたまま泣き叫ぶレナの悲鳴を響かせながら、二人は療養室を後にした。
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「ううう……酷いですぅ……」
「アンタはホンット、懲りないよねえ」
レナの耳を離し、ザラは、足早にルミナス侯爵の屋敷へと向かっていた。
侯爵邸に到着すると、そこには異様な光景が広がっていた。
二十人ほどの、ハーン国の兵装に身を包んだ男たちが待機していたのだ。
その先頭に立つのは、見知った顔――ハーン国の将軍であり、新女王の王配となったデックスだった。
「デックス。何してんだい?」
ザラが眉をひそめて問うと、デックスは生真面目な顔で一礼した。
「ザラ殿。ハーンからは、暇を貰ってきました。『友人』のケント殿を迎えに行くなら、お付き合いさせてください」
一国の軍のトップが、公式な任務でもなく他国の平民(元伯爵)を迎えに行くなど、通常であれば外交上の大問題だ。
ザラが視線を横に向けると、侯爵邸の入り口に、ルミナス侯爵が立っていた。
「公的な身分も無く、ただ友人を迎えに行くと言うのだ。問題はあるまいし、何かあっても私がどうにかするさ」
老獪な政治家は、悪党のような笑みを浮かべて言い切った。
ザラは口角を上げ、デックスの肩を軽く叩いた。
「フフッ。随分といい漢になったじゃないか。……死んでも知らないよ?」
「私は死にませんよ」
デックスは真顔で、極めて真剣なトーンで即答した。
「ルダと約束しましたからな。いや、あいつは可愛くてですね。女王してるキリッとしたのも良いのですが、甘えて……」
「わかった! わーかったって!」
突如として始まった極太のノロケ話に、ザラが両手でバツ印を作って物理的に会話を遮断する。
「……え、コイツってハーンでもこんな?」
ザラが後ろの二十人の兵士たちに視線を向けると、彼らは一様に苦笑いしながら無言で頷いた。
「でも、わざわざ来てくれて嬉しいよ。じゃあ、まずはアマテラスに向かおうか」
ザラは大剣の柄を握り直し、東の空を見上げた。
一行は、ルミナス侯爵に見送られながら、ノキアの最東端に位置する港町、フェナブへと発った。
かつて、コーレルの自爆テロにより、ケントの心に消えない呪いが刻まれたその場所から、彼らは海を越え、狂犬たちが暴れ回るシン大陸へと旅立つことになる。
それは、血塗られた復讐劇の終着点を見届けるための、船出だった。




