第103話:千年の孤独と、影の英雄
ハーン王都、王城内の一室。
薄暗い執務室の中で、デックスは報告書に目を通しながら冷たい息を吐き出す。
彼がケントたちに提案した「偽の軍議」による情報戦は、見事に功を奏していた。五つの部隊に分け、それぞれ別のルートからギークの都へ逆侵攻を行うという偽の情報を、王宮内の主要な派閥ごとに少しずつ内容を変えて意図的に流出させていた。
そして、各ルートに極秘裏に放った斥候からの報告が今、彼の前に出揃っている。
第一から第四のルートには、不審な影は一切なかった。だが、第五のルート――ある特定の派閥にだけ流した作戦経路の街道沿いに、ギーク人とは明らかに異なる、高度な隠密技術を持った未知の斥候が複数確認されたのだ。
「……間違いない。第五ルートの情報を流した先、そこに内通者がいる」
デックスは机上の羊皮紙を強く指で叩いた。その情報を意図的に流した相手は、長きにわたりハーン王宮において要職を占め、数多くの優秀な侍従や後宮の侍女を輩出してきた名門貴族だった。
「ダーマー子爵家。まさか、代々王家に仕えてきたあの忠臣が……」
信じがたい事実ではあったが、証拠は完全に揃っている。国の中枢深くに食い込んだ毒牙を引き抜くため、デックスは即座に直属の精鋭部隊を動かした。
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その夜、ダーマー子爵家の屋敷は、デックス率いる武装した兵士たちによって完全に包囲された。
血を見る覚悟で門を突破しようとしたデックスだったが、予想に反して屋敷の門は固く閉ざされてはおらず、むしろ来客を歓迎するかのように開け放たれていた。
警戒しながら足を踏み入れた屋敷内には、逃げ惑う使用人の姿もない。水を打ったような静寂の中、案内された奥の書斎で、当代の当主であるダーマー子爵がただ一人、静かに椅子に腰掛けていた。
「お待ちしておりました、デックス将軍」
初老のダーマー子爵は、武器を取ることもなく、穏やかな表情でデックスを迎え入れた。その机の上には、うず高く積まれた古い書類や羊皮紙の束が整然と置かれている。
「ダーマー子爵。……言い逃れは聞きません。貴方たちが他国に情報を流していた内通者であるという確固たる証拠は揃っています」
デックスが剣の柄に手をかけながら鋭く言い放つと、子爵はゆっくりと首を横に振った。
「言い逃れなど、するつもりはありません。むしろ、この日が来るのを……私のみならず、ダーマー家の歴代の当主たちは、何百年もの間、ずっと待ちわびていたのですから」
「何百年、だと……?」
予想外の言葉に、デックスは眉をひそめた。子爵は静かに立ち上がり、机の上に積まれた膨大な資料の束を愛おしそうに撫でた。
「ここにあるのは、我がダーマー家が千年以上にわたり、ハーン国を守るために行ってきた血と涙の記録です。……どうか、私の話を聞いてはいただけないでしょうか」
子爵の口から語られた真実は、デックスの想像を絶するほどに壮絶で、そして悲惨なものだった。
「かつて、我々の先祖がヴェレツケールよりこのニューヴェ大陸に降り立った際、王族の内部で激しい争いがあったことはご存知でしょう。敗れ、袂を分かった一派は、砂漠の奥深くへと姿を消しました。……しかし、その時、砂漠へ連れて行かれず、敵に近いハーンに『間者』として残された者たちがいました。それが、我々ダーマー家の始まりです」
子爵の言葉に、デックスは息を呑んだ。
「では、貴方がたは最初から、ハーンを滅ぼすための『草』として……」
「建国当初は、その使命感に燃えていた者もいたでしょう。しかし、実際に間者として活動する機会が訪れるまでに、かなりの期間が空きました。その間、我々の先祖は王城で必死に働き、ハーンの国作りに貢献しました。そして、気づけば……我々ダーマー家は、ハーンという国を、そこで生きる人々を、心から愛してしまっていたのです」
子爵の目に、微かに涙が光った。
「やがて、砂漠の向こうの勢力――彼らは独自の魔導技術で転移装置を完成させ、別の大陸へと渡り『シン』という巨大な国家を築き上げていました。そのシン国から、ついに我が家へ『間者として動け』という指令が届いたのです。当時の当主は激しく葛藤しました。ハーンへの愛着と、血の宿命の間で」
そこで子爵は、怒りと憎しみを滲ませて拳を握りしめた。
「しかし、シンからの密使はこう言い放ちました。『別に断っても構わない。お前の家が我々の間者であることを、ハーン王家に密告するだけだ。他にも草はいくらでもいる』……と」
その言葉こそが、決定的な亀裂だった。
「その瞬間、我が家のシンへの忠誠は完全に消え失せました。彼らにとって我々は、単なる使い捨ての駒に過ぎなかった。……その日、当時の当主は、誰にも告げることなく、ただハーン国のためだけに生きることを一族の命運として決意したのです」
デックスは言葉を失っていた。
敵国からの脅迫を受けながら、彼らはどうやってハーンを守ってきたというのか。
「我々は、シンから密使が来るたびに要求を突きつけました。『他の間者がいると情報が交錯して動きづらい』『王都近辺だけでも、我が家に間者を一本化させてほしい』『欺瞞情報を精査するため、ハーン内を完全に掌握したい』……そう言ってシンを騙し、ハーン内に潜む他の間者たちを炙り出していったのです」
子爵は、机の上の資料の一部を示した。
「見つけた間者の中には、密かに連絡を取り、説得して間者を辞めさせた家も数多くあります。彼らには、間者であった過去を伏せさせました。何世代か経った今では、自分たちの家がもともと間者だったことすら忘れ、純粋にハーンに忠誠を誓う立派な貴族として生きている家も多い。それが、我々のささやかな救いでした」
「では、シンにはどのような情報を流していたのだ……?」
「渡す情報は、厳密に選別しました。有用な情報を少しだけ混ぜて間者としての信用を保ちつつ、根底には常に『今はハーンに攻め込むのは得策ではない』と思わせる情報操作を行いました。……先の大王がノキアに侵攻を企て、国を傾けた時でさえ、『あれは先遣隊に過ぎず、王都にはまだ強大な防衛戦力が残っている』と虚偽の報告をし、シンの襲撃をすんでのところで抑えていたのです」
子爵の言葉の重みに、デックスは目眩すら覚えた。
「なぜ……そこまで国のために働きながら、真実を明かさなかったのです」
「明かせるはずがありません。ここ数代のハーンの王は、前王を含め、自らの権力に溺れる愚物ばかりでした。もし我々が真実を白状すれば、彼らは恐怖から我々を処刑し、シンの存在に怯え、国は内側から崩壊していたでしょう。……だからこそ、我々は泥をすすり、血を吐きながら、秘密を抱え続けるしかなかったのです。密使から情報を引き出すため、莫大な金銭を払い、時には家人の体を差し出してまで……全ては、いつかこの真実を正しく受け止められる王が現れた時、全ての情報を国に渡し、裁きを受けるためでした」
ダーマー子爵は、深く、深く頭を下げた。
「しかし、今回は私の見通しが甘かった……。先王がノキアに大敗し、国力が低下したことは隠しきれない。故に、その事実をありのまま伝えた上で、『ハーンは交戦した相手国と友好を結び、強力な軍事力を持つ同盟国ができそうだ』と報告したのです」
「同盟国の存在を匂わせることで、今までのようにシンの侵攻を諦めさせるつもりだったと?」
「はい。今までのシンの指導部であれば、未知の強大な軍事力を警戒し、確実に手出しを止めていたはずです。……しかし、今回は違った。彼らはあえてノキアの存在を伏せた上で、現地のギーク人に大規模な攻撃を唆したのです。ノキアの援軍でギークが潰れてもよし、ハーンが滅びてもよしという、極めて冷酷で好戦的な判断。……間違いありません。シン国の本国で、何らかの大きな動き――指導部の交代か、方針の転換が起きたのです」
子爵は床に膝をつき、両手をついてデックスに懇願した。
「私の判断の誤りが、結果としてギークの三万の軍勢を招き、ハーンを滅亡の危機に陥らせてしまいました。……我がダーマー家は、反逆罪として取り潰し、処刑されて当然です。いかなる極刑も受け入れます。ですが……どうか、何も知らされずに働いていた家人たちや、私が渡した資料に記されている『元間者の家』にだけは、王家の恩情を賜れないでしょうか。彼らは何も悪くありません。どうか、どうか……っ」
床に額を擦りつけ、声を震わせて泣き崩れる老子爵。
デックスは、その悲壮な姿を見下ろしながら、激しい感情の波に襲われていた。
これが、反逆者だろうか。
千年もの間、誰にも知られることなく、絶望的な孤独の中で国を守り続けてきた彼らを、誰が裁けるというのか。
机に積まれた書類の山は、ハーン国そのものの命脈を繋いできた、尊い犠牲の結晶だった。
「……顔を上げてください、子爵」
デックスは剣から手を離し、静かな、しかし確かな敬意を込めた声で言った。
「貴方がたの千年分の忠誠と、この莫大な情報……確かに受け取りました。貴方がたの処遇については、新女王ルダ陛下が、必ずや正しき裁きを下されるでしょう」
デックスの言葉に、子爵は涙に濡れた顔を上げ、安堵したように小さく微笑んだ。
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屋敷の制圧と、膨大な資料の押収を部下に命じた後、デックスは執務室に戻り、夜が白み始めるまで子爵が残した資料を読み漁った。
そこには、別大陸に渡った「シン」という国家の恐るべき実態と、彼らがアマテラスという国を狙っているという事実が克明に記されていた。全てが、ケントの懸念を裏付けるものだった。
事態は一刻を争う。
デックスは真新しい羊皮紙を引き寄せ、急ぎ筆を走らせた。ギークの都を占領し、長老たちから情報を引き出せずに手詰まりになっているであろうケントたちへ、この衝撃的な真実を伝えるために。
『ケント殿へ。内通者の確保に成功しました。敵の正体が判明。
黒幕は、かつてヴェレツケールからニューヴェに降り立ち、ハーン王家と袂を分かった王族の一派。驚くべきことに、彼らは独自の魔導技術で転移装置を完成させ、すでに別の大陸へと渡り、新たな国家を建国していました。
その国家の名は――「シン」。』
インクを乾かしながら、デックスは窓の外を見た。
東の空が白み始めている。だが、ハーン国を、いや、この世界全体を覆おうとしている影は、かつてないほどに深く、濃いものだった。




