【西の厭戦、東の乱戦】
一四六九年、西軍の畠山義就が西岡を制圧し、大内政弘が摂津に侵攻した。しかし、京周辺で西軍の攻勢が続く中、越前では東軍の斯波義敏方が優勢になっていた。
前年閏十月十四日、京で交戦していた西軍の朝倉孝景は、斯波義敏方に越前国の大半を制圧されたため、越前に下ると言い出し、そうした。越前に帰国後も義敏方に苦戦する孝景に、将軍足利義政と伊勢貞親は目を付けた。東軍に寝返るよう、工作を始めたのである。
一四七一年四月、伊勢貞親は公家の万里小路春房とともに遁世した。そのため、朝倉との交渉は赤松政則が引き継いだ。
『御方に参り、忠節を致さるべきの由、御申し、誠にもって神妙に候』(朝倉家記)
”味方(東軍)にまいり忠節を尽くすとの申し出、まことに神妙である”
五月二十一日、足利義政からの御内書が、朝倉孝景のもとにもたらされた。孝景を東軍に寝返らせたのである。六月、孝景は越前で、息子の氏景は京で、東軍方となったことを表明した。これにより、京への重要な補給路となる越前が西軍から東軍に転じた。東軍の優位が確立したのである。なお、この時、義政からもらった御内書は、朝倉氏内で「国拝領御判」と呼ばれ、越前国守護職に任命する書状であった研究者たちの間でも長年にわたって理解されていたのだが、守護の任命は、御内書ではなく「御判御教書」でなされるものである。では、肝心の「御判御教書」は下されたのかというと、細川勝元も「発給されるように取り計らう」と調子のよい書状だけは届いたが、「御判御教書」はついに発給されなかった。ゆえに孝景は、せっかく東軍に寝返ったのに、義政から越前守護に任命されることもなく、義政からの御内書をもって、越前国を拝領したと内外に強弁し、はったりをかますしかなかった。孝景は義政に騙されたのである。
朝倉の東軍への寝返りの動揺を抑えるため、西軍の大内軍は南山城で攻勢に出た。そのため、戦線は膠着した。細川勝元・山名宗全は、徐々に厭戦気分を持ち始めた。勝元は長陣に倦んで、禅道の修行や医学書の編集に熱中するようになり。宗全は高齢のため一四七〇年には中風を患って、書状に自署すらできなくなった。
一方、一四七一年三月、関東。『鎌倉大草紙』によると、千葉・小山・結城ら古河公方軍が、大挙して箱根山を越え、伊豆の三島に攻め入った。上杉方の矢野安芸入道が足利政知に味方して攻めかかったため、成氏方の先手は敗れて相模に退き、(上杉顕定家臣)宇佐美孝忠に敗れ、古河に帰っていった。好機到来と見た長尾景信は武蔵・上野勢を動員し、東の下野児玉塚に布陣した。だが、一度は加勢を申し出た佐野家が古河公方・足利成氏に従い続ける姿勢を見せたため、岩松軍が西の佐野城を攻める間に、五十子に撤退した。
これに勢いを得た足利成氏軍は、上野国新田荘・佐貫荘に西進し、利根川を挟んで、五十子の近くまで迫った。だが、新田荘と佐貫荘の間に位置する金山城の横瀬国繁らが七十日以上の籠城に耐えたため、成氏軍の攻勢は止まった(松陰私語)。
これに対し、上杉方が再び攻勢に転じた。四月十五日、上杉勢は足利荘赤貝城を陥落させ、更に東の佐野荘八木門城を落とした。更に、五月二十三日、南の舘林城を攻め、城主を降伏させた。上杉方には、太田左衛門大夫が加わり小田太郎・佐野愛寿が転じ、ついに古河城を陥落させた。六月二十四日、足利成氏は辛うじて本佐倉の千葉孝胤を頼って落ち延びた。八月、成氏は千葉孝胤・結城・里見・武田の支援を得て再起し、一四七二年春古河城を奪回した。上杉軍は成氏のしぶとさを実感した。
一四七二年、淀川沿岸の大山崎を東軍赤松氏が、東国への玄関口であった近江を東軍京極氏の家臣の多賀高忠がそれぞれ抑えたことにより、東軍の優位が決定的になった。一月、畿内。東西両軍の間で内々に和平交渉が行われた。しかし、東軍の赤松政則が山名から奪回した播磨を返還することになるのを恐れ、これに強く反対し、失敗した。三月、細川勝元も養子勝之らと髻を切ったという噂が流れた。これによって、勝元の正室である宗全養女が生んだ聡明丸(政元)が細川家の家督に定まった。山名宗全の外孫が細川家当主になることが決まったのである。和睦工作の一手であった。四月、宗全が錯乱状態に陥り、狐につかれているのではないかという噂が流れ、五月、宗全が切腹しようとし、家臣たちの制止でやっと一命をとりとめた。八月、宗全は山名家の家督を孫の政豊に譲った。勝元と宗全は、自ら身をひくことで大乱に決着を付けようと考えたのであろう。




